眉目秀麗・才気煥発・頭脳明晰。

これらの言葉は永夏のためにあるんじゃないかって、僕は時々思う。













高永夏、僕の幼馴染み。

碁の才能に溢れていて、いつもいつも完璧な永夏。
でもそんな永夏にも一つだけ、誰にも言えない「弱点」があるんだ。




















僕しか知らない、僕と永夏だけの秘密。


























































innocent world -another storys-

Youngha Ko as『Can You Keep A Secret?』















































あれは2003年の4月──そう、僕等が初めて進藤と出会うことになる第1回北斗杯直前の春の日のこと。

その頃の永夏は飛ぶ鳥を落とす勢いで、僅か16歳にして初のタイトル戦に挑戦したり日本から来た塔矢行洋と戦ったり、着々と「韓国の若手NO.1」としての地位を築き始めていた頃だった。
実力だけでなくルックスも抜群にいい永夏は、注目された途端にメディアの格好の材料となり、テレビや雑誌などで盛んに取り上げられるようになった。
それによって一部の囲碁好きなマニアックなファンたちから、次第に普通の若い人たちにまで永夏の存在、人気は知られることになり──それはあっという間に異常な過熱ぶりを見せるようになった。

今まではどちらかというと年配の人たちが訪れることが多かった韓国棋院だけど、永夏の人気が上がるに従い若い女性達が徐々に棋院に訪れるようになり始め、気が付けば棋院の職員が規制をしなければならなくなる程に女性の人口は膨れあがっていたの
だ。
窓の外には永夏の姿を一目見ようと多くの女性が押し掛け、永夏がチラリと姿を見せようものならキャーキャーといった黄色い声が沸き上がった。
だが当の永夏はというと──まるで他人事のように自分の状況を眺めている節があって、自分に群がる女性達を見ても表情も態度も何ら変わることはなかった。



……まったくもう、永夏は。
いっつもマイペースなんだから。

彼の横にいる僕は、フーッと大きく溜息をつく。






永夏と幼馴染みであり彼の親友でもあった僕は、目まぐるしく日々変わっていく永夏の状況を眺めながらも、ちょっとだけ複雑な気持ちになっていた。








僕の叔父の碁会所で出会ったあの日から──いつも一緒にいた永夏。
僕の大切な幼馴染み、そして親友。
強くて才能に充ち満ちている彼が、いつかこうして注目されるであろうことはずっと昔から僕はわかっていた。
でもやっぱり実際にその姿を見ると……少しだけ寂しくもあり、悔しくもある。



いつも僕と一緒にいた僕だけの永夏が、そうではなくなってしまったこと。
そんなことはないとわかっていても、やはりどこか遠い存在のようになってしまったこと。
永夏と同じだけ碁の勉強はしているつもりなのに、やはりその強大な才能の前には僕の力など遠く及ばないこと。
それを近くでまざまざと見せつけられること。
そんな永夏に嫌でも「嫉妬」のような感情を抱いてしまう自分がいる、ということ。

挙げていけばキリがなかった。




永夏が凄まじい努力をして今のその地位を得ていることは、僕は誰よりも知っている。
永夏はどんなに囲碁以外の仕事が忙しくても決して囲碁の勉強を怠ることはしないし、
そしてその勉強を誰よりもたくさんしているんだ。

僕はそんな永夏が大好きで、そんな永夏をよく知っている。
永夏に追いつこうと、永夏が僕といてもツマラナイなんて思わないように、と。
僕は必死に努力をしてきた。
その努力は決して無駄ではないし、永夏が僕を友達だと思ってくれているだけでも凄く嬉しかった。







