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何でこんなことになってしまったのか。 額から流れ落ちる汗、油断すると小刻みに震えてしまいそうになる右手。 銜えようとした煙草が震える右手から零れて、ポトリと音をたてて床へと落ちた。 すると、オレの目の前に座るあの人が、優しい笑顔を浮かべながらそれを拾ってオレに差し出してくれた。 白い花の香水の香り。 ゆっくりとゆっくりと空に近づいていった。 innocent world -another storys- Seiji Ogata as『HIGH PRESSURE』 2006年、秋。 暑い夏が終わって季節は秋となり、気が付けば暦もあっという間に10月となっていた。 早いものだ。もう一年が終わろうとしている。 ついこの間、夏の「あの事件」があったばかりだというのに。 昼食を終えたオレは棋院の喫煙所で一服しながら、ふと「あの事件」があった晩のことを思い出して笑いそうになり、誤魔化すようにしてゴホンと咳をする。 なんともまったく、イイモノを見させてもらったな。 「あの事件」──今から1ヶ月近く前か。 アキラくんとケンカをして、フラフラと街中を歩いていた野良猫──進藤ヒカルをオレが拾ったのは。 お互いの気持ちの擦れ違いと……進藤が心の中に抱える「何か」が原因で。 派手なケンカをやらかした(らしい)二人だったが、アキラくんがオレのマンションで、大声で進藤に向かって「好きだー!」と告白するという形を持って終止符が打たれた。 あの告白をした時のアキラくんの必死の形相と、告白をされた時の進藤の呆気にとられた顔は、今思い出しても笑ってしまう程だった。 笑ってしまう程に──二人は真剣だったのだ。 「好きだ」と告げたアキラくんも。それに答えた進藤も。 お互いの気持ちに向き合って、二人で歩んでいくことを決めた二人は、本当に真剣で真っ直ぐな瞳をしていた。 『人を好きなる』という気持ちは、こんなにも良い表情をさせるものなのか。 端から見ていてそんなことを思ったオレは、柄にもなく「この二人が上手くいきますように」などと祈ってしまったりした。 「……くだらん」 そう吐き捨てて煙草を灰皿に落とした時、突然背後から「何がです?」という声が響いた。 その声に驚いて振り返るとそこにいたのは──オレが今、最も見たくない男の顔だった。 その男はオレの驚く顔を見てニッコリと微笑むと、オレの前へと周り「ここ、よろしいですか?」などと言って、オレが許可を出す前に座りやがった。 何だ、コイツ。煙草なんて吸わないくせに。 オレが、あからさまに不機嫌になって顔を顰めているというのに、その男は全く気にせずにニコニコと笑顔を貼り付けた顔でオレのことを見つめている。 その嘘くさい笑顔に苛ついたオレはチッと舌打ちをして、苦々しい顔をしながら「何の用だ」とその男に声をかけた。 すると、その男はオレから声をかけられるのを待ってましたと言わんばかりに笑顔になって、口を開く。 「今日は是非緒方先生にお渡ししたいものがあって、お持ちしたんです」 そう言ってその男は白い封筒をオレの前に差し出す。 何のことかわからないオレは、その男をジロリと睨みながら差し出された封筒を手にとって中を開いた。 すると、黄色いチケットのようなものが2枚入っている。 何かと思って取り出してみると、そこには「ファンシー」という単語がピタリと当てはまってしまうような、何とも言えないテイストの絵柄が描かれていた。 その、絵柄とは。 「………観覧車?」 オレが顔を顰めてそのチケットを眺めていると、その男はニコニコとしながら「ハイ」と返事をした。 「この前、指導碁をしたお客さんからチケットを頂いたんですよ。 ほら、××駅にある公園の……観覧車の乗車チケット」 そんなことは見ればわかる。 オレが言いたいのは、何でオレがお前にこのチケットを渡されなければならないのか、ということだ。 この男の真意がまったくわからないオレは、チケットを自分の横に置いてポケットを探り、新しい煙草を銜えてライターで火をつけようとする。 だが苛立ちのせいか、このライターがもう古いせいなのか。 なかなか上手く点火することが出来ず、カチッカチッと何度も不愉快な音をオレに上げさせた。 その様子を見ていた男は、ニコニコとしながらオレに再び話しかけてくる。 「そのライター、無事にお手元に戻ったようですね。良かった」 「………」 「塔矢くんに届けて欲しいと頼んでいたんですよ。