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10-2.5
「始まった!」
高永夏の初手が打たれてから27分あまりが経過して、漸く塔矢の第1手が打たれた。
解説室はにわかにざわめき出す。
右上スミ、小目。
第一手としてはよく打たれる手堅い一手だ。
──進藤が好んでよく打つ第一手。
塔矢はきっと、闇の世界から戻ってきたんだ。
囲碁を打たねばならないという罪を背負って。
「塔矢……がんばれ」
オレと和谷は、解説室でひたすらそう願いながらモニターを見ていた。
++++++
塔矢の第一手に時間がかかったものの、その後は早い展開で次々と石が置かれていった。
しかし、盤面は高永夏の黒有利で進んでいく。
洪秀英が言うところの「高永夏が最近好んでよく使う手」という、黒9、13の構え。
黒13が10の16星に打たれ、塔矢の白は14に置くことしか出来ない。
序盤の戦いは高永夏の勝利で進んでいく。
そのまま盤面は進み、黒の27手目を数える頃。
「……! 右上でやりあい始めたな」
モニターを見ていた和谷が、低い声で呟く。
オレと和谷は机の上の碁盤で、高永夏と塔矢の対局を再現していた。
「ああ、……でもこれは…」
「黒27、そこに来たか」
「ここまでは、完全に高永夏ペースや。白はすでに傷だらけやで」
塔矢の白は、圧倒的に不利な状況だった。
この序盤の戦いですでに大きく差をつけられてしまったといっても過言ではない。
「黒27にツイで白は困っているだろうな。次の手でも切られちまってるし。
修復のしようがねぇぜ」
「……でも塔矢、白30で押さえてきたな。ふんばりどころや」
「でも、コイツは難しいぜ……」
「………」
圧倒的に黒有利の状態の棋譜を見せつけられた解説室は、シンと静まりかえっていた。
時折ボソボソと聞こえる声の中には「やっぱり高永夏って凄いんだな」「こりゃ、案外早く終わるかも」という、すでに塔矢の敗北を予想するものが多かった。
塔矢、何してるんだよ。
お前は囲碁を打つことを選んだんだろう。
がんばれ。
がんばれ。
がんばれ。
がんばれ。
「あっ!!!」
和谷が大声を出し、思わず椅子から立ち上がる。
和谷の声に驚いたオレは、その顔を伺いつつ和谷の目線の先を追った。
するとそこに打たれていたのは──塔矢の白48手目に対し、高永夏の黒49手目。
「………」
「黒49…ココか…?」
「早い切り返しやったけど…でもここは8の8よりも8の9の方が良かった気ぃするな」
「それより塔矢の48手目が気にならないか?
ここに塔矢が打ったせいで、高永夏は慌てて49手目を打たされた感じだ」
「……打たせたのちゃうか? 塔矢が」
オレが思わず呟いた言葉に、和谷はもう一度棋譜を見返してからスゥッと息を飲む。
オレ達が再現している碁盤の周りにはいつのまにか多くの人だかりが出来ており、オレの言葉でその場にいた全員に電流のような衝撃が走る。
オレは再びモニターの中の盤面を確認しつつ、言葉を続けた。
「もしかして、始めから高永夏にこの手を打たせるつもりで塔矢は盤面を進めていたんとちがうか?」
そのオレの言葉を聞いた和谷は、モニターに映る棋譜から目を離さないまま静かな低い声で呟く。
「………捨てたのか」
「は?」
「塔矢のヤツ、序盤の右上を捨てて──最初からこの一手を狙ってたんだ」
その和谷の言葉で、解説室にいた全員が一斉にモニターへと注視する。
盤面はすでに白の56手目まで進められていた。
今まで疑問手など一つもなかった高永夏の完璧な碁が、塔矢の先程の一手から音を立てて崩れていくのが見えた。
それでも序盤であれだけ大差をつけ、有利だった黒だ。まだ軌道修正は出来たはずだ。
だがその後の高永夏の打つ手は、よほど塔矢のあの一手に動揺したのか、傷口を広げるばかりだった。
白、82手目。
中央の黒に照準を合わせた塔矢の白は、まるで大きな刀でなぎ払うようにして黒の陣地を奪っていく。
「……右辺一帯で黒は40目はあるな。中央の黒は薄いし、ここを守るのは高永夏も厳しいだろうな」