でも。


でも。








それでもやっぱり時々思ってしまう。



永夏の幼馴染みとして、そして棋士として。







強大すぎる才能。
完璧な容姿。
真摯な囲碁への姿勢。








決して僕がマネできない、近づくことの出来ない人。











































永夏の傍にいるのは、時々つらい。















++++++















今日も今日とて、棋院の中に入ってきてしまった若い女の子達に追いかけられていた永夏は、逃げるようにして僕と共に棋院の古いエレベーターの中に駆け込んだ。
キャーキャーと叫ぶ女の子達の目の前でパタンと扉は閉められて、エレベーターはフワリと上昇していく。
「閉」ボタンを押し続けていた僕は、エレベーターが動き出したのを確認してボタンから手を離し、フウと息をついた。
エレベーターの奥にいる永夏に向かって振り返ると、永夏もフウと息をついて壁に寄り掛かり、長い前髪を掻き上げていた。

……カッコイイな。

ちょっとした動作…というか、ただ前髪を掻き上げたり長い足を組んだり。たったそれだけのことでも、永夏はすごく絵になるんだ。男の僕ですら、見とれてしまうことがある。
永夏を好きなあの女の子達は、今僕がいるシチュエーション(エレベーターの中に二人きり)になったら、卒倒してしまうだろうな。

僕がそんなことを思っていると、永夏はやれやれといった口調で口を開いた。


「まったく、毎日毎日よくも飽きないものだな」
「……それだけ、彼女たちは永夏のことが好きなんだよ」
「『好き』というのは、こんなにも相手のことを追いかけ回したりするものなのか?」
「それは…人それぞれだとは思うけど。
 でも『好き』になった人のことを知りたいって思う感情は、当然のことだと思うよ」
「ふーん……そういうものなのか。よくわからないな。オレにはただの暇人としか思えないけどな」


永夏はそう言うと、もう一度フウと溜息ともつかぬような息を吐いた。


……完璧で優秀な永夏にも欠点はあって。
永夏はまだ、『誰かを本気で好きになる』という感情を知らない。

いつも言われるがまま、なすがままに近寄ってきた女の子と適当に付き合って、適当に別れてしまう。
半年と続くことがないんだ。
今現在も、3ヶ月程前から交際している女性(23歳・スチュワーデス)から何度も何度もケータイに連絡が来ているというのに、永夏は面倒くさがって出ようとしない。
この前、久しぶりにその彼女からの電話に出たと思ったら、僕に向かってポイとケータイを投げて寄越して「お前、適当に相手しておいて」などととんでもないことを言い出したのだ。
電話口でギャーギャーと怒り、終いには泣き出してしまった彼女を、僕は1時間半に渡って相手をしなければならないハメになってしまった。

「まったくもう!! 本気で好きじゃないのなら、女の子と付き合っちゃダメだよ!」

そう怒る僕の話を聞いているのかいないのか。
永夏は「そうだな」と適当に相槌を打ちながら、僕の家にある秀策の本をペラペラと捲っていた。



その後も、何度も何度も僕は永夏に恋愛について諭したのだけど──永夏が僕の言葉を聞き入れる様子はなかった。




















永夏は人気者ではあるけれど──それと同時に敵も多い人だから。
どこか、安らげる場所が必要だと思うんだ。
好きな人の傍で、ホッと息をつく時が必要なんだよ。


だからこそ永夏には、幸せな恋をしてほしいのに。

























そんなことを思いながらふとエレベーターの表示を見上げた時。
数字が中途半端なところで止まっているのが見えた。


「……あれ?」



どうしたんだろうと思って首を傾げた、その時。





































バンッ!! 































何かが割れるような大きな音が響き、突然エレベーターの電気が消えた。
その直後にエレベーターはガクンと大きく揺れて、その動きを止める。
思わず僕と永夏は「わあっ!」と大きな声を出して床に倒れ込んでしまった。



……何? 一体何が起きたのだろう?