この前、一緒に飲み行った時忘れていかれたでしょう? とても大切そうになさっていたから…」 カチリ。 漸く点火したライターに煙草を近づけ、火を灯す。 オレは目の前の男が煙草を吸わないと知りつつ、わざとその男に向かってフーッと白い煙を吐き出した。 ……ああ、イライラする。 お前のその笑顔がイライラする。 この男は知ってるんだ。 オレが、このライターを誰から貰って、どんな想いで今まで使い続けていて。 それでいて、アキラくんにこのライターを託したんだ。 嫌な男だ。 オレは煙を吐き出しながら、チケットをその男に突き返す。 「観覧車のチケットだというのはわかった。 だが何でオレがこんなものをお前から受け取らないとならないんだ。 進藤にでもやればいいだろう」 だがその男は、差し出されたチケットを受け取ろうとせずに、変わらずニコニコとした笑顔を貼り付けたまま口を開く。 「その観覧車、取り壊されてしまうそうですよ。何でも、マンションを建てるそうで。 このチケット、観覧車が動く最終日のものなんです。 もしよろしかったら、と思って」 ………。 会話が噛み合わない。 だから何でオレがこの観覧車に…… 観覧車、か。 ギイギイと機械音を上げながら回る観覧車。 近づいてくる空。 最後に見た、大好きだったあの人の笑顔。 ──忘れていた遠い日の映像が、ふとオレの頭の中を過ぎった。 ほんの一瞬、そんなことに気を取られていたせいだろうか。 遠い記憶と共に、意識を遠くに飛ばしていたほんの一瞬の隙に──あの男はオレのすぐ傍にまで近づいていた。 ふと我に返ったオレの目の前には、この世で最も大嫌いな男の顔が目の前にあったのだ。 あまりの至近距離に驚いたオレは、銜えていた煙草を落としそうになる。 目の前にあるその男の顔は、いつものあのわざとらしい笑顔が消え、ただただジッとオレの目を見つめていた。 ──どれくらいの間だったのだろうか。時間にしてみれば、ほんの1,2秒のことだろう。 その男はフ、と笑って、チケットを握っていたオレの手を上から包み込むようにして握りながら、いつもよりも僅かに低い声でオレに囁いた。 「あなただから、あげたいんです」 そう言ってその男はオレから離れて立ち上がると、何事もなかったように喫煙所から去っていった。 一人取り残されたオレは、右手にファンシーな絵柄の描いてあるチケットを握りしめ、呆然とした表情で煙草を銜えている……という何とも間抜けな格好のまま、追いかけることも声をかけることも出来ずに、ただただその場に座り尽くしていた。 追いかけることも出来ず……というよりも、追いかける気さえ起きなかった、と言った方が正しいかもしれない。 オレは、本当にあの男が嫌いだから。 人の心や感情の機微を読むことに長けた男。 相手を見透かしたような碁を打つ男。 オレの最も苦手とする相手──白川道夫。 あの進藤を拾った前の日の夜。 突然白川に「飲みにでもいきましょうか」と言われたオレは、何故かそれに応じて飲みに行ってしまった。 今思い返してみても、何であんな男とサシで飲みに行ってしまったのか全くわからない。 しかもオレはこのライターを忘れて行ってしまう程に強かに酔っぱらったらしく、あの男に何だか色々と、言わなくてもいいことまで喋ってしまったような気がする。 何であの男が、この観覧車のことを知っているんだ。 オレは何を喋った。どこまでしゃべった。 記憶にないのがまたタチが悪い。 どのみち最悪だ。 フーッと大きく溜息をついた後、落ちそうになった長い灰をポトリと灰皿に落とした。 まだロクに吸っていないというのに、煙草はもう半分よりも短くなってしまっていた。 そんな煙草を銜えながら右手に握られているチケットを眺めて、オレはチッと舌打ちをした。 あんな男にいいように翻弄されて。だからオレはいつまで経っても小物のままなんだ。 「……何をやってるんだ、オレは」 そう吐き捨てた言葉と共に吐き出された白い煙は、棋院の古い天井に向かってユラユラと伸び、静かに消えていった。 ++++++ 今ではもう思い出すこともない──遠い日のこと。 昔──ガキの頃。 オレの実家、緒方家の本宅はあの観覧車のすぐ側にあった。 その広い広い本宅には、オレの曾祖父がポツンと一人で暮らしていた。 オレの家はその本宅から歩いて15分ほどの所にあり、幼い頃は足繁く通ったものだった。 何故ならオレは、この曾祖父が大好きだったから。 俗に言う「医者一族」であるオレの家は、祖父も、親父も、兄も妹も、全員が医者だった。 