「よっ、アキラ〜! 久しぶり〜」

幼少の頃より聞き続けている暢気な声が、棋院を歩くアキラの耳に届いた。
現在名人である自分を、今もなお人目も憚らずに「アキラ」と呼んでくる人物は二人しかいない。
そしてその二人とも、父・行洋の弟子──自分にとって兄弟子である。
アキラは足を止めて振り向き、その兄弟子の姿を視界に入れた。

「芦原さん」
「なんかお前と会うの、久しぶりだなあ。1カ月ぶりくらい?」
「そうだったかな」
「今日はどうしたんだよ? 対局日じゃないよな」
「ええ、出版部に用事があって。この後は別の場所で取材です」

穏やかな口調で話すアキラに、芦原は笑顔でそっかあ、と返事をした。
自分と久方ぶりに出会ったことで心より嬉しそうな笑顔を浮かべる芦原に、思わずアキラも釣られて笑顔になってしまう。
この芦原弘幸という人物は、自分がまだ小学生だった頃に父親の元へ入門してきた人物だった。
父の門下生の中で自分と一番歳が近く、そして厳しい面々の多い兄弟子たちの中で唯一といっていいくらい、柔らかい雰囲気を纏っている人物であった。
その親しみやすさが時折空気を読まない部分にもなって、アキラを困らせることもあったが──基本的には根っからの善人であり、アキラは芦原を『気の置けない友人』というポジションに収めていた。
一度そのことを何の気なしに芦原に言ったことがあった。すると芦原は『友人』という言葉に喜びつつも、「そこに『尊敬』とか、そーゆー言葉はないのかよ〜」と文句を言っていたっけ。
芦原の顔を見ながらボンヤリとそんなことを考えていたアキラは、芦原の「おい、アキラ!」という大きな声で、ふと我に返る。

「あ、ごめんなさい。何ですか?」
「やっぱり聞いてなかったのか〜。お前、疲れてるんじゃないの?」
「いえ、そんなことは」
「それとも恋の悩みだったりして〜」

からかうような口調で訳のわからないことを言い出す芦原に、アキラはまた空気を読まない部分の方が出てきたな、と思いつつ「なんですか、それは」と言って軽く受け流した。……軽く受け流したつもりであったのに、芦原の方はそうではなかったらしく、ニヤリと笑って「市河さんに聞いたぞ〜」と言い、アキラの肩にポンと手を置いた。

「なんでもお前、碁会所に来た若い子にぞっこんらしいじゃないか」
「……はあ?」
「なんて言ったかな…名前。ええと、ナントカ、ヒカルちゃんって子!」

一瞬、芦原が何を言っているのか全く理解出来なかった。
だが芦原の口から『ヒカル』という名前を聞いて、最近アキラの心の多大なるスペースを占めている彼の人の顔が頭の中に蘇り、漸くアキラは事態が飲み込める。
どうやら市河から、最近の碁会所におけるアキラの話を断片的に聞いたらしい芦原は、色々なことを著しく曲解しているようである。
アキラはフウ、と息をつきながら「そのことなら、違いますよ」と言った。

「ぞっこん、だなんて。確かに彼にはもう一度会いたいと思っていますが」
「へ? 彼?」
「進藤ヒカル。彼は男ですよ」

淡々とそう言ったアキラに、芦原は一瞬ポカンとしたもの、その数秒後に「なあんだ〜!」と天を仰ぐようにしながら大きな声を上げた。

「昨日久しぶりに碁会所に顔を出したらさ、市河さんが『アキラくんが夢中な子がいる』っていうから…」
「まったくもう」
「『ヒカル』って名前聞いて、てっきり若い女の子だと…。
 アキラも漸く色気づいたかと思ってたんだけどなあ」

がっくりと肩を落とす芦原に、アキラはハハハと笑う。
そんなたわいもない会話を続けながら、二人は階段を使って階下のロビーへと向かった。
階段を下りている最中も、芦原はアキラに話しかける。

「その子ってさあ、そんなに強かったの?」
「……ええ、強かったですよ」
「ふーん。お前がそう言うなんて、よっぽどだなあ。しかも若いんだろう?」
「年齢は聞いていませんが、たぶん高校生くらいじゃないかと」
「へー。なら、なんでプロにならないのかなあ」

芦原は不思議そうな声色で、疑問を口にした。
そのことは、進藤ヒカルと出会ってから2週間あまり、アキラは毎日のように考えてきたことだった。

あれ程の力を持ちながら、アマの大会などに出ることもなく、プロになることもない。
名人である自分と対等に碁を打っているのに、だ。
アキラはそれが信じられなかった。
だって、彼なら今すぐにでもプロになれる。いや、プロどころかすぐにでもトップ棋士になれるだろう。
しかも自分より年下であるというあの年齢で、どうしてプロの道を選ばないのだろう。
何か事情があるのだろうか。
アキラには不思議でならなかった。

