どうしてあの日、お前は突然消えてしまったのだろう。
まるで夢から醒めるように。

突然たった一人にされてしまったオレに残っていたのは、白と黒の石だけだった。
そんなんで、オレはどーすればいいんだよ。

なあ、なあ。
オレは、寂しいよ。

オレもお前のように、ある日突然フッと消えてしまえたらいいのに。














そんなことを思いながら、もう何年経ったっけ。






VP(バニシング・ポイント)
act.01
















随分と遅くなってしまった。
塔矢アキラはいつもより早足で階段を駆け上る。
この階段ももう、何十回、何百回、何千回──と上り下りしてきたことだろう。
もう15年以上も通っている。それこそ、自分の囲碁を歩んできた時間と同じくらいに。

今日、塔矢アキラは父の経営する碁会所に久しぶりに顔を出す約束をしていた。
数年前に突然碁界を引退してしまった父・塔矢行洋は、近頃では強い棋士を求めてアジア諸国を母と共に転々とする生活をしているため、現在の実質的な経営者は息子の塔矢アキラであるといえる。
だが彼は現在、名人・棋聖の2大タイトルを保持し、誰もが認める碁界の第一人者である。
それ故に対局数の多さもさることながら、その他諸々の仕事も多く、滅多に時間を割くことが出来ないのだ。そしてそのまま碁会所に顔を出すことが出来ず1カ月、2カ月──と放置を続けていたら、いい加減にしびれを切らした受付嬢・市河から「10分でもいいから、たまには顔を出しなさい!」と電話口で怒鳴られてしまったのは、つい昨日のこと。
今日は昼から入っていた取材を早めに切り上げてもらって、午後2時までには行くと伝えてあったのに、時計を見るとすでに2時半。30分も過ぎている。
また怒っているだろうなあ、市河さん。
アキラは怒る市河の顔を想像しながら、勢いよく碁会所の扉を開けた。

「ごめんなさい、遅くなって」

「んもー、遅いじゃないの、アキラくん!」「若先生、お待ちしてましたよ!」
そんな声を想像して中に入ったのに──聞こえてくるのは、ガヤガヤとした喧騒のみ。
……喧騒というか、なんだかいつもと雰囲気が違う気がする。
入り口付近の席にはほとんど誰も座っておらず、奥の席に妙に人が集まっている。
そしてそこから、大きな喧騒が広がっているのだ。
受付に立つ市河ですら、あれほど待ちこがれたアキラの存在に気づくことなく、店の奥を凝視している。

「……さん、市河さん!」
「え、あ、あら、アキラくん」
「どうしたの? なんだか騒がしいようだけど」
「それがね、不思議な子が来てるのよ」

不思議な子? アキラは受付から碁会所の奥を覗いたが、その『不思議な子』とやらの姿は見えなかった。
どうやら客としてこの碁会所にやって来た人物の周りに、あの黒山の人だかりが出来ているらしい。
相当な打ち手なのか、それとも。

「不思議な……子供なの?」
「あ、ううん。子供っていうか…うーん、高校生くらいかな?
 阿古田さんが連れてきたんだけどね」
「阿古田さんが?」

阿古田という人は、この碁会所の常連の客だった。
囲碁の腕はそれほどでもなく、少々口の悪い人物であるが人が悪いわけではなく、そしてそれなりに勉強熱心でもあり、確か地元でプロの教える囲碁教室に通っている、と聞いたことがあった。
その阿古田が連れてきた人物。市河は高校生くらいの子供だと言っていた。この碁会所には来たことがないようだから、囲碁教室の生徒だろうか?

「僕、ちょっと見てくるよ」

アキラは市河にそう言うと、碁会所の奥の人だかりに向かって歩いていった。

「ちょっと、すみません」
「あっ、若先生!」

アキラの声を背後に聞いた人物が大声を上げると、その瞬間に人だかりはザアッとアキラの前に道を作った。まるでモーゼの海割りのような光景だが、アキラは特に意に介すこともなく、その出来た道の先に座る人物を見つめる。
この人だかりの主役たる彼は、阿古田と同じくこの碁会所の常連である北島という男と対局中だった。

「……うーむ」

北島の渋い顔から察するに、どうやら彼が勝っているらしい。
北島もプロのアキラからすれば大した腕ではないが、アマチュアとして考えればそれなりに強い方であるといえる。その彼が負けているのだ。

……確かに市河さんの言うとおり、高校生くらいかな?