床に腰をついたままエレベーターの天井を見上げると、蛍光灯の灯りは消えて非常用の赤い電気が灯されている。
そのせいなのか、先程まで鮮明に見えていたエレベーターの中は、赤い光によって何もかもが赤く染まって見えていた。

と、とにかく。

何が起きたのかはわからないけど、どうやらこのエレベーターは停止してしまったらしい。
そう判断した僕は、立ち上がって非常用のボタンを押しながらスピーカーに向かって「すみませーん!」と叫んだ。
だが外からの応答はなく……シーンと静まり返ったままだった。


「困ったな……一体何があったんだろう」


単なるエレベーターの故障なのか。
停電でも起きてしまったのか。
……まさか火事とか……それとも棋院に強盗が入り込んで……

次第に不吉な考えになっていく自分の思考を振りきるように、僕はブンブンと大きく頭を振った。
この非常用のライト、赤色というのは止めた方がいいと思う。落ち着かなければならない時に、何だか無駄に人の不安を煽るような気がするし。
エレベーターから無事に出ることが出来たら、事務局の人に言ってみようかな。

そんなことを考えながら僕はもう一度非常用ボタンを押しながら「すみませーん!」と叫んだ。
すると。


『誰か、エレベーターの中に誰かいるんですか!?』


人の声だ!


「すみません! エレベーターが止まってしまったようなんですけど…」
『ああ、今強い地震があって! 全館で停電が起きてしまったんですよ!』
「地震!?」


そうか。エレベーターに乗っていたからわからなかったけど、地震が起きたのか。

韓国では、地震というものが起こることはほとんどない。
僕も今までの人生で、地震を経験したのはたったの2回程しかない。だから、韓国は「地震」に対する備えというものがほとんどないのだ。
だからほんの些細な地震でも、こうして停電が起きてしまったりする。

どうやら地震が起きて停電になり、エレベーターは止まってしまったらしい。
……このエレベーターも、棋院同様相当古くなってしまっているからな。
僕の声に答えてくれたその人は、スピーカー越しに再び言葉を続ける。


『ええ、今業者を呼んでいて……そう時間もかからずに復旧するとは思うのですが、
 エレベーターの中には何人の方がいらっしゃいますか?』
「僕……洪秀英と高永夏の2人だけです」
『ああ! 洪秀英先生と高永夏先生! 大丈夫ですか!?』
「ええ……別に、怪我とかは」
『すみません、出来るだけ早く復旧をしますので! そこで暫くお待ちください!』


慌てたようにその人はそう叫ぶと、プツリと音が途絶えてしまった。
でも、状況を知ることが出来て一安心だ。
火事だとか事件だとかそういったことではなかったし、もう業者の人を呼んでくれているそうだから、そう時間もかからずに動き出すだろう。
この小さな箱の中でバタバタと騒いだところで仕方がないし、大人しく待つか。

僕はフウと息をつくと、僕の後ろにいる永夏の方に向かって「停電だって。しょうがないから、目隠し碁でもしながら待って……」と言いながら振り返った。










すると。





































「よ、永夏!?」

「………っ」












































振り返った僕が見たのは──今までに見たことのない永夏の姿だったのだ。
それはどんな姿だったのかというと。

いつもは長い足を組んで余裕たっぷりに立っているはずなのに──そんな姿はどこへやら、全身に力を入れた状態で、ブルブルと震えながらエレベーターの壁に張り付くようにして立っている。
長い睫に縁取られた伏し目がちな瞳も大きく見開かれ、サラリと流れているはずの長い髪もボサボサと乱れてしまっている。
さらに、赤い色の非常灯のせいでその顔色はよくわからないけれど、恐らく顔面蒼白に違いない。
そう確信してしまう程に永夏の表情はガチガチに強ばり、ダラダラと脂汗を流していた。



「よっ…永夏!? ど、どうしたの!?」



あまりに見たことのない永夏の姿に驚いた僕は、慌てて永夏の傍に駆け寄って声をかける。
すると僕の声を聞いて永夏は我に返ったのか、ギ、ギ、ギ、と音がしてしまいそうなぎこちない動作で僕の方を見ると──まるで力が抜けてしまったかのようにズルズルとその場に座り込んでしまった。

どうしたんだろう、こんな永夏、見たことがない。
さっき転んだ時にどこか怪我をしてしまったのか!? それとも気持ち悪くなってしまったとか…!

