大人になるっていうのは、どういうことなのだろう。 お金を稼ぐために、働くこと? 責任を持って、仕事を全うすること? 選挙に行くこと? 税金を払うこと? 一人で生活すること? セックスをすること? 嘘を吐くこと? 本当に言いたいことが、言えなくなること? そんなこともわからないまま21歳になり、世間的には成人と言われる年になって。 2007年、プロ棋士という職業に就いてから6年。 叫びたいことも叫べぬまま、今日もオレは変わらずに碁盤の前に座っている。 Kiss & Cry Presented by innocent world 毎週土曜、午後1時。決まった曜日、決まった時刻。 週に一度、和谷の家で勉強会が開かれている。 確か第1回の北斗杯があった頃にこの勉強会は始まったはずだから、かれこれ5年にもなるのだろうか。和谷主催で行われる若手中心のこの勉強会は、未だ変わらず和谷のアパート、そして未だ変わらぬほぼ同じメンツで行われている。和谷、オレ、小宮、伊角さん、越智、冴木さん、門脇さん、本田さん、紅一点の奈瀬……それから2年前からメンバーに加わった岡、庄司。そんなところだろうか。 和谷が仕事などで勉強会自体の開催が不可能になる以外は必ず行われていて、基本的に参加は自由。だがオレも含めて皆、よっぽどの事情がない限りは必ず参加している。 5年前と今も変わらずあの狭くて汚いアパートに住んでいる和谷の家は、土曜は男ばかりで満員になってしまうのだ。 「いい加減に引っ越せばいいのに」 鳥の唐揚げを摘みながら一言、和谷にそう進言したのは冴木さん。すると皆も「そうだそうだ」と一斉に口を開く。和谷は少し生温くなったビールを口に含みながら「そうは言うけどさ」と言った。 「もう5年も住んでるとなー…。意外と居心地がいいんだよ」 「まあ、確かに悪くないけどな。居心地は」 「駅からも近いし、コンビニも目の前だし」 「それにあのビミョーな狭さと汚さ具合が、逆に落ち着くんスよね」 庄司のその言葉に、和谷は「なにぃ!? 」と言って立ち上がり、「生意気だぞ、お前!」と言いながら手元にあったおしぼりを庄司に向かって投げつけた。そんな和谷を見て、皆ビールジョッキを片手にワハハハと笑う。これも毎週土曜日、必ず見る光景。 午後1時から行われる勉強会は、大体いつも夜の8時頃には終了する。ちょうどそれくらいの時間がキリが良いことが多かったり、飽きてきたり、ネタが尽きたり、腹が空いたり、理由は色々。でも時間はいつも、大体8時。 そしてオレ達はいつも同じ居酒屋に行き、いつも同じ席に座り、いつも同じような料理を頼み、そして大体いつも同じような話をするのだ。 今週行われた各自の対局内容、注目の対局、タイトル戦、海外の話、ネット碁の話、和谷の家の話、冴木さんのカノジョの話、門脇さんの子供の話、越智の家の自慢話──大体いつもと同じそんな話題が繰り返し話されるのだが、今日だけはいつもとちょっと違った。 テーマは「最近話題の碁界スキャンダル」。 どこからこの話になったのだろう。冴木さんのカノジョの話からだろうか。いつの間にか話題は男と女の話になり、そして自然と今碁界を賑わせているアノ話題になった。 冷静になってよく考えてみると、大した話ではない。某実力派のベテラン棋士が、某女流棋士と不倫関係にあるというのだ。どうでもいいことだった。どうでもいいことなんだけど、普段は静かな碁界からこういった話が出るのは珍しく、皆一斉に飛びついた。だから今では、棋士が数人集まったりすると必ずこの話題になったりするのだ。 「しかし、誰なんスかね。この某実力派棋士と若手女流棋士って」 焼き鳥を銜えながら庄司が口を開いた。そんな庄司に、冴木さんがビールを飲みつつ答える。 