アキラは北島の前に座る青年の顔をジッと見つめた。
椅子に座っているためハッキリとはわからないが、体付きはどちらかというと小柄な部類に入るだろう。顔の色も石を持つ手も白く、何よりもとても奇抜な髪型をしている。前髪だけが鮮やかな金髪だった。
その長い前髪の下に透けて見える目は大きく、ジッと盤面を見つめている。
どこか幼い印象だが、いくら何でも中学生ではないだろう。やはり高校生か? こんな平日の昼間から?
彼本人に対する興味から、アキラの興味は彼の打つ盤上へと移る。
もうすでに終わりの局面。ヨセに入っている。北島は必死になって目算をしているようだが、2,3目程足りないだろう。
アキラは瞬時にそう判断し、再び『不思議な子』とやらの顔を見た。彼は、無表情のままジッと盤面を見つめている。
確かにそれなりに打てるようだ。
だが騒ぎたてる程ではない。北島と打ってこの程度ということは、アマチュアにはよくいるレベルだ。
大げさだな、市河さんも。たまに若い子が来たからって。
アキラがフウと息をつくのと同時に、北島の「あー、やっぱり足りなかったか」という悔しそうな声が響いた。
すると対面に座っていた彼はニッコリと笑って「やった、また勝っちゃった」と楽しそうに声を弾ませた。

「ちくしょう。途中まではハッキリオレが良いと思ってたんだけどな」
「ここのツケコマシがよくなかったね。これをこっちに打って…そうしたら、黒はまだ生きたのに」
「ちぇ、クソガキめ」

青年はそう言いながら、パチパチと石を動かした。北島は悪態をつきながらも、興味深そうに盤面を覗きこんでいる。
ここでアキラは、ふと違和感を感じる。
……今のは何だ? まるで指導碁のような言い方だった。
いや、そんなはずはない。先程彼は「また勝っちゃった」と言っていた。偶然の勝利であるはず。
アキラは思わず青年を凝視する。盤上を崩し石を片づけていた彼はその視線に気づいたのか、ふと顔を上げた。
アキラと目が合う。すると彼は、不思議そうな表情を浮かべて小首を傾げた。

「……どっかで見たような…」
「あ、若先生!」

盤の横に立つアキラの存在に漸く気づいた北島が、大きな声を上げた。
その北島の声に、青年は「若先生?」と言って再び首を傾げる。

「バカ! お前若先生のことを知らないのか!」
「バカってなんだよ!」
「塔矢アキラ名人だよ! 泣く子も黙るトップ棋士だぞ!」

泣く子供は僕を見ても黙りはしないだろう…
そんなことを思いつつ、アキラは不思議そうに自分を見つめる青年を見る。
すると、自然と目が合う。
男にしては、随分大きな目だ。正面から見るとますます幼く見える。まさか本当に中学生とかじゃないだろうな。
アキラはそんなことを思いながら、青年に声をかけた。

「キミ、時間はあるかい?」
「え…」
「もし良かったら、僕と一局打たないか?」

アキラのその言葉に青年が返事をするよりも前に、周囲にいたギャラリーがワッと声をあげた。
その中でも特に大きな声を上げたのが、先ほどまで青年と打っていた北島で。

「そうこなくちゃ若先生! オレや阿古田さんや広瀬さんの敵を討ってくださいよ!」
「そんな、敵だなんて。僕はただ彼と…」
「おい小僧! 塔矢名人がお前と打ってくださるんだぞ! 有り難いと思え!」

そう言いながら北島は立ち上がり、アキラを先ほどまで自分の座っていた椅子に座らせる。
思いもがけずアキラと向かい合う形になってしまった青年は、どこか困ったような顔をしていた。

「ま…参ったな、名人と打つだなんて…。オレ、そんなつもりじゃ…」
「大丈夫だよ。キミの棋力はどれくらい?
 北島さんに勝つくらいだから、なかなかのものだと思うけど」
「き、棋力……、ええと」

外野から「9子くらい置いたらどうだい?」という野次が飛び、周囲は笑い声に包まれる。
青年は困ったように碁盤とアキラの顔を交互に見つめ、徐に口を開いた。

「じゃあ、置き石なしで…」
「なあんだって!?」
「おい、若先生に互先だなんて、図々しいんじゃないか!?」

周囲の野次に、青年は口を尖らせる。

「どうせ負けるにしたって、9子も置いて負けたら、言い訳になんねーじゃん。
 名人と互先で打ったってなれば、ちょっと自慢になるし」
「ガハハ、図々しいガキだ」
「若先生、軽く捻ってやってくださいよ!」