その中でオレだけが「棋士」という、なんだかはぐれ者のような商売についていた。 何故オレが「棋士」という道を選んだかというと。 オレがガキの頃に懐いていた曾祖父が、囲碁を趣味としていたのだ。 毎日のように曾祖父の元へと訪れていたオレが、囲碁に興味を持って棋士を目指したいと思うようになるまで、それ程時間はかからなかった。 当然オレの親父やお袋は「緒方家の名を汚す気か」などと昼ドラめいたお決まりのようなセリフを吐いて猛反対をしたが、そんなオレを弁護して応援してくれたのは、医学界の権威とされていた曾祖父だった。 『この子には我々には持つことの出来なかった才能がある。 それを家の古いしきたりなんぞで潰してくれるな』 そう言ってくれた曾祖父の言葉が嬉しかった。 オレは曾祖父の期待に応えたかった。 塔矢行洋の弟子になり、必死になって囲碁を勉強した。 オレを見限った実家のヤツらを見返してやりたい。そんな気持ちもあったが、それ以上に曾祖父の期待に応えたかった。曾祖父がオレに見出してくれた才能が本物だったということを、曾祖父に教えてあげたかったのだ。 そうしてオレは──14歳の頃、プロになった。 曾祖父は喜んでくれた。しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして、大きな声で笑いながら喜んでくれた。 『よく頑張ったな、偉かったぞ』 そう言ってオレの頭を撫でてくれた曾祖父の皺だらけの手は、以前よりもずっと細くなってしまっていた。 体調を崩して、入院していたのだ。 プロ棋士としての仕事をこなしながら、曾祖父の見舞いに行ったある日──曾祖父は病院の窓から観覧車を指差して言った。 『昔、二人でよくアレに乗ったなあ』 『うん』 『なあ、もう一度乗りに行こうか』 曾祖父とオレは、病院を抜け出して観覧車に乗った。 観覧車は大きくゆっくりと回りながら、空へオレと曾祖父を連れて行った。 曾祖父は、ニコニコとしながらオレに言った。 『遠くが見えるなあ』 『うん』 『あの青い屋根の──アレがおじいちゃんの家だよ』 『うん』 『精次、棋士の仕事は楽しいか』 『うん』 『そうか。頑張るんだぞ』 ゆっくりと観覧車は回って空の一番高いところまで行って──そしてそのまま曾祖父をもっともっと高い所へと連れて行ってしまった。 翌日、曾祖父は死んだ。 曾祖父が死んで暫くして、曾祖父が住んでいたあの大きな屋敷も取り壊されて、祖父と親父がデカイ病院を建てた。 もうあの観覧車に乗っても、曾祖父の住んでいた青い屋根の屋敷は見えなかった。 それどころか、オレは観覧車に乗ると目が回るようになってしまった。 観覧車だけじゃない、地上より10メートル以上高いところへ行くとクラクラとするようになってしまった。 要するに、高所恐怖症というヤツで。 目の前で曾祖父が空に連れて行かれてしまうのを見てしまったせいなのか。 それともただ単に、実は元々高いところが苦手だっただけなのか。 今となってはよくわからない。どうでもいい話だ。 ──でも、そうか。あの観覧車がなくなってしまうのか。 オレと曾祖父を繋ぐ思い出は、すべて消えてしまうことになる。 だからといって何かを想うワケじゃない。時代の流れだ、仕方がない。 そうして、忘れられていく。 仕方がないことなんだ。 そんなことを考えながら、塔矢家の縁側でオレはフーッと煙草の煙を吐いた。 塔矢先生が三週間ぶりに帰国しているというので、オレは塔矢家にお邪魔していたのだ。 ──何年経っても変わらないな、この家は。 オレが塔矢先生の弟子として毎日のように通っていた頃から、この家は全く変わっていない。 四季とりどりの花を咲かせるこの庭も、昔と同じままだった。 秋風にユラユラと揺れる秋桜をボンヤリと眺めていると、背後から「おーがたさん」とオレの名を呼ぶ声が聞こえた。 甘ったるい声。 しかもこんな風にオレの名を呼ぶ人間など、一人しか思い当たらない。 ゆっくりと声のした方を見ると、エヘヘ、と笑いながら進藤が立っていた。 塔矢先生の帰国に合わせて実家に帰ってきたアキラくんに連れられて、進藤も塔矢家にお邪魔していたのだ。 「……お前、先生との検討はどうした」 「もー終わったよ。先生、今は塔矢と打ってるよ」 「そうか」と返事をしたオレの横に、進藤はチョコンと腰を下ろした。 「何見てるの?」と問い掛ける進藤に「別に」と返事をした後に──ふと、オレの頭の中であの大きな観覧車がグルリと回った。 背広の胸ポケットを探り、チケットを取り出す。 「何してるの?」