パチリ、パチリ、パチリ。
石の打たれる以外の音のしないこの部屋で、何度この棋譜を並べたことだろう。
形勢は互角。僅か半目ほどの差で、黒と白の石が鬩ぎ合っている──

そんな時に告げられた、終局を表す彼の言葉。


『負けました』


進藤ヒカル。一体彼は何者。





塔矢アキラと、彼の経営する碁会所にある日突然フラリと訪れた青年との対局が行われたのは、今から2週間前。
指導碁でもしてやろうと軽い気持ちで打ったその碁は、激しい様相を呈す気迫の勝負となった。
誰が想像しただろうか。こんな展開になるなんて。打った当人であるアキラですら想像していなかった。

彼は『棋士』だ。本物の。
それも、自分とかなり近い力を持った実力者──

焦りや驚きと共に抱いたのは、今までに感じたことのないような喜び。
それをまさに今から実感しようという時に、突如として彼は自ら勝負を終了させてしまった。
あと数手で終局というところで、投了してしまったのだ。
周囲のギャラリーも驚いたが、一番驚いたのは対局者であったアキラだった。
──確かに、最後まで読み切ればコミを入れてもアキラの勝ちだろう。
だがそれはほんの半目ほどの差だ。ここまで来て、投了することはない。
いや、投了というよりも、これではまるで。

『はー、やっぱり名人は強いや。あー疲れた疲れた』

どこか青年の暢気な声に、静まりかえっていたギャラリーも、まるで息を吹き返したかのようにざわめき出す。

『や、やっぱり若先生の勝ち…だよなあ……』
『そうだけど……これって……』
『かなり細かくないか…? 整地してみないと何とも…』
『わ…若先生が小僧に花もたせてやったんだろうよ』

どよめくギャラリーをものともせず、青年は「ねえ阿古田さーん」とどこか気の抜けた声を上げた。
すると彼らを囲んでいたギャラリーの後ろの方から「は、はい?」という同じくらい間の抜けた声が響いた。

『ねえ、オレもう帰っていいかな? 5時からバイトなんだ』
『あ、ああ…そうか…』
『じゃあ、またね。塔矢先生もありがとう』

青年はそう言って軽やかに立ち上がると、そのままアキラの元を去っていく。
遠ざかる足音を聞いて、漸くアキラは盤上から意識を現実に戻し、先ほどまで目の前にいた青年の姿がないことに気づく。驚いたアキラは慌てて立ち上がると、市河に挨拶をしている青年を大声で呼び止めた。

『ちょ……ちょっと待って…!!』
『へ?』

あまりの剣幕で呼び止められた青年は目を丸くしつつ、アキラの迫力に思わず半歩ほど後ずさりをする。

『キミ…名前は?』
『名前? ああ…名乗ってなかったかな…。進藤ヒカル…です』
『……囲碁は……始めてどれくらい経つ?』
『え、ええ? どれくらい…どれくらいだったかな…』

困惑した表情でしどろもどろと答える青年──進藤ヒカルに、アキラは矢継ぎ早に質問を続ける。

『今までどこかの大会に出た経験は?』
『た、たいかい〜?』
『というか、プロ試験は? プロになろうと考えたことは?』
『プ、プロ!?』

さながら対局中のような真剣な表情で次々と言葉を投げかけてくるアキラに、ヒカルは困ったように頭をガリガリと掻いた。そして同じように困惑した表情で自分たちを見ている市河の背後にある壁掛けの時計を、ヒカルはチラリと見やる。時刻は4時30分。

『あー!』
『え?』
『やべっ…! バイト遅刻だっ…!』
『……』
『間に合うように打ったのに〜!』

間に合うように、打った?
アキラはヒカルの発した言葉に耳を疑った。それはまさか、先ほどまで自分と打っていたあの白熱した対局のことだろうか。それを『間に合うように』打った?
まさか彼は、あの対局を──時間をコントロールしながら打ったというのか?
……プロであれば、容易くはないがそれは確かに可能である。
普段の対局も持ち時間を与えられてやるものだし、一手を数十秒で打たねばならない早碁なんてものもあるくらいだ。
だが彼はプロ棋士ではない。ただの碁会所に連れられて来た客ではないか。
それが、名人である自分と打って、時間を気にしていたという。自分は時間のことなどすっかり忘れていたというのに。
アキラの背筋に、ぞくりとしたものが走った。

『おいっ! 今キミ、なんて…!』
『ごめん、オレもう行かなきゃ! じゃね!』

ヒカルはアキラに捕まれていた腕を強引に引きはがすと、慌てて碁会所の階段を駆け下りて行った。
当然アキラもその後を追って階段を駆け下りていく。

『待て! 待ってくれ!』
『進藤ヒカル!』

階段を下りきって通りに出た時には──すでに進藤ヒカルの姿はなかった。
どうやら相当に足が速いらしく、どちらを見渡しても、あの目立つ金色の前髪を発見することは叶わなかった。

……進藤、ヒカル。

結局名前しか答えてもらえなかった。
一体彼は何者なのか。あれ程の棋力、どう考えてもただ者ではない。
自分が大会の参加について聞いた時も困惑した表情をしていた。そういった類のものには参加したことがないのだろう。
それはそうだ、あれだけの腕を持つアマチュアが大会に参加してきたら、騒ぎにならないはずがない。

