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10-2
何も見えなかった。
何も聞こえなかった。
ただただ真っ黒な闇が僕の周りを包み込んでいた。
一筋の光すら見えやしない。
──そう、あの瞬間。
キミが崩れ落ちるようにして僕の目の前で倒れてしまった時から。
僕の目は何にも見えなくなり、僕の身体は何も感じなくなり、僕の周りは闇で包まれてしまった。
今自分がどこにいて、何をしているのかもわからない。
ただ、真っ暗な闇の中で僕はひたすらにキミの名前を呼び続けている。
キミが返事をしてくれるまで。
キミがもう一度あの声で、僕の名前を呼んでくれるまで。
僕はただ、返事のないキミの名前を呼び続けている。
進藤。
進藤。
僕の声は、キミに届いているのかな。
進藤。
返事のないキミの名前を呼ぶ。
すると、キミと過ごした日々が僕の中で次々と溢れるように蘇っていく。
『…いやだな。心配かけちゃうの』
『え? ああ、オレさあ独立することにしたから。え?
そうそう。それで家探すの。すぐ引っ越すから。』
『そっかー! お前と一緒に住めば良かったんじゃん!』
『お前家にいたらさあ、好きな時に時間とか気にしないでいつでも打てるじゃん!
それってチョー嬉しい!!』
──突然姿を消して大阪に行ってしまった時。
僕はキミを迎えに行ったね。
その時キミは、何故大阪に来たのか、何故突然いなくなったのか、結局話してはくれなかった。
それでもキミがそこにいた。
僕はそれだけでよかったんだ。
大阪の碁会所で囲碁を打って、突然キミが泣き出して。
泣き出したと思ったら今度は怒り出して。
そして東京に帰るやいなや、いきなり部屋を探して僕とキミは一緒に暮らすことになった。
目まぐるしく動いた初夏の日。
キラキラと輝いていて、今も色鮮やかに思い出すことが出来る。
キミの笑顔。キミの声。
キミが笑ってそこにいた。
僕は幸せだった。
『わあ、今度オレ指導碁に行ってみていい?
塔矢の小さい頃の話とか聞いちゃおう』
『オレ、あの匂い好きだなあ。
お前の匂い。なんかホッとする。』
『………塔矢……
………………いい匂い………』
『ブッ……クククク…アハハハハ!
お前…ブッククク……覚えてないのかよ〜…』
一緒に暮らし始めて。
あまりにも僕と生活のリズムが違うキミに、最初は戸惑ったし、今思えば小言ばかりを言っていた気がする。
食べたものは片づけろとか、脱いだものはきちんと仕舞え、とか。
そんなこと、どうでもよかった。
僕がやってあげればよかったじゃないか。
もっと、もっと、キミに色々やってあげればよかった。
でも、そんな小言ばかり言う僕にも、キミは笑ってくれていた。
キミが笑ってそこにいた。
僕は幸せだったんだ。
『囲碁の打てないオレなんて、もういらない?』
『ホントだよ。おかげでオレ頭悪いくせにメッチャクチャ悩んじまったじゃんか』
『……お前ってさ、ホントバカ。でも好き』
『たんじょーびケーキ。もう14日だろ? お前、今日誕生日だろ』
『ケーキ入刀〜〜。二人の初の共同作業でーす』
『あー、もしかしてお前、オレのことも名前で呼びたかったりしたの?』
しばらく経った頃、僕は酔っぱらってキミに酷いことをしてしまった。
だがキミは怒らないで、僕を受け止めてくれた。
そしてそのことがきっかけでケンカをした時も、キミを傷つけてしまった時も。
キミは僕を受け止めてくれた。
キミを好きだ、と言った僕の気持ちを受け止めてくれたんだ。
それから、キミは僕にたくさんのあたたかい気持ちをくれた。
それがキミの僕への愛情なんだと気付くのに、僕はこんなに時間がかかってしまった。
今思い返してみれば、色々なところでキミの僕への愛情を発見することが出来る。
今になって気付くだなんて。
僕はバカだ。
そんなバカな僕を、キミは笑って受け止めてくれていたんだ。
キミが笑ってそこにいた。
僕は本当に幸せだったんだ。
『オレさ。オレ、嬉しいんだよ。
その人がいい人で、塔矢のことを抱きしてめてくれるような、
塔矢も抱きしめたくなるような。そんな人だったらいいなって。』
『本当に、囲碁が。囲碁が好きなんだな。
オレはお前のそーゆーところが一番好きなのかもしれない』
『いつか、わかる日が来る。もしも、今はわからないと思っていてもいつか──。
ずっと、一緒にいれば。ずっと一緒にオレ達は打ち続けていれば。
わかる日が来るよ』
キミは、いつも僕の幸せを考えてくれていた。
僕のことを想い、僕の幸せのためにキミはすべてを抱え込んでいた。
その時僕は、キミに何をしてやれた?
