本因坊挑戦者リーグの第2戦目の相手は、倉田さんだった。 大柄でちょっと(いやかなり)変わっているこの人とは、何故だか昔から縁があって、プライベートでも何度か打ったことのある人だった。 殊にオレは、入段したころから倉田さんと比較されることが多かった。 囲碁を初めて2年足らずでプロになったこととか、特定の師匠を持っていないこととか。 その度に倉田さんは「こんなチンチクリンなヤツとオレを一緒にしないでほしいよな!」と文句を言っていたっけ。 決して口はいい方ではないし、ワガママでジコチューな人でもあるし。(その辺も大人たちから見れば、オレと倉田さんは似ているのかもしれないけど) でもオレは、この人が嫌いではなかった。むしろ好きだった。 倉田さんも、口では悪いことを言いつつも、オレのことはよく構ってくれていた。 そんな倉田さんと公式で当たるのは、2回目だった。 倉田さんは、「やぁっとお前と挑戦者リーグで戦えるな!」と喜んでいた。 オレも嬉しかった。嬉しかったから、喜びたかった。 でも、喜べなかった。 そこまでの余裕が、今のオレにはなかった。 その時思っていたのは、ただ、ただ。 ただ、この人に勝ちたい。 たとえ、どんな手を使ったとしても。 そうして打ったオレの碁は、オレの碁ではなかったのだ。 倉田さんは普段の素行や外見とは違って、実際はとても繊細で鋭い人だ。 そんなオレの碁は、すぐに見抜かれてしまった。 「……お前、誰の碁を打ってんの?」 終局後の、倉田さんの言葉。 その言葉を聞いた瞬間、オレの目の前は真っ暗になってしまった。 意識を失う瞬間、アイツの後ろ姿が見えた気がした。 顔は見えなかった。 佐為、佐為。 お前の顔が見えないよ。 どうしよう。 ニルヴァーナ nirvana act.10 本因坊挑戦者リーグはまだ始まったばかりで、2戦目を終えたばかりだった。 全部で7人いる挑戦者たちと総当たり戦で当たっていき、優勝したものが本因坊戦への挑戦権を獲得出来る。 本因坊戦は5月の初旬頃から行われる。 オレの当初の目論見としては、出来ればこの挑戦者リーグは全勝で突破したい。そうすれば、3月には恐らく挑戦権を獲得出来るはずだ。すると本因坊戦まで約1カ月半空くことになる。その間に手術を受けて完治し、完全な状態で本因坊に挑戦する──それが、オレが頭の中で勝手に描いていた未来予想図だった。 オレは焦っていた。自分の身体が想像以上にあまり良くないことはわかっていた。 だからこそ、挑戦者リーグは1敗も出来なかった。 どんな手段を使っても、勝ちたかったのだ。 それでオレが取った方法は、佐為の碁を真似ることだった。 佐為になりきろうと思った。 佐為のように打てば、絶対に勝てる。佐為が他の誰にも負けるワケがないのだ。 そんな思いで打った碁は、倉田さん相手にも勝つことが出来たのだ。 だが、当然オレという「進藤ヒカル」の存在は、盤面から消え失せていた。 あまりに完璧で美しい碁に、記者や周りの棋士たちは褒めてくれた。 「研ぎ澄まされた碁」「進藤ヒカルも一皮むけたようだ」「病身の身で、よくここまで成長したものだ」と。 だけど、対戦相手だった倉田さんだけは違った。 「……お前、誰の碁を打ってんの? オレは、進藤ヒカルと打ちたかったんだけど」 その言葉はオレを打ちのめすには十分で。 佐為になりきろうとしたことによる疲労と、その倉田さんの言葉による精神的な打撃とで、オレは対局後にバッタリと倒れてしまった。 そしてまた入院生活に戻り、現在に至るワケである。 塔矢は、ちょうどオレと倉田さんの対局のあった5日前から、名人戦の第7局のために東京を離れていた。 程なくして、塔矢が名人を獲得したというニュースが飛び込んできた。 アイツが心から願っていた名人を、漸く獲得することが出来たのだ。 嬉しいはずだった。だけどオレはやっぱり、喜ぶことが出来なかった。 塔矢は帰ってきたら、オレと倉田さんの棋譜を見るはずだ。 そして何て思うのだろう。 この世で、佐為のことをオレの次によく知っているのはアイツだ。気づかないはずがない。 軽蔑するだろうか。怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。 どれも嫌だ。塔矢には会いたくない。今のオレのこんな姿を、見られたくない。 そして──なによりも塔矢はまた、オレを残して先へと進んでしまった。 どんなにアイツの背を追いかけても追いつけない。 いつも塔矢は、オレを置いていってしまう。 そうしてオレはまた、あの日のように一人ぼっちになってしまうのだろうか。 そう思うと、悲しくて仕方がなかった。 怖い、怖い。 塔矢に会いたくない。 なのにアイツは、またこの病室へとやってくる。 怒っているとも悲しんでいるとも言えないような、複雑な表情で。 そんな塔矢の顔を見たオレは、苦し紛れに茶化すような口調で「あれ、なんか来ちゃったよ」と言った。 すると、塔矢の「ふざけるな」という小さな声が聞こえた。 塔矢。
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