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──2006年12月15日 午後19時20分。




僕等にとって、酷く長い1日だった今日という日を照らしていた太陽はすでに沈み、外は夜の闇に包まれていた。
和谷と藤崎さんは、彼女の体調を考えてタクシーで帰ることになり、病院前で別れた。
別れ際、和谷は僕に向かって力強い声で「頑張れよ」と言ってくれた。
そんな彼に僕は「ありがとう」とだけ、小さな声で返した。
藤崎さんは、タクシーに乗り込んでからも心配そうに僕のことを見つめ続けていた。

二人を乗せたタクシーが走り去った後、僕と社は並んで夜の道を歩き出す。
社が「お前もタクシーで帰るか?」と言ってくれたが、僕は首を横に振った。
冷たい冬の夜風に当たって、頭を冷やしたかったのだ。
グチャグチャになってしまった頭の中を冷やして、考えたかった。





色々なことを考えたかった。
これまでのこと。これからのこと。

進藤と僕の──僕たちのことを。







寒い夜道を、僕と社は何も話さずに歩いた。
そういえば昨日の夜もこうして二人で、進藤を探して夜道を歩き回っていたんだったな。
なんだか酷く昔のことのように感じる。たった1日前の出来事なのに。

……社とは、こうして二人で歩き回ってばかりだな。

そんなことを考えていたら思わず可笑しくなって、フッと息を漏らしてしまう。
そんな僕の様子に気付いた社は「何や、いきなり」と話しかけてきた。

「いや。なんだかキミとはこうして歩き回ってばかりいるなって思って」
「……そう言われてみれば、そうやな。昨日の夜からお前と二人きりや」
「そうだね」
「なんだかオレら、いっつも進藤に振り回されてばかりやな」
「……そうだね」

僕がそう返事をすると、社はプッと吹き出すようにして笑い始めた。
そんな社につられるように、僕も思わず笑い始めてしまう。
久しぶりに動かした顔の筋肉は引っ張られるような感じがして、少し痛かった。

そのまま二人で色々なことを話したり笑ったりしながら、僕等は夜道を歩き続けた。




そして暫く歩いた後──駅の傍の交差点に差し掛かる。
確か今夜から社は、彼の師匠の知り合いの先生の自宅に泊まると言っていたっけ。
僕は彼がこのまま駅へ向かって歩いていくのだろうと思っていたが、彼は信号が青になっても動こうとしなかった。
そして、先程の藤崎さんと同じように、酷く心配そうな顔で僕のことを見つめていた。


「……塔矢。大丈夫か、お前」
「え?」
「今日、オレまたお前んち泊まろうか?」


社は心配そうな口調でそう言うと、僕の顔色を窺うようにして見る。
そんな社の思いやりに、僕は感謝の意味を込めて少し笑うと「いや、大丈夫だよ」と返事をした。
僕の返事に驚いたのか、社は慌てて僕に再び話しかける。


「大丈夫って、お前…ホンマか? 遠慮とかいらんで」
「ありがとう、気持ちはもらっておくよ。
 ……ちょっと一人になって色々と考えたいんだ」
「……でも」
「大丈夫だよ。変な気とかは起こさないから」


僕が再び笑いながらそう言うと、社は「そんならええけど…」と小声でブツブツ言いながらも納得したようだった。
そしてそのまま、少しの間沈黙が流れた。
駅に続く信号は再び赤になってしまい、社の背後をたくさんの車が通過していく。
僕も社も向かい合ったままなんとなく視線を落とし、社は足下に転がっていた小石を右足で弄んでいた。

それからどれくらいが経ったのか──時間にしたら僅か30秒にも満たなかったのかもしれない。
続いていた沈黙を破るように社が顔を上げ、僕に向かって口を開いた。



「なあ、オレ、お前に色々言ってないことあるよな」
「……え?」
「進藤のこと。ホラ、春にアイツ大阪来た時。
 ちょっと色々あってな。そん時にオレはアイツの身体のこと知ったんや」
「………」
「でも進藤には絶対に誰にも言うなって言われた。塔矢にも自分で言うからって。
 だから言われへんかった」
「………」
「すまんかった」



