出版部での打ち合わせを終えて一階まで降りると、まだ明るい外の光が見えた。
腕時計を見る。──午後3時。
どうやら予定よりも随分と早く打ち合わせは終わってしまったらしい。
次の仕事までかなり時間がある。なんだか中途半端に空いてしまったな。

そう思いながらポケットを探り煙草を取り出して銜え──ああそういえば全館禁煙だったのだと思い出し、慌てて口を離す。まったく、過ごしにくい世の中になってしまったものだ。
そう思いながらふと、足を止めてロビーを見渡してみる。
平日のせいか──いや、GWの前日だというのにロビーに見える人の姿は疎らだった。
少し前までは、ここが若い女やガキ共で埋まっているような日々もあったんだがな。


そんな遠い日のことを思いながら、フウと息をついて外を見上げる。


よく晴れた5月の青い空は、遠くまで見渡せそうだった。
そんな空を見上げる度に思い出す、遠いあの日。




この時期になると、どうしてもあの日のことを思い出さずにはいられなかった。




そうしてもうすぐ玄関、というところで目の前に昔からよく見慣れた黒髪が見えた。
幼い頃はオカッパだったその髪は、今では肩につくくらいの長さになっている。
昔からよく知る──それこそ彼が生まれた時から知るその名前を、オレは呼んだ。





「アキラくん」






名前を呼ばれて振り返った彼は、オレを視界に入れて僅かに息をつく。
呆れているのか、それとも諦めているのか。
この棋院で、とうに30も過ぎたこの男を未だに「アキラくん」などと呼ぶ人間はオレ一人しかいない。
そもそも本来ならば「塔矢名人」と声を掛けるのがスジというものだろう。

だが、そうはいくか。
オレにとってはお前は今も昔も変わらぬ、「アキラくん」なのだから。

「緒方さん、こんにちは」と穏やかに挨拶をする彼に、オレは「これから帰りかい」と声を掛けた。


「今日は研究会だったな? 塔矢アキラ門下の」
「ええ。でも3時間程時間が空いてしまって…どうしようかなと」
「何だ、お前もか。
 だったらたまには実家にでも顔を出したらどうだ。もう暫く帰ってないそうじゃないか」
「ちょっと、忙しかったものですから」


現在の碁界最強の男は、そう言って少し疲れたように笑う。
それはそうだ。一つばかりタイトルが足りないが、オレだってかつて複数のタイトル保持…というのを経験したことがあるのだ。
「フン、4つもタイトルを持っていればそりゃ忙しいさ」と言いながら漸く銜えることの出来た煙草に火を付けると、オレは彼に駐車場へと行くように促した。


「今からちょうど先生のところへ顔を出しに行こうと思っていたんだ。時間があるなら付き合え」




そうしてオレの車──年季の入った赤いスポーツカーの助手席へと彼を乗せ、彼の実家──塔矢行洋先生の自宅へと車を走らせて行った。





++++++






静かな車内の中、オレの煙草の煙を吐く息だけが響く。
アキラくんはあまり他人と好んで喋る方ではないし、それはオレにもいえることであ
る。
そしてオレは、運転中にラジオや音楽を聴くことはない。

漸く五月蠅い世間から離れて一人となれる空間に来たのに、何故そこで自ら騒音に身を包まねばならんのかオレには全く理解出来なかったからだ。
車の中はいい。静かで、そして運転という行為に集中出来る。つまり、この煩雑な世界で容易く己の領域を作ることの出来る場所なのだ。
この狭い空間で運転している時が最も自分に──つまり囲碁に集中できる時間でもある。
運転中に新しい一手を思いつくことも少なくない。だからオレは車の運転が好きだった。

そんなことを考えながらアキラくんをチラリと見ると、彼は何をする訳でもなく、ぼんやりと流れる窓の外の景色を眺めている。オレは短くなった煙草を灰皿の中へと放り込んで火を消し、赤信号で車が止まった隙に新しい煙草を銜えながら彼に向かって声を掛けた。


「お前もいい加減に車で移動するようにしたらどうだ」


そう言いながら煙草の白い煙を吐く。
アキラくんは変わらずに天気の良い外の景色を眺めながら、徐に口を開いた。


「棋院が家から近いですからね。わざわざ車で移動するほどの距離でもないですし」
「四冠棋士が電車通勤か。車庫に眠ってるポルシェが泣くぞ」
「休みの日には乗ってますよ」
「ナントカは遠くになりにけり──もう今や囲碁ブームも遙か昔の出来事だからな。
 昔はおちおち電車に乗るのも大変だった頃もあったのにな?

