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──2006年12月15日 午後17時15分。



僕と社と和谷は、進藤のいる病院へと再び戻った。
進藤はすでに診療室を出て個室の病室へと移されたらしく、僕たちはその場所へと向かう。
すると、その進藤がいると思われる部屋の前の廊下で、藤崎さんが長椅子に一人で座っていた。
俯いて座っていた彼女は、僕等の姿を見つけると顔を上げる。
廊下の奥に天井まで伸びる大きな窓があり、そこから強い西日が差し込んで彼女を照らしている。
その窓からの逆光のせいで彼女の表情がよく見えないが、彼女は僕等の姿を見つけると「義高!」と声をあげて駆け寄ってきた。

「あかり。大丈夫か」
「……うん」
「悪かったな、任せちまって。……で、進藤は?」
「診療が終わって、今はこの部屋に…」

彼女はそう言って進藤のいる部屋の扉を悲しげな瞳で見つめた。
彼女のその視線を追うようにして、僕等もその扉を見つめる。



この扉の向こうに、進藤がいる。
ここに、進藤が──




「あのね」

僕がその扉を見つめていると、藤崎さんが遠慮がちに声をかけてきた。
彼女に視線を移すと、彼女は不安そうな瞳で僕を見つめる。

「あの…今、ね。面会に来てる人がいるの」
「………」
「そうなのか? 進藤の両親か?」
「いや、進藤の両親は今法事で九州におるって…。来られるのは早くても明日って言うてなかったか?」
「ううん、おばさんたちじゃないの。…たぶん、お医者様じゃないかしら。
 他の先生たちが、その人を見て挨拶をしていたから」
「………」
「それで、私が『どなたですか』って聞いたら、『アキラくんと進藤くんのちょっとした知り合いです』って…」


その彼女の言葉を聞いた時、ある一人の人の顔が僕の頭を過ぎる。
僕が小さい頃から、僕の傍にいてくれた人。
色々なことを僕に教えてくれた人。
顔をしわくちゃにして笑う、優しい笑顔の人。


その時、進藤の部屋の扉がガチャリと音を立てて開かれた。
僕たちは再び一斉に扉へと顔を向ける。
するとその扉の向こう側から出てきた──僕が頭に思い描いていた人──矢部先生は、いつもと変わらぬ優しい声で「おや」と呟いた。
その矢部先生の声を聞いた瞬間、僕の身体はビクリと震え、金縛りにかかってしまったかのように動けなくなる。
矢部先生は、そんな僕の前にいつもと変わらぬ優しい表情で立っていた。




「………」
「やっと来たね」
「…………あ……」





矢部先生は優しい声でそう言うと、僕を見てニッコリと笑った。
だが僕の身体は相変わらず動くことが出来ず、唇はワナワナと震え、言葉を紡ぎ出すことが出来ずにいる。
話したいことが、話さなければならないことが一杯あるはずなのに。









矢部先生。矢部先生。
僕は、僕は。










「…………や……」
「なんだい」
「……僕……は…」







唇がワナワナと震えて、言葉が上手く形にならない。
矢部先生、僕は話さなければならないことがたくさんあるはずなのに。
でも、何をどう言えばいいのだろう。
わからない。




矢部先生。
僕は。













「進藤くんはねえ」


僕が何をどう話したらいいのかわからないまま固まっていると、矢部先生はいつもと変わらぬ優しい声で僕に話しかけた。
金縛りにかかったかのように動けなかった身体が再びビクリと震え、いつの間にか俯いていた顔が上がる。
矢部先生はそんな僕を見てニッコリと笑うと、西日が強く差し込む窓からの光を浴びながら、ゆっくりと語り出した。


「僕の診療所に来る度に、いっつもキミのことばかり話すんだよ」
「………」
「今月に入って少し体調が悪くなってきた時もね。
 僕が何を聞いても最後には必ずキミの話になってるんだよ」



矢部先生は少し呆れたような口調でそう言って、短い頭髪をポリポリと掻いた。
そして、再び話し出す。
僕が幼い頃から聞いていた、あの優しい声で、優しい口調で。

僕の知らない進藤の姿を語り出す。



「やれアキラくんの対局がどうした、この前出ていたテレビがどうした。
 毎日作ってくれるご飯が美味しいとか。好きなのはちょっと焦げた和風味のハンバーグだとか。
 いつも掃除ばかりしていて、几帳面だとか。口うるさくてかなわない、とか。
 入れてくれるお茶は夏だろうが冬だろうが日本茶ばかりだとか」