進藤ヒカルと出会って以来、アキラは毎日のように彼のことを考えていた。
そして、今現在自分の持ちうる進藤ヒカルに関する情報で、なんとか彼の居場所を突き止められないかと奔走していた。
まずは、恐らく彼と最も近い人物であろう白川プロを探した。棋院に訪ねるとあっさり白川プロの存在を教えてくれたものの、彼は阿古田の言った通り東京にはいないようだった。何でも田舎の父親が倒れたらしく、そのために帰郷しているらしい。
次にアキラが頼ったのは、自分の母校である海王中学であった。
自分は属さなかったものの、海王には全国でも有名な囲碁部が存在していた。海王には高等部もある。
もし仮に進藤ヒカルが高校生だとしたら、学校の囲碁部に所属しているかもしれない。
そうすればあれだけの腕だ、海王にもその名が聞こえてくるはず──
だがアキラの淡い期待は海王側の「知らない」という返答であっさりと断ち切られた。
そもそも阿古田が言っていたではないか。彼が『随分人と打っていない』と話していた、と。

アキラはまず、それが信じられなかった。
人と打っていない、というのはどういうことか。囲碁は人と打つものだ。二人が揃わなければ始まらない。
それが、彼は打っていないという。ではどうやって精進しているというのか? 棋譜並べや詰碁を解いたりして?
そんなバカなことがあるはずがない。それだけでは、どうやってもあの棋力は説明できない。
自分と自分の父との関係のように、よほどの打ち手と打っていなければ──

そこまで考えた時、アキラはふと思った。


あの彼に囲碁を教えた人物は、一体誰なのだろう?



「アキラってば!」
「え、あ、はい」
「またお前、ぼーっとして!」

アキラが進藤ヒカルのことを考えている最中に、いつの間にか1階のロビーへと辿り着いていた。
そしてアキラの横で芦原は、盛大に頬をふくらまして怒っていた。恐らく上の空である自分にずっと何かしらを話しかけていたのだろう。微塵も彼の話を聞いていなかったアキラは、「す、すみません」と言って頭を下げた。
芦原は呆れたように息をつきながら、再び口を開いた。

「お前さ、今日の夜、なんか予定あったりする?」
「え? 今日は別に……」
「じゃあ、ちょっとつき合えよ。この前イイ感じのバーを見つけたんだ」

声を弾ませる芦原に、アキラは歯切れ悪く「ええと…」と言葉を濁す。
あまり酒が得意とはいえないアキラは、出来ることならこの誘いを断りたかった。だが芦原と会うのは実際久しぶりであったし、先ほどから自分は芦原を無視したりしてしまって、彼に不快感を与えてしまったことは否めない。それにここで断ってしまえば、後々面倒なことになるかも……
そういった諸々の判断から、アキラは「いいですよ」と了承の返事をした。すると芦原の顔は途端にパアッと明るくなり、「じゃあ夕方の6時に棋院の前でなー!」と言って盛大に手を振り、棋院を出て行った。確か今から5時頃まで得意先で指導碁とか言っていたっけ。

アキラは芦原のいなくなったロビーで、フウと息をつく。
最近は進藤ヒカルのことで頭がいっぱいで、自分の中の悶々とした気分と戦う毎日だった。
対局や仕事ほどではないものの、確かに少し心が疲れていることは否めなかった。
たまには少しくらい、お酒でも飲んでみるのもいいかもしれない。

アキラは再びフウと息をつき、彼の人の姿を思い描きつつ、芦原の言葉を思い出した。

『なんでもお前、碁会所に来た若い子にぞっこんらしいじゃないか』

ぞっこん、か。あながち間違いではないかもしれない。
確かに僕は、キミのことばかりを考えている。

キミに、もう一度会いたい。


++++++


夕方6時。
時間きっちりに棋院の前に再び現れたアキラを、芦原はすでにまだかまだかと待っていたようだった。
アキラの姿を見つけるやいなや、顔中を笑顔にして大きく手を振る。アキラは苦笑しつつ軽く手をあげてそれに答え、それから二人はタクシーに乗り込んで芦原の言う『イイ感じのバー』とやらに向かった。
その車中、芦原は楽しそうに声を弾ませる。

