10-1.7





──2006年12月15日 午後12時25分。



その後、オレは和谷と共に塔矢を引っ張って日本棋院へと連れて行くことにした。
病院のことは、藤崎さんに任せた。
最初、こんなにも泣き崩れている彼女を一人きりにしてこの場を任せていいものかと思ったが、和谷にそう問い掛けると「あかりはそんな弱い女じゃねえよ」という答えが返ってきた。「進藤のことを心配したり考えている時のアイツは、誰よりも強ぇんだ」とも。
和谷の言葉から思うに、藤崎さんは進藤のことが好きだったのかもしれない。
でも、進藤には塔矢がいた。だから、進藤は藤崎さんの気持ちに答えることが出来なかった。
そして和谷はそれらをすべて知った上で、藤崎さんと結婚したのだろう。


進藤には塔矢がいる。
塔矢には進藤がいる。

そのあまりにも当たり前だった構図が、今、崩されようとしている。




そんなことを考えながら、日本棋院に向かうタクシーの中でオレの横に座る塔矢の顔をチラリと見る。
「囲碁を打て」という和谷の言葉に塔矢は僅かだけ反応を見せたが、虚ろな瞳に光は戻ってこないままだった。
こんな状態で、本当に高永夏と囲碁など打てるのだろうか。

こんな時に──いや、こんな時だからこそ塔矢と決着をつけることを選んだ高永夏。
そして、たとえ光が戻ってこなくとも囲碁を打たねばならない塔矢アキラ。



もしもこれが逆の立場だったら──もしも進藤が、今の塔矢のような立場に置かれたとしたら。



大切な人を失うかもしれない状況で、進藤もやはり石を持つのだろうか。












そんな考えても仕方のないことばかりに意識が行く自分に気付き、オレはブンブンと頭を振る。
そして、そうこうしている間にタクシーは日本棋院の前へと着いた。

オレと和谷は塔矢をタクシーから下ろし、両側から抱えるようにして日本棋院の中へと連れて行く。
ドアを開けて中に入ると、いつもは静かなはずのロビーに大勢の人間が集まりザワザワとしていた。
「な、なんやコレ」とオレが思わず呟くと、和谷が「だから大騒ぎになってるって行ったろ」と小さな声で呟いた。

あまりの人の多さにオレ達は塔矢を抱えて呆然とロビーの前に立ち尽くしていた。
すると、人混みの中からオレ達に気が付いた棋院の役員が「これはこれは塔矢先生!!
」と大声を上げ、揉み手をしながら近づいてくるのが見えた。
その役員の声に引っ張られて、ロビーに集まっていた大勢の人間達の目が一斉にオレ達3人へと向けられる。
そのあまりの勢いに、オレは思わず1、2歩後ずさってしまう。
そうしている間に、役員は塔矢の前に揉み手をしながら立っていて「せっかくの休日のところ、申し訳ございません!」と甲高い声を張り上げた。


「実は本日から韓国より高永夏先生と洪秀英先生がお出でになられまして!
 で、高永夏先生が是非とも日本のトップでいらっしゃいます塔矢先生とお手合わせをお願いしたいと…!」
「………」


役員が揉み手をしながら必死に説明をするのを尻目に、塔矢は相変わらず虚ろな目をしたままだった。
恐らく役員の言葉など耳には届いてないに違いない。
そんな塔矢の様子に役員は気付くはずもなく、相変わらず甲高い声でベラベラと説明を繰り返していた。
仕方なくオレがその役員の話を止めようとした時に、ロビーに集まる人混みの中から「塔矢」と呼ぶ声がした。
その声と同時に、人混みは波を割るようにしてザアッとオレ達の前に道を作る。
その道の先にいた声の主は、つい先程までオレ達と病院にいたヤツで。


「高永夏!」
「来たな、塔矢アキラ」


高永夏は虚ろなままの塔矢を見て、ニヤリと笑った。
高永夏の威圧的なまでの迫力に、オレ達の前で揉み手をしていた役員も思わず言葉を止めてその場を退いてしまう。
そのまま高永夏はツカツカと優雅な仕草で歩きながらオレ達の側へと近づいてくる。
その高永夏の隣にいた洪秀英は、驚いた顔でオレ達のことを見ると高永夏を押しのけ、オレ達のすぐ目の前へと急いで走ってきた。


「何で来たんだ! まさか来るだなんて……。
 こんな時に塔矢と決着をつけようとする永夏を僕は何とか止めようとしたんだけど…。
 ああなってしまった永夏はもう誰にも止められないんだ。
 だから、せめてお前達がここに来ないことを祈っていたのに…」
「諦めろ、秀英。コイツはオレと同じ人種だ」
「え?」


洪秀英が振り向くと、すぐ後ろに──つまりオレ達の目の前に、高永夏が立っていた。
そして先程と変わらぬ威圧的な態度でオレ達を見下ろす。
その高永夏の様子を見て、洪秀英は渋々とオレ達と高永夏の間から退いて高永夏を睨んだ。
高永夏はそんな洪秀英にも聞かせるような声で、オレ達に向かって口を開いた。