僕はキミの幸せを考えていただろうか?
僕は自分のことばかりを考えていたんじゃないのか?
僕は。
もっと。もっともっとキミのことを考えればよかった。
キミの幸せを考えればよかった。
僕は。
僕は。
『塔矢』
進藤。
『塔矢』
進藤。
『一緒に打とう、塔矢』
キミのその声が聞こえた時。
闇に包まれていた僕の目の前に、小さな光が灯る。
小さな光はやがて9つになり、星になる。
その星たちをむすぶようにして光の線が描かれていき、目の前に光で出来た十九路の道が出来る。
──それは、光で出来た碁盤。
光り輝く碁盤が、闇の中にいる僕の前にただ一つの光として現れる。
ああ。
結局僕は、ここへと戻ってきてしまう。
僕に「一緒に打とう」と呼び掛けるキミの元へ──碁盤の前へと戻ってきてしまうのだ。
『囲碁、なんだな、お前の心は』
そうだ。
僕はこんな時にでも──キミを失うかもしれないこんな時にも、こうして碁盤の前にいる。
ここから離れられないでいる。
必ずここへと戻ってきて、僕は石を取ってしまうのだ。
僕は酷い人間だと思う。
こんなにもキミは僕を愛してくれたのに、僕はそんなキミよりも囲碁を取ろうとしているのだ。
酷い人間──そう、まるで罪人のようだ。
キミよりも囲碁を選ぶという罪。
そして僕はその罪を償うために、打ち続けなければならないのだ。
闇の中にいる僕の目の前には、この光り輝く碁盤しかない。
だから、僕は打つしかないんだ。
『碁の神様って孤独だな』
──昔、彼が言っていた言葉を思い出す。
碁の神様、か。
神様。
もし、あなたが本当にいて、そして僕の声が聞こえるのなら。
酷い罪人である僕の声が聞こえるのなら、一つだけでいいから僕の願いを聞いて欲しい。
お願いです。
僕は石を持つ。だから──
だから、もう一度。
もう一度、彼の声を聞かせて──
『一緒に打とう、塔矢』
パチリ。
右上スミ、小目。
光の碁盤の上に石を置く。
するとその石を置いた場所から、僕を包んでいた暗い闇がサァッと晴れていく。
暗い暗い闇の世界から、明るい光の世界へと僕は戻っていく。
僕は。
僕は今までどこにいたのだろう。
酷く暗くて冷たい闇の世界だった。
彼が僕を呼ぶ声で、僕はここへと戻って来れたのだ。
『一緒に打とう』という彼の声で──
ふと顔を上げる。
目の前に、鋭い眼光で僕を睨んでいる高永夏が座っている。
高永夏は僕と目が合うと、鋭い目つきのままフッと小さく笑った。
その時、高永夏は声に出して言った訳ではないけれど──僕の心に高永夏の声が響いてきた。
戻ってきたな、塔矢アキラ。
だがここへ戻ってきたところで、オレはお前にヒカルを渡す気はない。
無知で無力なお前はヒカルには相応しくない。
このオレがお前を見極めてやる。
彼に相応しくないか。
確かにそうかもしれない。
それでも僕は、彼の傍にいる。
彼の傍で、僕は囲碁を打ち続ける。
それがどんなに罪深いことでも、僕は打ち続ける。
彼と僕は囲碁を打ち続けるんだ。
僕たちはそのために生まれてきて、今ここにいるんだ。
今──ここに彼はいない。
でも、僕の中にはいる。
僕が打つこの碁の中に、彼はいる。
僕が打つことによって、彼は僕の呼び掛けに答えてくれる。
僕と彼は、離れていても会うことができる。
今、僕はそれがわかったんだ。
だから、僕は囲碁を打つ。
進藤。
どうか、僕の碁を見ていてくれ。
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