座り込んでしまった永夏の傍に僕も腰を落とすと、両肩を掴みながら「永夏! 永夏!」と何度も名前を呼んだ。
永夏は再びぎこちない動きで僕の方を見ると、そのまま何かに怯えるようにして自分の頭を抱え込み、小さくなってブルブルと震え出してしまった。

自分の身を守るように小さくなって震えている永夏に、僕は何度も「永夏! どうしたの!?」と声をかける。
すると、永夏は自分の頭を抱え込んだまま酷く掠れた小さい声で、何か言葉らしきものを呟いた。
永夏が何を言ったのか聞き取れなかった僕は、大きな声で「え?」と聞き返して永夏の顔の傍に耳を寄せる。
そうして僕は、漸く永夏が何を訴えようとしていたのかがわかったのだ。







「こっ……怖いんだ……っ」
「え?」
「くっ…暗くて……狭いの……っ……怖いんだ………っ」




「……へ?」








今までの人生において出したことのない程の素っ頓狂な声が、僕の口から漏れる。
永夏の言った言葉は単純かつ明快で、幼稚園児にも意味がわかるようなものだったの
に。
それなのに僕はその言葉の意味を理解することが出来ずに、「な、なに?」ともう一度聞き返してしまった。


永夏はもう一度、震える声で怒鳴るようにして僕に言う。














「だっ………だから……! 暗くて狭いのが、怖いんだよ……っ!!」





















暗くて、狭いのが、怖い。

くらくて、せまいのが、こわい。



くらい・せまい・こわい。












































眉目秀麗・才気煥発・頭脳明晰。
そんな高永夏様が。


暗くて、狭いのが、怖い。





































何度も何度も「暗い」「狭い」「怖い」という単語を、走馬燈のごとく永夏の映像をバックに流しながら頭の中で反芻しまくった僕は、漸く「暗くて狭いのが怖い」という言葉の意味を理解することが出来た。
そして、今もなお頭を抱えて震え続けている永夏に向かって、確認の意味を込めて僕は問い掛ける。

出来るだけ優しい声を出して。















「………暗いの、怖いの?」


永夏は頭を抱える腕の隙間からチラリと目を覗かせて僕の方を見る。
そして、コクンと頷く。


「………狭いの、怖いの?」


永夏は僕をジッと見つめたまま(その目は若干潤んでさえいる)再びコクンと頷いた。



















































………………。






































いつもいつも完璧で、非の打ち所のない永夏。
強大すぎる才能。完璧な容姿。韓国若手NO.1の囲碁の実力。
その高永夏が、暗くて狭い所が怖いのだという。
いつもの問答無用に「オレ様」オーラを漂わせている偉そうな姿とはまるで別人のように、こんなにも小さくなってガタガタと震えている。
僕の言うことなど耳を貸すこともなかった永夏が、僕の言葉一つ一つに、子供のように素直にコクンと頷いている。



僕の幼馴染み。親友。
そして憧れの人。

あの高永夏が。












































「……プッ」






赤く光る静かなエレベーターの中で、思わず吹き出してしまった僕の声が響いた。
そんな僕の声を聞いた永夏は、膝に埋めていた顔を上げて、キッと僕のことを睨む。
永夏の殺気だった視線を浴びながらも僕はとうとう堪えることが出来ず、「アハハハ!」と声を上げて笑い始めてしまった。

だって、だって可笑しいじゃないか。
あの高永夏が「暗くて狭いのが怖い」だなんて。
誰にだって怖いもの、弱点といえるものはある。
だけど、あの「完璧」ともいえる存在だった永夏に、こんな……こんな可愛らしい「弱点」があっただなんて。

幼馴染みで親友の僕ですら知らなかった永夏の「弱点」。
それは普段の永夏からは想像もつかないようなモノで。
そのあまりのギャップに、僕はとてもじゃないが堪えきることなど出来ず、いつまでも永夏の前でアハハハと笑い続けていた。
最初は黙ったまま僕が笑い転げる様子を見ていた永夏だったけれど、あまりに笑いの止まらない僕を見て、ついに怒り始めてしまった。


