何でこんなことになってしまったのか。
額から流れ落ちる汗、油断すると小刻みに震えてしまいそうになる右手。
銜えようとした煙草が震える右手から零れて、ポトリと音をたてて床へと落ちた。


すると、オレの目の前に座るあの人が、優しい笑顔を浮かべながらそれを拾ってオレに差し出してくれた。




白い花の香水の香り。





ゆっくりとゆっくりと、オレと彼女を乗せた赤い籠は、空へと近づいていく。















この古い観覧車は、建てられた当時その大きさが結構な話題になって地元の大勢の人々が乗りに来たという。
一周グルリと空を回って地上に降りてくるのに、約15分程かかる。
つまりオレは約15分の間、地上から遙か遠く離れたこの小さな籠の中で、オレの前にニコニコと座るこの人と二人っきりで過ごさねばならぬのだ。




……………何で?………オレ、何でこんなことになってんの…………?





一体何故だ。何故こんなことになった。
何故オレはこんな所にいる。この人と、この狭い部屋で、この高いところに、何で。


下は遠く離れた地上、上は近づいてくる空、そして目の前にはかつての失恋相手。
それで、今乗るのは曾祖父と乗った、あの古い観覧車。









……………。









何コレ、何この三段攻撃(高い・失恋・トラウマ)。
何の罰ゲームだ。オレが一体何をした!!

白川!! 進藤!! お前ら一体どういうつもりでオレをdrftgyふじこlp;











そうしている間にも、ドンドンと空が近づいてくる。
唇は小刻みに震える。穴という穴から色んな液が滲み出てくる(のをギリギリの理性で食い止めている)。

今にも叫び出してしまいそうだ。
だが目の前にいるのは、二十年前とはいえかつて自分が惚れた女だ。
そんな女の前で「高いの怖いんですー!」……なんてみっともないマネが出来るか!?
死んでも嫌だ、そんなこと!!


──そんなことを考えていた瞬間、強い風にでも吹かれたのか。
古い観覧車はギイイと不吉な音をたててグラリと揺れた。
なんとか叫びだしてしまうのは堪えたが、それと同時に自分の脳味噌もグラリと揺れた気がした。



死んでも嫌だ……死んでも……死………その前にオレが先に死んじゃうかもしれない……







そんな言葉がふと脳裏を過ぎった時──黙ったまま観覧車に乗っていた目の前のあの人が、外を見ながら「綺麗ね」と呟いた。
揺れる小さな籠の中で倒れそうになった自分をギリギリのところで支えていたオレは、小刻みに痙攣を繰り返す身体を隠すように、ゆっくりとした動作で足を組み、小さな声で「そうですね」と言った(大きな声だと声が震えているのがバレてしまうから)。

動揺しまくっている心をなんとか隠そうと、先程拾ってもらった煙草をもう一度口に銜えるが、手が震えてしまって火を上手くつけることが出来ない。イライラとしたオレは煙草を箱に戻してフーッと溜息をつく。
そんなオレの様子を見ていた明子さんは、「そのライター、もう古いからダメかしらね」と少しだけ寂しそうに言いながら笑った。

ちっ違うんです!! 古いとかそんなんじゃなくて手入れなんか毎日やってるから実は未だに新品同様に使えるんですけど今はオレの手が震えてしまってどうにもこうにもdrftgyふじこlp;…………などと言えるはずもないオレは、「いや…」と小さな声で言いながらふと窓の外に目をやった。





…………ああ………地上があんなにも遠いよ………?