「さあなあ。皆ウワサはするけど『誰が』とは言わないし」 「マスコミも報道しないってことは、その実力派棋士ってのが結構な大物なんだろうな」 棋院から差し止めくらってるか。 そう言った門脇さんの言葉に、庄司が益々興味津々といった感じで目をキラキラとさせた。それに釣られるようにして、皆も口々に好き勝手な言葉を吐いていく。 「マジすか? 誰なんスかね。緒方三冠とか?」 「それはないだろう。あの人、そんな迂闊じゃなさそうだし」 「桑原先生だったらどうする? 未だ現役!って感じで」 「うわー、やめてくれ! 想像したくない!」 「女の方も、もう少し考えろよ〜ってカンジだよな」 和谷が最後にそう言って、皆でギャハハと笑っていたところに──ドスの効いた低い声が響いた。 「悪かったわね」 …………──え? 一斉に声のした方を振り向く。 するとそこにはビールを飲みながら顰めっ面をしている紅一点──奈瀬の姿があった。 若手女流棋士って、まさか。 決して声に出すことなく、皆が心の中でそう呟いた時。奈瀬が皆の引きつった顔を見渡して小さくフッと笑った。 「なーんちゃって。私のワケないでしょ」 「……っ」 「だっ……だよなぁ! 何だよ、ビビらせんなよー!!」 「マジ焦った〜!!」 ペロリと舌を出して悪戯っぽく笑う奈瀬の姿を見て、一瞬にして凍り付いた空気は生暖かい空気へと融解してゆく。そして皆は安堵の息を漏らしながらギャハハと大声で笑った。 結局その話は奈瀬のタチの悪い冗談で幕引きとなり、話題は先週行われた名人戦へと移っていった。 そうして1時間ほど過ぎた頃、電車もなくなるから、とお開きになった。時刻は11時。 大体いつも同じ時間だ。テーブルでキッチリ割り勘の計算をして金を出し合い、和谷が代表してレジで会計をしている頃、酔いを醒ましたくて先に外へ出て夜風に当たっていたオレの傍に、いつの間にか冴木さんが立っていた。そして煙草を銜えて、店で貰ったマッチで火を付ける。 フーッと吐き出した白い煙が夜の闇に溶けてゆくのを見ながら、冴木さんは独り言のようにポツリと呟いた。 「さっきの話、本当に嘘かな」 「え?」 「奈瀬の話」 冴木さんの思わぬ言葉に、オレは驚いて振り向く。 冴木さんはオレの方を見ることなく、そのまま独り言のように言葉を続けた。 「嘘だって確証はないよな、何処にも」 「でも奈瀬が違うって」 「本当のことを言ってみたかっただけかもしれない」 冴木さんの吐き出した白い煙は、ユラユラと揺れながら夜空に消えてゆく。そして初めて、冴木さんはオレの方をチラリと見つめながら口を開いた。 「進藤はない? 本当のことを叫びたくてたまらない時」 「……冴木さんはあるの?」 「あるよ。オレは嘘吐きだからね」 そう言って冴木さんはククッと笑った。そして黙ったままのオレを見て「進藤にはそういうのないか」と言った。オレが「何で?」と尋ねると、「お前って嘘が下手そうだからな」とからかうような口調で言った。オレはそんな冴木さんに「もー何だよそれ、子供扱いしてさ」と文句を言いながらわざと子供っぽく、怒ったフリをした。 そう、怒ったフリだ。 冴木さんは本当のオレを知らないから。 本当のオレはすごい嘘吐きで、決して誰にも言えない秘密を抱えていて。 オレの中は、叫びだしたいことばかりで埋め尽くされているんだよ。 でもそんなオレを、ここにいる皆は知らないから。 知られないように、オレはまた嘘を吐く。自分の中に、叫びだしたい言葉を封じて。 オレの秘密がバレたら、ここにいる皆はオレから離れてゆくだろう。 奈瀬の話どころじゃない、スキャンダルなんてモンじゃ済まない、オレの秘密。 それは──── ++++++ 続きは本の方でお読みくださいv |