01-5












巣鴨にある本妙寺。
本因坊秀策の墓がある。

秀策の墓は2つあって、一つは彼の生誕の地である因島。
もう一つがお城碁を打っていた彼についた弟子達が立てた、東京にあるこの墓。


寺の住職に案内されて、僅かばかりの期待をこめて秀策の墓を訪れた。
でも、やはり進藤はいなかった。


生まれてから囲碁ばかり打ってきた僕だが、「棋聖」と言われる秀策の墓に来たのは初めてだった。
思っていたより小さく素朴な墓で、お寺もとても静かで落ち着いたところだった。
進藤が僕を連れて行こうとしていたのは、ここのことだったのだろう。
秀策には深い思い入れのある彼だ。
そして──「いつか話す」と言っていたあの事を話してくれるつもりだったのかもしれない。


では何故?
何故その前に僕の前から消えた?




…ここで考え込んでいても仕方のないことだ。
せめて、進藤が早く帰ってくるように秀策に頼もうと手を合わせ、墓を見た。
綺麗に手入れされている。ごく最近──おそらくそれこそ、昨日か今日の早い時間か。
まだ蕾もあるような若い綺麗な花が添えられていた。



「…お墓参りに来られる方は…多いんですか?」
「ええ、そうですねえ。それこそ、塔矢先生のような案外お若い方が多いんですよ。
 昨今の囲碁ブームのせいもあるのかもしれませんが…」

今朝もお若い方が来られてね、先生と同じ囲碁のプロだとおっしゃってましたけど、と住職は笑いながら続けた。
遠くに飛びかけていた僕の意識が一気に覚醒する。
まさか。
まさか。

「あの!」

墓の前から急に立ち上がり住職に詰め寄った。
住職は驚いて、一歩二歩と後ずさりをした。


「それは、その、今朝来た方は、えと…、僕と同じぐらいの歳で、前髪が明るい色で…
 名は進藤というんですけど…、その」
「あ、ああ、進藤五段? いいえ、違いますよ」

住職もさすがに若手で台頭し、メディアへの露出も盛んな進藤のことは知っているようだった。
でも、今朝ここへ来たのは彼ではないらしい。

「そうですか…」

僕は明らかな落胆の色を隠さず、がくりと肩を落とした。
そんな様子の僕に住職は気を使って、本堂の方へ行ってお茶でも飲みませんか、と声をかけてくれた。
何でも今朝、その墓参りに来た男が「棋譜を燃やしてくれ」と持って来たらしいのだが、それがとても面白い棋譜だというので僕に見てほしいとのことだった。




*********



「これなんですけどね」

そう言いながら出してくれた棋譜は、膨大な数だった。
ゆうに300枚以上ある。黄ばんだものから、つい最近書かれたのではないかと思われるものまで様々だった。

「非常に興味深いのですが…あの、他人の僕が見てもいいのでしょうか。燃やしてくれというものに」
「…本当はいけないんですがね。
 でも塔矢先生には見ていただきたいんです。なんとなく、見てもらわなければいけないような気がする。
 棋譜がそう言っているんですかね」

住職はそう言って笑うと、僕に棋譜の束を差し出した。
故人のものかもしれない。棋譜は,その人自身の深い思考が表れる。まるで日記のようなものだ。
他人の僕が見るのは少し気が引けたが,住職の言葉を聞いて、では少しだけと手に取った。


住職が,お茶をお持ちしますと言って,席を離れる。
静寂が僕の周りに広がる。







それと共に広がったのは、この棋譜の中に繰り広げられる、無限の宇宙だった。










しばらくして住職がお茶を持って戻ってきた。
お茶を僕の前に差出しながらこう言った。



「私も碁は打つのですがね。ヘボですけど。
 そんなヘボの私が見ても、この棋譜は素晴らしいんです。
 恐らく年代順に並べられているのでしょう。指導碁の記録らしいのですが…」



指導碁。
そうだろう。白と黒の間には遙か彼方の実力差がある。
でも、二つの石は繋がっている。深く深く、心が繋がっているのがわかる。


「黒が、最初はとても拙いんです。
 でもそれがね、一局打つごとに、どんどん強くなっていってるんですよ。
 黒も、白とともにどんどん強く美しい碁を打つようになっていくんですよ」




美しい白。
白に手を引かれ、同じ高みを目指し駆け上がっていく強い黒。

これは。
これは。
この白は。この黒は。


これは僕のよく知っている、ずっと追い求めている、あの──


「どうです、塔矢先生。もったいないでしょう、燃やしてしまうの。
 私もそう思って。でもこれを持ってきた方の連絡先がわからなくてねえ…。
 それで,塔矢先生は同じプロでいらっしゃるから、もしかして棋風とかに見覚えがあるんじゃないかと…」

「この…」
「は?」

声が喉に張り付いて上手く出ない。

「この棋風…には…見覚えがあります。
 …多分、僕の思っている人で間違いはないと思います…」
「本当ですか!良かった。
 では、なんとかその方に連絡をとって、お話を」
「でも」

声が掠れる。だって、だってこの棋譜は。



「これを…持ってきたのは…、…。
 いや、持ってきた方はこの棋譜の持ち主の代理人だったのかもしれない。
 どんな方だったか覚えてらっしゃいますか?
 お若い方だとおっしゃいましたよね。外見とか…」
「ああ、ええと。
 年の頃は恐らく塔矢先生と同い年くらいだと思いますよ。
 服装は今時の若者風なんですがね、礼儀正しい青年でしたよ。
 背がとても高くて、お顔もキリリとした力強い感じでねえ。
 ああ,でもそうだ。関西弁をしゃべってらっしゃって…
 もしかして関西に住んでられるのかもしれませんね」










『こいつを燃やしてくれって頼まれたんです』
『すんません、お願いします』












最後まで聞く必要もなかった。
背の高い、進藤と繋がりのある関西の男。


社清春。









何故彼が。
何故彼が進藤の棋譜を持っている。
何故彼が進藤の棋譜を持っていて、それを秀策の墓のある寺で燃やしてくれと頼む。
何故彼が。


この棋譜はおそらく、進藤は今まで誰にも見せたことはなかったはずだ。
進藤の最もパーソナルな部分に近いものだろう。
それを何故社が持っている。
そんなに二人は近しい間柄だったか?
仲は良さそうだったが、そこまでは感じなかった。
進藤は誰とでもすぐに仲良くなる。でも仲良くなるだけだ。踏み込みはしないし、踏み込ませない。
僕が何年かかって、今の位置にきたと思っているんだ。
僕は一番進藤に近い。彼を、彼の碁を一番知っているのはこの僕だ。
それを。
何故。
何故僕じゃない。


悔しい。





怒りが腹の底からフツフツと湧いてくる。
許せなかった。
進藤も。社も。何もかも。
怒りで目の前がユラユラと揺れる。
このまま黙って帰りを待ってなどいられるものか。

僕はずっとキミを待って来た。
会った時からだ。
キミはどれだけ僕を待たせれば気が済むんだ。
もう待つものか。
君がいつまでも来ないのであれば、僕の方から君の側へと近付くまでだ。
待っていろ。






捕まえてやる。