目が回る。
今度こそ倒れる…と思いながらオレはそれでも踏ん張り、メガネを外して目元をグリグリと押さえた。
そんなオレの目の前に座るあの人は、窓の外をジッと見つめていたかと思うと、「緒方さん、あそこ見て!」と窓の外を指差しながら鬼のような言葉をオレに向かって吐いた。

あそこって明子さん。窓の外じゃないスか。

クラリとする脳味噌を最早理性だけで支えながら、オレは明子さんの指差す窓の外をそっと覗き見る。
その時観覧車の古いスピーカーから、これまた古めかしい声でアナウンスが流れた。



『ただ今、この観覧車の最も高い、地上より100mの地点です』






100mだって。バッカじゃねーの。
つーか言うなよ、そんなコト。







危うくスピーカーにそうツッコんでしまう自分を押さえる。
「理性」という名の紐がギリギリと音を立てて擦り切れていくのがわかる。
これがブチンと音を立てて切れたら、オレどうなっちゃうのかなー。
明子さん、襲っちゃうんじゃないかなー。
なんかもーいーやー。






……………遠くなっていく意識の片隅でそんな末恐ろしいことを考えながら、オレは決死の覚悟で明子さんの指差す場所を見つめた。
すると、そこにあったのは。


「………あれは」
「緒方さんのお父様の病院よね、あそこ。観覧車のこんなに側にあったのねえ」


祖父と親父が建てた、大きな総合病院。
だが二十年と少し前──あそこには違うものがあったんですよ、明子さん。
今となっては、もう誰も知る人はいないけれど。
あそこには……



「あそこ、昔は緒方さんの曾お祖父様のご自宅だったのよね」
「──……」
「もう二十年以上前の話だけど…」



明子さんは静かな声でそう言って、僅かに目を細めて窓の外を見つめた。
落ちかけている秋の夕陽が、静かにこの人を照らす
明子さんの黒い瞳が秋の夕陽に照らされて、キラキラと光って見えた。

──そんな美しい人を見ながら、いつの間にか震えが止まっていたオレは静かに口を開く。



「よく…覚えていらっしゃいますね」
「もちろんよ。緒方さんの曾お祖父様には、あの人…行洋さんが、とてもお世話になったから」
「………」
「それに緒方さん、曾お祖父様のこと大好きだったでしょう?」
「………」
「忘れる訳がないわ」






















──遠い、昔。








曾祖父が死ぬ前日に、二人で乗った観覧車。
オレに『頑張るんだぞ』と言って、そのまま空の上へと登っていってしまった曾祖父。

オレはそれきり、観覧車には乗れなくなってしまった。
高い所に行くと、自然とあの曾祖父の最後の笑顔が脳裏に思い出されて、どうしようもない気持ちになったから。
それを繰り返しているうちに、高い所がダメになってしまったんだ。


そんなことも……オレはすっかり忘れていたんだ。
忙しい毎日に引っ張られるようにして生活をしているうちに、曾祖父のことを思い出す日などなかった。
白川からこのチケットを貰い、この観覧車が取り壊されると聞いて、随分と久しぶりに思い出したんだ。


あんなにも大好きだったのに。オレは忘れていたんだ。










──なのに、この人は覚えていてくれた。











オレの大切な思い出を、オレが大好きだった曾祖父を、この人は──オレがかつて好きだったこの人は覚えていてくれたのだ。


































































………?




何だ、コレは。
胸の奥がギュウギュウと締め付けられるような気がする。

心筋梗塞? そんなバカな。
では何だというのだ、この胸の痛みは。この胸がギュウギュウと締め付けられる度に漏れてくる甘酸っぱい感情は。



……まさか……「胸キ●ン」とか言うんじゃないだろうな、コレが。
もう言葉に出して考えるのも憚れる程の恥ずかしい言葉だから、伏せ字にしてやる!冗談じゃない。冗談じゃないぞ。
この歳になって「胸キ●ン」とかあり得ないし。
というか人妻相手にキ●ンとか言ってる場合じゃないだろオレ。





………だからいつまで経っても小物なんだな、オレは。






そんな、くだらなくてどうしようもない結論に達したオレは思わずプッと吹き出してしまった。
突然笑い出すオレを見た明子さんは目を丸くして「なあに、イキナリ」と言いながら小さくウフフと笑った。