「この間偶然入ったバーなんだけど。すっごいイイ感じなんだ」
「はあ」
「お酒がすっごい美味しくてさあ。バーテンダーの子の腕がいいのかもしれないけど」
「へえ…」

アキラはこれといって酒に興味がないため、楽しそうに話す芦原にも軽い相づちを打つくらいしか出来ない。
特にバーなどという場所には、兄弟子である緒方に連れられて2,3度行ったことはあるものの、アキラにとって何がイイ感じで悪い感じなのかも、さっぱりわからなかった。
……というか。

「芦原さん、僕なんかじゃなくて緒方さんを誘えばよかったのに」

アキラは酒好きである二人の兄弟子の名をあげた。すると芦原は途端に顔を顰めて「ええ〜!」と抗議の声を漏らした。

「嫌だよ、せっかくオレが見つけたお気に入りのバーなのに!
 あの人に教えちゃったら、入り浸っちゃうよ」
「アハハ」
「特に、絶対バーテンの子を気に入っちゃってさあ、ちょっかい出すに決まってんだから」

ブウブウという音が聞こえてきそうな声で、芦原は兄弟子の文句を並べる。アキラも、我が家の新年会で緒方に絡まれる芦原の姿を何度も目撃しているだけに、兄弟子をかばうことも出来ず(かばう気もないけど)ハハハと笑った。
それにしても先ほどから芦原はバーテンダーのことを何度も口にする。どうやら芦原の言う『イイ感じのバー』の要因は、そのバーテンダーにあるらしい。

「そんなに腕がいいバーテンダーさんなんですか?」
「うん! 同じカクテルでも、あの子が入れると何か美味しくてさー。話も上手だし」
「へえ…」
「囲碁の話もわかるんだよ! 珍しいだろう?」

この前も自分の対局の愚痴を延々と聞き続けてくれてさ〜、と芦原はまるで惚気話をするかのように、そのバーテンダーの話をする。
それは囲碁の話がわかるのではなく、芦原さんの長い話に相づちを打っているだけなのでは…とアキラは心の中で思いつつ、芦原の止まらない話に「へえ」とか「はあ」などの返事を続けていた。

そして、タクシーは芦原の指定した路地に止まる。
車を降りた芦原は、スキップでもせんばかりの勢いで、路地裏にひっそりと現れた建物のドアを開けた。
ドアを開けてすぐに下へと降りる薄暗い階段が続く。
「暗いから、足下気を付けてな」と芦原はアキラに忠告しつつ、楽しそうに階段を下り、再びドアを開けた。
店の中は階段同様に薄暗く、よくあるバーの雰囲気である。
だが確かに悪い雰囲気ではない。客の声も適度に静かで、流れる音楽もジャズの上品なものだ。
煙草などの臭いもそれほど強いものではない。
店の奥にカウンターがあり、様々な酒の瓶が並べられている。そしていくつかのテーブル席があり、まだ夜の7時前だというのに、店の中は満席に近い状態だった。

「いらっしゃいませ、芦原様」
「どうもー」

声を掛けてきた店員に芦原は軽く手をあげる。
そしてアキラを引き連れて、まっすぐにカウンターへと向かっていった。
そこに彼のお目当てであるバーテンダーがいるんだな。アキラはそんなことを思いつつ、先を行く芦原の背を見ていた。
そして、カウンターの前で、芦原の大きな声が響く。








「こんばんはー、進藤くん! お望みどおりお客さん連れてきたよー!」
「あ、芦原さん。こんばんは」









……今、芦原はなんと言った?
毎日自分が頭から離れない、彼の人の名前を呼ばなかったか?

そしてそれに答えるように聞こえてきたのは、忘れもしない声。
















「へっへっへー、オレの弟弟子なんだけどね、オレよりも全然強くて、すっごい有名人!」
「アハハ、芦原さんより強いの?」
「じゃーん! 塔矢アキラ名人でーっす!!」

自分の背後に隠れていたアキラの手を引き、芦原は自分と会話をする人物の前にアキラを差し出した。
カウンター越しにアキラの目の前に立つのは、芦原のお気に入りだというバーテンダー。
カクテルを作るのも上手いらしいが、話し上手で囲碁のこともわかるという。
派手な金色の前髪、その下に透ける大きな瞳。

そこにいたのは──アキラが毎日のように会いたい会いたいと恋い焦がれていた進藤ヒカル、その人で。











「「あ」」












目を丸くして固まってしまった二人が、互いを指差しながら同じ言葉を発するのは数十秒後のこと。









再び二人に訪れた邂逅──
これは偶然であるのか、それとも。

この時にはまだ、二人にはわからなかった。

これから自分たちに起こる、出来事も。感情も。何もかも。
















今はまだ、はじまりの話。
すべてはここから、始まる。


……はず。



to be continued.