そう言ってオレは遠い昔の日──アキラくんもまだ若かった頃のことを思い出していた。
20歳頃の彼は世間の囲碁ブームにも相まって、囲碁とは関係のない女性向けの雑誌などにさながらモデルかアイドルのように掲載されていたような日々もあったのだ。
そんな彼の過去の栄光──いや、苦い思い出を思い出しながらオレは思わずククッと笑った。
若き日の話、いわゆる「若気の至り」を持ち出されて気恥ずかしくなったらしい彼は、ゴホンと咳をして話題を変えようと試みる。


「お、緒方さんこそ。いい加減に他の車に乗り換えたらどうです」
「なに?」


なんとかオレに反撃したいらしいアキラくんは、オレの愛車を眺めながら言う。


「もうこの車も随分年季モノじゃないですか。それに…その、緒方さんも」
「いい歳のクセに、赤いスポーツカーなんぞに乗るなって?」


反対にオレが自分からツッこむと、アキラくんは戸惑いを隠せずにゴニョゴニョと口籠もった。
他人の悪口なんぞ言えないくせに、このオレに口で逆らおうとするからだ。
胸一杯に吸い込んだ煙草の煙を盛大に吐き出すと、オレはフンと鼻を鳴らして彼の言いたかったであろう言葉を代弁した。


「確かにこの車もかれこれ15年以上乗ってるからな……そろそろ潮時か」
「愛着があったんですね」
「その助手席には随分と色々なヤツを乗せたモンだ。一番乗ってるのは、アキラくんか芦原のヤツか」
「女性じゃないんですか」


珍しく人をからかうような口調で言う彼に、オレは「同じ女を何度も乗せる程、オレも落ちぶれてないんでな」と答えると再びフウッと白い煙を吐き出した。



煙草の煙がフロントガラスを僅かに濁らせたその時──ふと過去の思い出が頭の中を過ぎる。



この「5月」という季節のせいなのか、それとも隣に彼を乗せているせいなのか。
オレはフロントガラスの向こうに見える遠くの景色を見つめると、小さな声でポツリと呟いた。









オレの頭の中を通り過ぎた──遠いあの日の出来事を。













「……そういえば、一度だけアイツをその席に乗せたこともあったな」
「──……」
「本因坊戦の後だったか。息を切らしながら笑ってた」
「………」
「あれ程、ハンドルを握る手が震えたことはなかった」




暖かい日、あれも春だったか。
静かな声でそう言うと、オレは溜息ともつかぬような息を漏らした。
そして横に座る顔をチラリと見る。だが彼は、特に表情を変えることもなく黙って前を見据えていた。
オレはもう一度胸一杯に苦い煙を吸い込みながら、遠い日のことを頭に思い描きつつ隣の顔に向かって再び口を開いた。


「本因坊戦が始まるとつい感傷的なっていかんな」
「…今年は倉田さんが挑戦者でしたね」
「オレはお前が来ると思ってたんだがな。…まさか、あの日のためにわざと倉田に負けたんじゃないだろうな」


オレがそう問い質すと、彼は僅かに笑って「まさか」と言った。
表情を変えぬまま、感情を乱すことのないままそう返事をする彼に、オレは「ならいいがな」と言ってハンドルを握り直す。
そしてもう一度彼の方をチラリと見て、オレは再び静かに声を掛ける。


「……今年もまた行くのか」
「ええ」
「明日?」
「ええ」


前を見据えたまま淡々と返事をする彼。
幼い頃から冷静で、大きく感情を乱すことのなかった彼。

だが以前の彼は、ここまで静かな男ではなかった。

ヤツが絡んだ時だけは違っていたんだ。
ヤツが絡んできた時には彼は酷く感情を乱し、声を荒げ、時には涙を流したり大声で怒鳴ることさえあった。

オレは冷静で物静かなアキラくんも好きだったが、ヤツと一緒にいて激しく乱れるアキラくんも好きだったのだ。
だがそんな姿も、ヤツが去ってしまったその日からもう見ることもなくなってしまった。







そして明日──彼はヤツの幻影を求めて、再びあの地へと赴くのだ。







オレは先程胸一杯に吸い込んだ苦い煙をゆっくりと吐き出すと、「そうか」と小さな声で呟いてハンドルを切った。
オレとアキラくんを乗せた古いスポーツカーはゆっくりと右に曲がり、彼の実家がある路地へと入っていった。