と覗き込む進藤の鼻先にオレは「やる」と言って、その黄色いチケットを差し出した。 「……観覧車? ああ、あの××駅の」 「アキラくんとでも乗ってきたらいいだろう」 「緒方さんが行けばいいじゃん、デートとかで」 「あんまりその観覧車にはいい思い出がなくてな」 「思い出?」 古い煙草を灰皿に落とし、新しい煙草を銜えて火をつけるオレの横顔とチケットを交互に見ながら、何も言わぬオレに進藤は「ふーん」と呟いた。 サワサワと音を立てながら、綺麗に植えられた秋桜が風に揺られていた。 ──それから暫くして日が傾きかけた頃。 オレとアキラくんと進藤と先生の4人で、韓国で先生が打ったという一局を盤を囲んで検討をしていた。 あーでもない、こーでもない、と言葉が行き交う最中、スルスルと静かな音を立てて障子が開けられる。 明子さんが、新しいお茶を持って部屋に入ってきたのだ。 皆のお茶を取り替えながら、明子さんは誰に言うとでもなく口を開いた。 「お勉強中、ごめんなさいね。私、ちょっと駅前までお買い物に出掛けてきます」 アキラくんが「はい」と返事をしたのを聞きながら、オレは何気なくポケットの中を探る。 すると、煙草の箱が空になっていることに気が付き、部屋を出ようとする明子さんに声をかけた。 「車、出しましょうか」 「え?」 障子を閉めようとした時にオレに声をかけられた明子さんは、キョトンとした顔でオレを見上げる。 オレは盤から離れて立ち上がって、脱いでいた背広を羽織りながら「煙草、買いに行きたいし」と明子さんに言った。 「あら、私買ってきますよ。ラークでしょ?」 「……いや、いいですよ。少し気分転換もしたいし」 「あら、そう? じゃあお願いしちゃおうかしら」 そう言って明るい笑顔で明子さんは微笑むと、部屋の奥にいる先生とアキラくんと進藤の3人に「じゃあ、緒方先生お借りします♪」と弾むような声で言った。 その時、進藤と目でも合ったのだろうか。 明子さんは進藤に「是非お夕飯も食べていってね」と声をかけて、障子をパタンと閉めた。 ──この時、何で明子さんが進藤にそう声をかけたのかは……オレは後で知ることになるのだが。 ++++++ 駅前で買い物を終えた明子さんを助手席に乗せ、オレは車を走らせる。 車内では、明子さんが終始韓国での出来事や、海外で囲碁を打つ塔矢先生のことを楽しそうに話し続けていた。 昔から変わらない、鈴が鳴るような明るい声。 明子さんが少し動く度に、これも昔から変わらない──白い花の香水がフワリと車内に漂った。 その匂いをかぐ度に、オレはギリと力を入れてハンドルを握り直す。 何がどう、という訳じゃない。気が付いたらなんとなくそうしていただけのことだった。 そんなことを繰り返しながら、もう間もなく家に到着するという時。 信号待ちの間、ふとフロントガラスの向こうに遠くに見える観覧車の姿が見えた。 曾祖父と乗りに行った観覧車。 ──今日でなくなってしまうのか。 そんなことを思いながらボンヤリと眺めていると、助手席に座っていた明子さんが「観覧車、お好きなの?」とオレに声を掛けた。 オレが「いや、別に…」と答えるよりも前に、明子さんの方が早く言葉を続けた。 「ね、寄り道していきません?」 「………は?」 ……寄り道? 何が? オレがそう聞き返す前に、明子さんは「次の角を、右ね♪」と問答無用な感じでナビゲーションを開始し、オレはそれに逆らうことも出来ぬまま塔矢家とは逆方向に車を走らせて……気が付けば、あの観覧車のある××公園の駐車場に車を止めていた。 そして明子さんに手を引っ張られていつの間にかあの観覧車の前に立っており、チケット2枚を差し出す明子さんをオレは他人事のように見つめ続けていた。 明子さんが差し出す、黄色いチケット。それは。 「あ」 チケットを見て思わず声を上げたオレに、明子さんはフフ、と笑いかける。 「進藤くんに頂いたのよ。『先生と乗ってきたら』って」 「じゃっ…じゃあ、塔矢先生と」 「あら、『先生』って…緒方先生のことよ」 「は」 「じゃあ乗りましょ♪」 明子さんはニッコリと笑顔でそうオレに言うと、オレの手を引いて観覧車の赤い小さな籠の中に入っていった。 バタン、と大きな音を立てて係員に鉄の扉を閉められる。 その音と共に、全身の毛穴という毛穴からブワッと何かが吹き出すのをオレは密かに感じていた。 ……………何で?………オレ、何でこんなことになってんの…………? 観覧車は、昔と変わらぬギイギイと古い音を立てながら、ゆっくりと空に登っていった。 |