ギイギイと古い音を立てて回る観覧車は、頂上を通り過ぎてゆっくりと地上に向かって降りていく。
明るい秋の夕陽が観覧車の中へ差し込んでいく。








その観覧車の中で、オレは初恋の人とこの20年のことを笑いながら語り合った。
曾祖父と最後にこの観覧車に乗った時のこと。曾祖父が亡くなった日のこと。
それから囲碁が暫く打てなくなったこと。それを励ましてくれたあなたのこと。
あなたに失恋した日のこと。(好きだったとは言ってないけど)


その話の中には、『頑張るんだぞ』と言って微笑む曾祖父の笑顔があった。
その笑顔をこの観覧車の中で思い出しても、もうどうしようもない気持ちになることはなかった。
柔らかい優しい思い出となって、オレの心の中でサラリと溶けて消えた。

















ふと、窓の外を見る。
遠くまで見える景色。夕陽に染められて、真っ赤に燃えている空。



煙草を銜えて火をつける。オレの目の前に座る、かつてオレが惚れたこの人に貰った百合の花の彫られたライターで。
そして、自然と言葉が口から零れる。



















「綺麗ですね」





































もう、高いところは以前ほど怖くなくなっていた。

















































































……ハズなんだけど。
地上に観覧車が着いて降りようとしたのだが、痙攣を誤魔化すために組んでしまった足がまるで接着剤でつけてしまったかのように固まってしまっていてどうにも動かすことが出来ず、煙草を銜えた口も手も緊張のためか固まってしまい動かすことが出来ず。
モタモタしているウチに観覧車は再び地上を離れてしまい、先に降りた明子さんを地上に残したまま、オレは一人で観覧車をもう一周するハメになってしまった。
たった一人で見た眼下の景色はやはり絶景……ではなく絶叫モノで、どうやら高い所が怖くなくなったというのは「胸キ●ン現象」が見せる一種の幻だったらしく、オレは以前と変わらず高い所は大嫌いなままだった。
何やってんだ、オレは。

気を失わずに再び地上に戻り、明子さんに「曾お祖父様との思い出に浸られてたのね」という言葉にも倒れることなく「ええ、まあ…」と返事をすることが出来たオレを、今は空の上にいる曾祖父に誉めて貰いたいと思った。










きっと今も、高い高い空の上からオレのことを見てくれているはずだから。
























それから家に帰って。
このオレをこんな罰ゲームにハメやがった張本人の一人、進藤を完膚無きままに囲碁で打ち負かしてやった。
ふて腐れながら「大人げないなー、緒方さん」という進藤を問い詰めると、どうやらすべては白川に頼まれていたことらしい。



「白川に!?」
「うん。多分、緒方さんが観覧車のチケットをくれるだろうから、
 それを塔矢のおばさんに渡してほしい、って。
 で、おばさんに『緒方さんが観覧車を好きみたいだから、緒方さんとでも乗ってきたら』って言えって」
「……オレが、観覧車が好き?」
「うん。白川先生に言ったんでしょ、お酒の席で。
 『観覧車には死んだ曾お祖父さんとの思い出がある』とか『明子さんが初恋の人で……モガッ!」


ツラツラとオレの20年間を簡単に口にする進藤の首根っこを押さえ、オレはヤツの口を塞ぎながら「いいから全部忘れろ!」と怒鳴った。進藤は上目遣いでコクコクと頷いていたが、その大きな目はどこか面白がっている節もあって、その後忘れたかどうかは定かではない。





……そして、オレが最も嫌いなあの男。
その後オレはあの男がますます苦手となってしまい、それから数年に渡ってあの男から一勝も出来なくなってしまった。

項垂れるオレに、あの男が「実はもう一つアナタの秘密を知っているんですけど」と耳元で囁くのは……それはまた、別の話。





……というか、誰にも言えない……。





end.