ふと、そこでアキラの思考が止まる。
そもそも、何故今日自分と彼が打つことになったのか? それは阿古田がヒカルを連れてきたからだ。

『……阿古田さん!』
『ハッハイ!』

すっかりいつもの風景を取り戻し、先ほどまで自分を囲んでいたギャラリーは各々の席で碁を打っていた。
その中の一人であった阿古田の名前を、アキラは大声で呼ぶ。
驚いた阿古田は打っていた盤面から顔を上げて立ち上がり、必死の形相をしたアキラに対して深々と頭を下げた。

『すっ、すみませんでした!』
『え』
『あの、進藤が、若先生に指導をしてもらったというのに…無礼な態度で、本当に』

進藤。
彼の人の名前が阿古田の口から告げられる。
アキラはなるべく平静を装いながら、『その進藤くんについてお聞きしたいのですが』
と阿古田に尋ねた。

『あなたと彼は、どういった関係で…』
『いや、その、アイツは私の通っている囲碁教室でバイトをしていまして…』
『囲碁教室でバイト? 指導碁の?』
『へ? アイツがですか? ち、違いますよ!
 アイツは受付とか碁盤や碁笥の用意とか、碁石洗いとか! 雑用のバイトです!』

……雑用?
そんなわけがない。あれ程の棋力を持ちながら。
たしか彼は去り際に『これからアルバイトがある』と言っていた。もしかしてその囲碁教室のだろうか?

『その囲碁教室とやらの、場所は?』
『へ? ああ、ええとお教えしてもいいんですけど…。今日はないですよ。というか暫くお休みで…』
『どうして!?』
『担当の白川プロが、しばらく実家の事情で東京を離れるからって…』

なんというタイミングの悪さ。
アキラは阿古田が思わず『わ、若先生』と声をかけてしまう程に、がっくりと項垂れた。
……白川プロ。聞いたことのない名前だ。棋院に問い合わせれば照会してくれるだろうか…
落ち込むアキラに、阿古田が取り繕うように明るい声でべらべらと喋り始めた。

『暫く囲碁教室が休みだっていうんで、若先生にまたご指導頂こうと思って、今日は来たんですよ』
『……そう…ですか』
『で、囲碁教室の帰り道に進藤とバッタリ会って。その話をしたんですよ』
『………』
『そしたらアイツ、『もう随分人と打ってないなあ』って』
『────』
『私、アイツがちゃんと碁を打てることも知らなかったものですから。
 じゃあ一緒に若先生のところにお邪魔して、若先生含め皆さんに一局打ってもらおうと…』
『……今、なんとおっしゃいました?』
『へ?』

アキラは再び耳を疑う。
阿古田は今なんと言った?


『随分人と打ってない』──


それは、どういうことなのか。
人と打たずにいて、あのような碁が打てるものなのか?
そんなバカなことが、あるはずがない。絶対にあり得ない。
さっぱりわからない。何もかもがわからなかった。




進藤ヒカル。一体彼は何者。





そうしてアキラはその日以来、悶々とした日々を過ごすことになった。
阿古田にヒカルの連絡先や住んでいる場所を聞こうとしたが、彼はヒカルのことを何も知らなかった。
阿古田が知っていたのは、進藤ヒカルという名前と、阿古田が住んでいる地元で不定期に開かれる囲碁教室で雑用のバイトをしている──たったそれだけのことだった。

もしかしたら、この碁会所を気に入って彼がフラリと一人で来るかもしれない。
アキラはそんな淡い期待を抱き、2カ月も放置した碁会所に、時間が許す限り足繁く通った。
そして必ず市河に「進藤は来ていないか」と尋ねた。だが市河の首が縦に振られることはなかった。

アキラは毎日、ヒカルと打った席に座り、ヒカルとの棋譜を並べた。
自分の対局だけではない、北島や広瀬、阿古田らと打ったヒカルの棋譜も並べた。
どうして、北島との一局をチラリと見た時に気づかなかったのか。
これはどう見ても指導碁だった。
この一手も、あの一手も。どれも最善の一手ではない。まるで遙かなる高みから打たれたような一手だった。
それを指導碁と気づかない北島らも北島らだが、恐らくヒカル自身が悟られないように細心の注意を払って打っていたに違いない。
『やった、また勝っちゃった』
あの言葉は、己の棋力を隠すためのカモフラージュだったのだ。

そして自分との一局──
さすがにアキラとの一局では手ぬるい碁は打てなかったのだろう。彼は突然鞘から刀を抜いた。
どれもこれも文句のつけようのない、絶好の一手だった。
判断も早く、高段者と変わらぬ──いや、それ以上の手応えだった。
だが彼は再び突然、抜いていた刀を鞘に収めてしまった。
突然緩やかな手を打ち始め、そして投了を宣言し、何も答えぬまま自分の元を去ってしまった。

アキラは悟っていた。
自分は手加減をされたのだ。名人である、自分がだ。
手加減──というのは言い過ぎかもしれない。だが彼が実際に、最後に手を緩め、自分との対局に本気を出さなかったのは事実だ。
今なら彼が置き石を断った理由がよくわかる。置き石などをもらってしまえば、負けるのが困難になるためだ。
彼は始めから──アルバイトに間に合うように2時間以内で自分と対局し、そして負けるつもりだったのだ。

花をもたされたのは、自分の方だった。

情けなかった。悔しかった。こんな感情は一体いつ以来だろう。
だがそんな感情を凌駕する想いがあった。それは訳のわからぬものではない、明確なものだった。


もう一度、彼と打ちたい。
もう一度。

もう一度、彼に会いたい。