「あれだけ序盤でついた差が……あっちゅう間に一転したな。ハッキリ白優勢や」
「こうなったら、高永夏はもう……」
「ヨセで勝負するしかないよ」
聞き慣れない声に、ハッと振り返る。
するとオレのすぐ真後ろに、いつのまにか洪秀英が立って盤面をみつめていた。
「お前…立会人のくせに出て来てええんか?」
「どうせもうすぐ終局だ。終わったら戻るよ」
「どうせって」
「永夏はヨセはあまり得意じゃない」
「…でも、まだ予断は許さない状況やで。生きる道はあるかもわからんし…」
「多分、今の永夏は無理だと思う。あんな塔矢を見てしまったら…」
「あんな…?」
オレが顔を顰めて洪秀英に聞き直すと、洪秀英は下唇を噛みながら僅かに震える声で話し始めた。
「あんな、恐ろしい一手はない。あんな、あんな一手が打てるなんて。
僕も永夏も思いもよらなかった」
「白の48手目か」
「永夏はすぐに切り返したけど、打った直後に気が付いたんだ。
あれは、最初からすべてを読み切っていた一手だったって」
「………」
「究極の一手だ。永夏に反撃の隙はなかった」
洪秀英はそこまで言うとフーッと大きく息をつき、グッと力をこめて拳を握る。
そして再び口を開いた。
「……僕はあの48手目が打たれた時、塔矢を見た」
「………」
「塔矢の指先から青白い炎が立ち上っているようだった。
まるで、塔矢の中に鬼が棲んでいるようだった。
僕はその鬼を垣間見た時、永夏はもう絶対に勝てないと思った」
「………」
「多分、永夏もそう思ったと思う」
「………」
「でも、これで良かったんだ。……多分この対局で、永夏は決着をつけるつもりだったから。
進藤と塔矢に対する、自分の気持ちに」
「え?」
オレが思わず聞き返すと、洪秀英は先程まで震えていた声を僅かに大きくして言葉を続ける。
「永夏は最初から塔矢と囲碁を打って、
進藤のことで深く沈んでしまっている塔矢を引っ張り上げるつもりだったんだと思う」
「……え」
「多分それが、最後に永夏が進藤にしてやれる、たった一つのことだから」
洪秀英はそう言うと、再び大きく息をついてフッと笑い、表情を緩ませて明るい声で話し始めた。
「永夏、プライド高いからさ。塔矢に負けるところなんて誰にも見られたくないだろうと思って。
だから僕は部屋を出たんだ」
「………」
「口ではあんなことばかり言ってるけど……本当はイイヤツなんだよ、永夏は」
「……そうみたい…やな」
「本当に永夏は……永夏は進藤が好きで」
「………」
「………進藤が…」
再び声を震わせて俯く洪秀英を、オレは椅子に座ったまま見上げる。
ギュッと力強く瞑られた目からポタポタと大粒の涙が零れ続けている。
塔矢に負ける高永夏の姿が辛くて悔しくて泣いているのか。
自ら恋敵に斬られようとしている高永夏が哀れで泣いているのか。
それとも、──進藤のことを想って泣いているのか。
洪秀英は、ポタポタと涙を零し続けた。
オレ達の周りにいる野次馬達は、何のことかわからずに首を傾げている。
オレは洪秀英の背中をポンポンと叩き、再びモニターの中の盤面を見つめた。
白、194手目。
黒、投了。
白の──塔矢の中押し勝ちで対局は終わった。
色々な想いが交錯する盤面だ。
今ここで、洪秀英が色々な想いを交錯させて涙を零しているように。
同じ人を想う二人が打ったこの棋譜もまた、様々な想いが張り巡らされていた。
囲碁というのは、ここまで人の感情がぶつかり合うものなのか。
棋譜というのは、ここまで人の感情が表現されるものなのか。
長年囲碁をやってきたけれど、オレは初めて囲碁の持つ「深淵」というものを見た気がした。
それはとてもとても深くて、果てしなく深くて──どこまでも続いていて。
そしてそこを辿っていくと──進藤、お前の言う『あの世界』へと辿り着くんじゃないのかな。
オレには多分、行くことは出来ないけれど。
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