「………」

「アキラくんと打つ囲碁が一番楽しい、とか」

「………」

「アキラくんといる時間がとても大切だ、とか」


「………」

「つい今さっきもね、彼と話をしたんだよ。意識が戻ってね。
 そうしたら、またキミのことばかり話すんだ」






























































『進藤くん』
『……せんせい…』
『大丈夫かい』
『………オレ…結局また戻って来ちゃった……』
『うん?』
『小さい頃いた……白い部屋……』
『…そうかい』




『せんせい……塔矢…は…?』
『棋院に行っているそうだよ』
『………』
『お昼までは病院にいたらしいんだけどね』
『そっか……よかった……』
『うん?』
『塔矢……囲碁……打ってる……よかった…』




『アキラくんに、身体のことを説明をしないとね』
『……フフ…』
『なんだい?』
『たぶん…すっごい怒るだろうな…って…。「何で隠してたんだ」って…』
『そうだろうね』
『…また…いつもみたいに…あやまらなきゃ……「ごめん」…って…』
『そうだね』




『せんせい…オレね…ずっと恐かったことがあ?んだ』
『なんだい?』
『……オレが…このまま『あの世界』に行くために…ここから……いなくなって…』
『うん』
『そうしたら、塔矢、壊れちゃうんじゃないかなあ…って……』
『うん』
『……オレがそうだったから…』
『………』
『同じ想いだけは……あんな想いだけは絶対に…塔矢……させたくなくて…』
『うん』




『だから…オレ…塔矢…好きにならないように……って…』
『うん』
『塔矢にも……他に大切な人…出来れば……』
『うん』
『……でも……無理だった…オレも…塔矢もお互い……好きになっちゃった』
『うん』
『…だか…ら………どうしようって…』
『………』




『…いっぱい…悩んだ…』
『うん』
『永夏や……秀英にも迷惑……かけて…』
『うん』
『……でも…永夏と打って……オレ…わかっ…て…』
『うん』
『塔矢が…オレ…好きなのも…オレが…塔矢を好き……なのも……もう…変えられないけど……』
『うん』
『……でも……オレたちには囲碁…が……囲碁があるから……大丈夫って……』








『オレたちは……囲碁を打っていれば大丈夫って……』








『……塔矢は……囲碁…打って……いれば…大丈夫……って』








『囲碁が……塔矢を守って……塔矢の心を守って…くれるから…』








『……だから…オレが………『目的』………ために……いなくなっても……』






























































『だから………塔矢……大丈夫だよ』


































































「──……」
「愛されてるなあ、アキラくん」



全身が震えて上手く立っていることが出来ない。
今、自分がきちんと立てているかどうかもわからない。
進藤の言葉一つ一つが僕の心と身体を大きく震わせてしまい、彼とは反対に僕は上手く言葉を伝えることが出来ない。

何かがポタリと床に落ちる音が聞こえる。

目の前に立っている先生を見る。
先生が水槽の中にいるようにユラユラと揺れていて、姿をはっきりと見ることが出来ない。



頬を何かが伝っていく。



後から、後から。



止めることが出来ずに。














せんせい。
僕は。
















「……囲碁を……僕は囲碁を打たなければならない人間だって言われました」
「うん」
「そしてそれこそが僕の罪なのだと」
「うん」
「そんな罪深き僕を進藤は選んだのだと」
「でも進藤くん自身はそうは思っていなかったねえ」
「………」






先生は、昔と変わらない優しい声で僕に語りかける。
僕はその優しい声に、顔を上げる。
先生はニッコリと笑うと、力強い手で僕の右腕を掴んだ。


そして優しい声に力強さを込めて、先生は僕に言う。





「キミが囲碁を打つことは、罪じゃない。
 キミが囲碁を打つことは、囲碁を──進藤くんを愛することなんだよ」





「進藤くんはそれがわかっていたから、キミを選んだんじゃないのかい」















































































進藤。







































































進藤。




僕は。



































「容態は安定したよ。
 暫く予断は許さないけれど、今日のところはもう大丈夫だ」

「………せ……」

「『大丈夫』って彼が言うんだ。キミは信じてあげなくちゃ」

「…………せん……」

「今日は帰りなさい。明日来るといい。
 明日必ず会えるから。今日はよく眠るんだ。いいね」








先生はそう言って、力強く僕の手を握った。
先生の手の温もりが、僕の冷え切った手に伝わってくる。
涙が止まらずにボタボタと零れ続ける。









せんせい。
僕は。






















「……せんせい」
「うん?」
「……た……すけ……」
「うん」




























せんせい。
僕は、話さなければならないことがたくさんあったはずなんです。












なのに、涙で崩れきったこの一言しか僕は言葉にすることが出来なかった。







































































































「……進……を……たすけ………くださ………い……」