「しっ仕方ないだろう! 怖いものは怖いんだ!」
「アハハハハハ……ハハハ……だっ……だって、永夏がこんな……」
「うるさいっ! うるさいっ!!」


終いには涙まで浮かべて笑い続ける僕を見て、永夏は座り込んだままプリプリと怒り出し、僕の笑い声にもう一度「うるさいっ!!」と怒鳴ると両手で耳を塞いで力強く両目を閉じ、ブンブンと大きく頭を振って再び膝に自分の顔を埋めてしまった。









……まったくもう、永夏は。
いつだってマイペースなんだから。








自分勝手で、ワガママで、偉そうで、「オレ様」で。

綺麗で、頭がよくて、囲碁の才能に溢れていて。

完璧で、誰もが憧れる存在で。




……でも、実は暗くて狭いところが大嫌いで。




そんな、僕の幼馴染みで親友。














































永夏。
僕は、永夏が大好きだよ。













































再び膝を抱えて小さくなりカタカタと震え始めた永夏を、僕は上からフワリと包み込むようにして抱きしめた。

……抱きしめた、といっても。
僕は永夏よりも身体が小さいから、抱きしめた腕は完全に永夏を包み込むことなんて出来やしないけど。
座り込む永夏の背に回そうとした腕は、ちっとも届くことなんかなくて途中で止まってしまうけれど。


それでも僕は、永夏のことを抱きしめた。






永夏の震えが止まりますように。
永夏の「怖い」と思う気持ちが、なくなりますように。
永夏が安心することが出来ますように。


だって、永夏の親友である僕が傍にいるのだから。
















僕が傍にいる。
いつだって永夏の傍にいる。



今までも。今も。そしてこれからも、ずっと。
























だから。




















「大丈夫だよ、永夏。怖くなんてない」
「………」
「僕がついてる。僕が一緒にいるんだから。だから、怖くなんてないよ」
「………」
「大丈夫、大丈夫だよ」

















僕は精一杯腕を伸ばして永夏を抱きしめた。

突然抱きしめられたことに驚いたのか、俯いていた永夏は顔をあげる。
そしてすぐ傍にあった僕の顔を見て、小さな声で「秀英」と僕の名を呼んだ。




永夏、僕が傍にいるよ。
僕が永夏を守ってあげる。






そんな僕の想いが通じたのか、永夏の震えは次第に小さくなっていった。
永夏はもう一度「秀英」と小さな声で僕の名を呼び、抱きしめる僕の背にゆっくりと自分の腕を回そうとした──その時。


































ガタンッ!!



































再びエレベーターの中に大きな音が響いてガクンと強く揺れる。
そしてそのままエレベーターはブーンと機械音を立てながら、突然上に向かって動き始めたのだ。
非常灯の赤い光が消えて蛍光灯が灯り、再びエレベーターの中を照らし出す。

僕と永夏は床に座り込んで抱き合ったまま、正常に動きだしたエレベーターの天井を見上げて「あ…」と呟いた。




























そのままエレベーターは上昇を続けて──六階。
ポーンと音がして、扉が開かれた。

そして。



「あっ! 高永夏先生、大丈夫でしか! お怪我は!?」
「いや、大丈夫だ」
「洪秀英先生も! ご無事で何よりでした!」
「………」




エレベーターの前で僕等を心配して待っていた棋院の職員たちが、永夏をホッとした表情で迎える。
その時の永夏の様子はというと。

小さくなってガタガタ震えていた先程までの姿はどこへやら──永夏はいつものようにスーツのポケットに手を入れながら長い足を優雅に前に出し、余裕たっぷりといった様子でエレベーターを降りて歩いて行ったのだ。