「囲碁を打たなければならない人間なんだ、塔矢は」

「………」

「たとえ、愛する人が傍にいなくとも」

「………」

「囲碁を打たなければならない。だからコイツはここに来たんだ。
 そうだろう、塔矢」




先程和谷が言った言葉と同じ言葉を、今度は高永夏が塔矢に向かって告げる。
塔矢は再びその言葉にピクリと身体を動かす。
そんな塔矢の様子を見て高永夏はニヤリと笑うと、息もかかるようなすぐ傍にまで塔矢に顔を近づけて再び口を開いた。



「塔矢。無知で無力なお前にヒカルを愛する資格はない。お前にヒカルは渡さない」

「………」

「来い、塔矢アキラ。オレがお前をヒカルの前から消してやる」




高永夏は塔矢の目の前で低い声でそう告げると、くるりと踵を返して棋院の奥へと進んでいった。
洪秀英は、塔矢の様子を心配そうに窺った後、高永夏の後を追いかけていった。

オレと和谷は、高永夏のあまりの迫力にその場から動けないでいた。
もし動けたとしても、このまま塔矢を高永夏の前へと連れて行っていいものかわからなかった。
このまま高永夏と対局させてしまったら、塔矢は本当に壊れてしまうかもしれない。
そう思うと、尚のことそこから動くことは出来なかった。

オレ達がその場で立ち竦んでいた、その時。

オレ達に抱えられるようにして立っていた塔矢の身体が動く。
驚いたオレが思わず「塔矢」と声を掛けると、塔矢はオレ達からゆっくりと身体を動かして離れる。

そして自分の力で立ち、自分の足で前へと歩いていった。
高永夏が歩いていったその道を、塔矢は一人で歩いていったのだ。

その足取りはすこし覚束ないながらも、決して迷うこともぶれることもなく、まっすぐに棋院の奥へと歩いていった。





──さっきまで、自分一人で立っていることも出来なかったのに。

──やっぱりお前は「囲碁を打たなければならない人間」なのか。








そう思いながら、オレは棋院の奥へと進む塔矢の背中を見送る。





酷く悲しい背中だった。







++++++






──2006年12月15日 午後13時00分。


幽玄の間にて、高永夏と塔矢の対局が始まる。
洪秀英は立会人として幽玄の間に高永夏と共に入った。
オレと和谷は、幽玄の間の様子がモニターで見られる解説室へと行き、二人の様子を見守ることにした。
すると、先程までロビーで騒いでいた多くの野次馬たちもこの解説室へとなだれ込んでくる。
そしてギャアギャアと大声を出しながらモニターの様子を見ていた。

その五月蠅い解説室とは対照的に──対局が行われる幽玄の間は酷く静かだった。
その場に居合わせていた洪秀英は思わず唾をゴクリと飲み込む。
その音でさえ響いてしまうのではないかと思うほど、静かだった。




「始めてください」という同じく立会人になる棋院の役員の声が、幽玄の間に響き渡る。
それと同時にパチリ、と音を立てて黒石が置かれた。





先番は高永夏。
高永夏は黒石を置いた後、鋭い眼差しで塔矢を見つめていた。

だが塔矢は相変わらず虚ろなままで、微動だにも動かなかった。
白石を手に取ることすらせず、目の前に置かれた黒石だけをジッと見つめていた。





塔矢。
お前が打つことを選んだんだぞ。

塔矢。





オレと和谷は解説室のモニターに映る黒石だけが置かれた碁盤を見ながら、塔矢が白石を置くのを待ち続けていた。

永夏が黒石を置いてから、時間は刻一刻と過ぎていく。
持ち時間は3時間。だが高永夏が黒石を置いてからすでに20分が経過し、塔矢は未だに動く気配はなかった。
そんな塔矢の様子に、さすがに解説室に集まっていた野次馬たちもざわめき出す。

「どうしたんだ、名人は」
「もう20分は経っているよなあ」
「何で打たないんだ? 具合でも悪いのだろうか」
「そういえば顔色があんまり良くないような…」

ざわめきは次第に大きくなっていき、関係のないところにまで飛び火していく。


「あ、そういえば進藤くんは? 塔矢名人VS高永夏の対局を見に来ないなんて!」
「確か塔矢先生と一緒に暮らしてるんだよな?」
「また寝坊とかじゃねえのか? タレント・進藤先生はさぁ」

ワハハハと馬鹿のように笑い出すヤツらにブチ切れてしまったオレは、ガタンッと派手な音を立てて立ち上がり、そいつらの元へ一発殴ってやろうとズンズン歩いていく。
そしてオレが「おのれらなぁ…」と声を荒げようとした瞬間、モニターを凝視していた和谷が「うるせぇぞ!!」と解説室や廊下にまで響き渡る大声で一喝した。
和谷の怒鳴り声にすっかり萎縮してしまった野次馬たちは、コソコソと解説室を出ていく。
振り上げた拳の行き場をなくしてしまったオレは、仕方なく再び和谷の隣の席へと戻る。
そしてチラリと横目で和谷の様子を窺うと、モニターを見つめたまま小さな声でボソリと呟く和谷の声が聞こえた。



「塔矢、がんばれ」



そうだ。オレも馬鹿を相手にしている場合ではないのだ。
塔矢、お前のこのすべてを賭けたこの一局をオレは見届けなければならないんだ。






塔矢。





















「がんばれ」