そんな声にアキラは苦笑しつつ「じゃあ先手でどうぞ」と言って黒石の入った碁笥を青年に渡した。
青年は「じゃあ、お願いします」と言って軽くお辞儀をすると、黒石をパチリと小気味のいい音を立てて打った。

右上スミ、小目。


++++++


アキラは目の前で繰り広げられている盤上が信じられなかった。
手の平にじっとりと汗をかいている。
まさか、まさかこんなことが。
言わずもがな、自分は二冠棋士である。それに対して驕ったことなどはないつもりだが、それなりの自覚とプライドをもって「名人・棋聖」という二つのタイトルを持っているつもりである。
その自分がどうだ。ここは棋院の対局室でも幽玄の間でもない。公式の手合いでもない。
そんな場所で、追いつめられているのだ。
こんな感覚は、タイトルを保持してからというものの、久しぶりだった。
手や背中に嫌な汗が伝い、脳の奥がビリビリと痺れていく。油断すると手先が震えそうだった。

打つ前のことを思い出す。ほんの1時間半ほど前のことだ。
青年に「置き石はいらない」と言われたことに、アキラは表情にこそ出さなかったものの少し困っていた。
置き石もない状態で、どうこの青年に花を持たせてやるべきか。そんなことばかりを思案していた。
せめて黒石を持たせ、コミは抜きで考えよう。一応それで、六目半のハンデにはなる。
自分が来る前に、ここにいる何人のギャラリーを負かせてしまったのかわからないが、かなりの野次が青年に浴びせられていた。無論、ギャラリーも本気の悪意を持って言っているわけではないし、青年も別段気にしている様子もなさそうではあったが、せめて少しは花を持たせてやろう。自分の碁会所の大事なお客さんであることには変わりないし。
そしてギャラリーも彼も、皆が楽しめるような碁にしてあげよう。
一つ気になるのは、彼の先ほどの北島に対するまるで指導碁のような言葉。願わくは、彼の棋力がそれなりに高いものであるように──
そんなことを思いながら、盤に向かったのだ。

始めは穏やかな展開だった。
少々定石の型が古いような印象を受けるものの、きっちりとした手を打ってくる。石の流れは迷いや淀みがなく、まるでお手本のような綺麗な打ち筋だった。
この時、アキラの心の奥に一つの感情が灯る。それは懸念であったのか希望であったのか、それとも炎であったのか──それはわからないけれど。

……もしかして、本物?

その動揺が石に伝わったのか、甘い一手を打ってしまった。失着という程でもないが──
しまった、甘かった!
そう思った時には遅かった。素早い切り込みで黒が打たれた。思い返してみても、絶妙な一手だった。
思わずアキラは顔を上げて盤の向こう側を見る。
すると青年の表情は北島らと打っていた時と同じく無表情ではあったものの、纏う気迫が違うような感じがした。
戦いを仕掛けてきた。アキラはそう感じた。慌てて切り返すと、ノータイムで再び絶好の位置に黒が打たれる。
あまりに鋭い打ち込みだった。明らかに先ほどまでとは違う。
そう──彼は鞘から刀を抜いたのだ。

……間違いない! 本物だ!

アキラは打つ前に自分の考えていたことを恥じた。
何が花を持たせてやる、だ。
何者か知らないが、彼は『棋士』だ。ならば自分は本気で受けて立つのみ。
そして彼が何者であるのか、暴いてやる。


++++++


一進一退で繰り広げられる戦いはそのまま、終盤まで続けられた。
ビリビリとした空気が漂う対局に、打つ前に聞こえていたような野次を飛ばすような者は一人もいなかった。
皆が、固唾を飲んで盤上を見つめている。
アキラは汗の滲む手の平を力強く握りしめていた。
もうすぐヨセだ。どちらだ。どちらが勝っている。僅か半目の間で勝負は揺れている。
ほんの一瞬の気の緩みで、勝敗が決する──
そう思いながらアキラがゴクリと喉を鳴らした時──ふと、目の前の空気が変わったような気がした。
アキラは弾かれたように盤面から顔を上げる。
その場には大勢の人間がいたが、恐らく気づいたのは対面に座るアキラだけであろう。

──青年が、抜いていた刀を鞘に戻したのだ。
勝負が決するよりも、前に。

青年の身に纏う空気が、途端に穏やかになる。
それから数手が進んで──終局を迎える少し前に、青年の穏やかな声が響いた。




「負けました」