「………………」





僕は思わず口をあんぐりと開けて、そんな永夏の一瞬の「変わり身」を見つめていた。

つい1分ほど前まで、エレベーターの隅に小さく体育座りをして縮こまっていたのに。
顔面蒼白、髪の毛はボサボサと乱れ、脂汗まで流していたというのに。
エレベーターが動き出し六階に到着するまでの僅か10秒ほどで、永夏は一瞬にして身なりを整え姿勢を正し、いつもの「高永夏」に戻ってしまったのだ。

永夏の脂汗って10秒で一滴も残さず乾いちゃうんだ……
乱れていた髪の毛って、手櫛であんなに綺麗にサクッと直っちゃうものなんだ……
座り込んでシワになっていたスーツって、アイロンをかけなくてもあんなにピンとしちゃうんだ……
てゆーか、一瞬にしてあんな風に「何事もなかった」みたいな態度がとれちゃうんだ……










眉目秀麗・才気煥発・頭脳明晰。
そんな「高永夏」が誕生する瞬間を見てしまった。



………やっぱり永夏ってスゴイや。















棋院の職員たちと談笑しながらシャンシャンと歩いていく永夏の後ろ姿を見て、僕は思わずプッと吹き出して笑ってしまった。
そんな僕の笑い声に気が付いた永夏は、振り返りざまにギロリと僕のことを睨む。
だけどその顔は怒っているというよりは、恥ずかしくて赤らんでいるように見えた。

そんな永夏の顔を見て、僕はますますゲラゲラと笑ってしまう。

































いつもいつも完璧な永夏。


でもそんな永夏だってやっぱり普通の人間で、怖いものだってあるんだね。
変なの、僕は小さい頃から永夏とずっと一緒にいたはずなのに、今頃そんな当たり前のことに気付いたよ。

どんなに周りの状況が変わったって、永夏は永夏なんだ。
僕の知ってる、僕だけが知っている永夏。
幼い頃から何も変わってない。

いつも、いつまでも僕の傍にいる高永夏。



何も寂しがる必要なんてなかった。

























──もしも、これから先。
永夏が本当に心から好きだと思えるような人に出会えたとしても。

このことだけは秘密にしておいてあげるよ。
僕は、永夏の親友だからね。























僕と永夏の、二人だけの秘密。



















































++++++




後日。


僕は永夏に「何で暗くて狭いところが怖いの?」と聞いた。
永夏は僅かに青ざめながら、固く閉ざしていた口をゆっくりと開いて語ってくれた。






──永夏がまだ小さかった頃。
その昔お祖父さんの住む田舎で、近所の友達とふざけあってバケツを頭から被ったりして遊んでいたらしい。
すると、その被ったバケツが永夏の頭にミラクルジャストフィットしてしまい、抜けなくなってしまったという(!)。
そんな孫を見て驚いたお祖父さんは、バケツを被った永夏の頭に石けん水を流し込むわ油を流し込むわ、首ごと引っこ抜いてしまうのではないかというくらいの力でバケツを引っ張るわの大騒ぎで。
それでもバケツは永夏の頭から抜けなくて、ブチ切れたお祖父さんが最後にはのこぎりを取り出してバケツを切断しようとしたのだ。
そんなお祖父さんを見て焦った家族が、慌ててレスキュー隊を呼んで救出してもらった…のだとか。



「今でも鮮明に覚えてる……多分一生忘れることなんてないんだろうな」

「………」

「あの時のバケツの暗さと狭さときたら……今思い出してもゾッとする。
 こんなものを被ったまま、オレはジイサンに頭を切断されて死ぬのか、と。
 死ぬ間際に走馬燈のようなものが見えるってホントなんだな。確かにオレはあの時走馬燈を見たよ」
















昔を思い出しながら青ざめてそう語る永夏を見て、僕はこれ以上笑ったら腸がねじ切れてしまうのではないかというくらいに爆笑してしまった。
こんな話、進藤だけじゃなくて誰にも言えないよ。

安心していいよ、永夏。




























今でも僕の心の中だけに、『高永夏の秘密』がそっと隠されている。




end.