10-3





──2006年12月15日 午後16時35分。







「ありません」という流暢な日本語が、耳に届く。
僕はしばらくその声に反応することが出来ず、ただただ目の前に繰り広げられている棋譜を見つめ続けていた。



……………終わった……のか?




「ありがとうございました」

再び碁盤の向こう側から終了を告げる声が聞こえる。
そこで漸く僕は右手に持っていた碁石を碁笥の中に落とし、顔を上げた。
すると、高永夏が僕の視界に飛び込んでくる。



ああ、そうだ。この棋譜は高永夏と打っていたものだった。
……僕が勝った、のか。



漸く飽和状態だった頭が状況の理解へと向けて動き出す。
そうか、僕は高永夏に勝ったのか。
今思えば、高永夏とは都合2度対局しているが、勝利したのは初めてだ。

僕はもう一度棋譜を眺めてから顔を上げて高永夏を見つめる。
高永夏は、病院や対局中に見せた攻撃的で鋭利な表情から一転して、ひどく落ち着いた静かな表情をしていた。
高永夏も僕と同じように目の前の棋譜を見つめていたが、暫くしてからフウと大きく息をついて、スッと碁盤のある一点を指さす。


「…白、48手目。四方を睨んだいい手だ。
 まさかこの状況下で、こんな一手を打ってくるとは思わなかった」
「………」
「お前のその一手に吸い込まれるようにして打ってしまったこの49手目が失着だったな。
 その後は、もう立て直しがきかなかった」


そう語る高永夏の表情は酷く穏やかで、静かな声で淡々と語りながら石を指さしていく。
僕はそんな高永夏の目の前で何も言葉を発することが出来ず、ジッと黙ったまま高永夏を見つめていた。
高永夏は棋譜を辿りながら、再び白48手目のところで手を止める。


「……力強い一手。神々しささえ感じる」
「………」
「『神の一手』、か」



『神の一手』──

高永夏の言葉に、思わず自然に肩がピクリと揺れた。
高永夏はそんな僕を見つめながら、再び静かな声で語り出す。


「でも、まだまだこの一手もほど遠いのかもしれない。『神の一手』まではな」
「………」
「でもヒカルが……お前を選んだ理由が少しだけわかった気がする」

顔を上げて高永夏を見つめると、高永夏は穏やかな表情で僕を見つめ、フ、と僅かに微笑んだ。
そして再び棋譜を見つめて指を伸ばし、石の流れを辿っていく。


「お前達二人で囲碁を打ち続けていけば、いずれ神の一手が打てるような気がする」
「………」
「オレではなく──お前とヒカルで」


そう言いながら高永夏の指は再び白48手目を指し、静かに僕を見つめた。
だがその表情は先程までの穏やかなものとは異なり、再び対局中のような厳しい表情になっていた。
僕は高永夏から目を逸らすことが出来ず、ジッと彼の鋭い瞳の奥を見つめ続けていた。
高永夏は厳しい表情のまま、僕に再び語りかける。


「塔矢アキラ」
「………」
「お前はきっと今後も囲碁を打ち続けていくだろう。
 お前とヒカルの間に何が起ころうとも──お前は決して囲碁を捨てることは出来ない」
「………」
「たとえその身や命を捨てたとしても、お前は囲碁を捨てることだけは出来ない。絶対に」
「………」
「お前は囲碁を打たなければならない人間だから」
「………」
「それが、ヒカルよりも囲碁を打つことを選ぶお前の罪だ」
「………」
「だがそんな罪深きお前だからこそ……ヒカルはお前を選んだのだと思う」



高永夏は、僕から目を逸らさない。
僕も高永夏から目を逸らすことが出来ない。

高永夏の言葉が、彼の目を通じて僕の心に響いてゆく。





「そんなお前だから、ヒカルはお前を愛したのだと思う。
 こうしてお前と打ってそれがよくわかった」

「………」

「ありがとう、塔矢アキラ」






高永夏の言葉に、僕は何も返すことが出来なかった。
彼の言葉に、心だけではなく身体も震えてしまって、反応が出来なかったせいかもしれない。
そんな僕の様子に高永夏は呆れるように大きく溜息をついて、先程までの静かな口調とは全く異なるような大きな声で、僕に向かって言った。


「何をしてるんだ。早く行け」
「………」
「お前が罪を償う方法はただ一つだ。
 お前を選んだヒカルの傍にいて、共に囲碁を打ち続けることだ」
「………」
「早く行け! 早く行かないとオレはお前を殴ってしまいそうだ」



高永夏の言葉がまるで呪文のように僕の身体に降りかかり、固まって動けなかった足が勢いよくスクリと立ち上がる。
そしてその足は止まることなく駆け出し、幽玄の間を飛び出していく。
一度動き出してしまった足は大急ぎで周り続け、階段を飛び降りるようにして駆け下りていく。
背後から、和谷と社が「待てぇ!」と大声で叫びながら追いかけてくる声が聞こえた。
だが僕は振り返ることも忘れて、棋院を飛び出していく。






………ありがとう。

社、和谷。

僕をここに連れてきてくれてありがとう。

僕に囲碁を打たせてくれてありがとう。








………ありがとう。

高永夏。

僕と囲碁を打ってくれてありがとう。

進藤と共にいることを許してくれてありがとう。









………進藤。

僕は囲碁を打ったよ。

そして、今キミの傍に行くよ。

だからお願いだ。

どこにも行かないで待っていて。

















そして、もう一度キミの声を聞かせて──




































──僕が駆けだしていった後の幽玄の間。
高永夏は静かに棋譜を見つめ、フーッと大きく息をついた。
そんな高永夏の元に、解説室から幽玄の間へと戻ってきた洪秀英が近づいていく。


「……永夏」
「終わった、な」
「………」



洪秀英は高永夏にかける言葉が見つからず、ただ黙って高永夏を見つめていた。
だが、洪秀英の予想と反して、高永夏は酷く穏やかな表情をしていた。
そして高永夏はどこか遠くを見つめるような瞳をしながら、静かに口を開いた。



「……囲碁を打たねばならない人間、か」
「永夏……」



高永夏はそう静かに呟くと、再び白の48手を指した。



「神の一手を打てるのは……そんな罪を背負った人間だけなのかもしれないな」
「………」
「そう考えれば──囲碁の神様ってのは、罪深き人だったのかもしれない」



洪秀英は、高永夏の言葉に首を傾げる。
高永夏はそう言って自嘲的気味に笑うと、再び遠い目をして独り言のように呟いた。
























「そして、神様になった今も──罪深い人だ」





「神の一手を打つために」





「ヒカルを連れ去ろうとしているのだから」





































高永夏の声が、静かな幽玄の間にいつまでも響いていた。