社は真剣な声でそう言うと、その場で深く頭を下げた。
僕は何も言うことが出来ずに、黙ったまま社のことを見つめる。
暫くそのまま頭を下げていた社は、顔を上げると真剣な顔つきで僕に向かって言った。







「塔矢」







「今なら、色々話せる。あの春の日──進藤に一体何があったのか」







++++++





























あの春の日──。

第4回北斗杯が終わったあと、彼は僕の前から忽然と姿を消した。





























彼は1ヶ月の休業届を出し、誰にも何も言わずにいなくなってしまった。
その時、何としても彼を見つけておかなければと思った僕は、何日も当てもなく彼を探し回った。

そうして行きついた先が、大阪の社の元だったのだ。






「北斗杯の前日にお前んちで恒例の合宿したやろ。
 その時に進藤に『一人暮らしするから遊びに来いよ』って言うたんや。
 そしたら一週間もせえへんうちにホンマに来よってな」
「………」
「でも、それは別にオレんちが目的だったワケやないんや。
 ある場所へ行く途中に立ち寄った、って感じやな」
「……ある場所?」















































「因島」




































































……──因島?























































「………因島……って…」
「もちろん知ってるやろ。本因坊秀策の故郷、因島や」








































あの春の日、進藤は因島へ行こうとしていた。
誰にも言わず、たった一人で。


本因坊秀策の故郷に、たった一人で──









































僕は驚きのあまり、声を出すことが出来ずに黙ったままジッと社を見つめた。
社はそんな僕を見ながら、再び言葉を続けた。



「それで、な。何日かオレんちに泊まって。
 大阪の碁会所に行ったりして過ごしてたんやけど…あれは、大阪に来て何日目やったかな」
「………」
「進藤、具合が悪くなってな。倒れたんや」
「………」
「ホンマ焦ったで。驚いて、病院連れてったんや。
 そうしたら、『身体が酷く弱っとるから、今すぐ東京に帰った方がええ』って言われてな」
「………」
「そん時に…先生から『たぶんやけど』つって…病名も聞いてしもうて」
「………」
「オレ、なんも事情知らんから。どーゆーことやってホンマにビビって……
 そしたら進藤の荷物から薬が山ほど出てきよってなあ…」
「………」
「ホンマなんや…って」
「………」
「で、とりあえず体力が回復するまでの何日か、大阪の病院に入院することになって。
 オレ、ホンマにビックリして進藤の実家に連絡せな、って思ったんやけど…
 進藤がそれだけはやめてくれ、って。今はまだ内緒だからダメだって。
 そんな場合やないやろ、って言うたんやけど……ちゃんと自分で言うから今はダメだって」
「………」
「オレ、もう何がなんだかわからなくなってもうて。
 進藤に『一体どういうことや』って聞いたんや。
 そしたら、進藤も隠しきれへんって思ったんやろ。話してくれたんや」









































『あ〜あ…バレちゃった』
『………』
『そんな顔するなよ、社』
『……なんで、…お前が』
『別に、いいんだよ。始めから決まってたことなんだ。
 こうなるの、わかってたから。だからオレ…』
『……いいことあらへんやろ』
『え?』
『始めから病気になるって決まってる人間なんておらん!!
 病気になっていい人間なんておらん!!
 ナメたことぬかすなぁっ!!』
『………社』
『……くそっ………くそっくそっくそっ!!!』
『泣かないでよ…』
『……………………くそっ……』












『……ごめんね』






































「──……」





半年も前に、そんなことがあっただなんて。
僕が知らないところで、彼と社にそんなことがあっただなんて。
僕は声を出すどころか身体を動かすことも、瞬きをすることすら出来ないでいた。

事実の重さに──僕の身体は反応することが出来ないでいたのだ。



社と進藤は、半年も前から酷く重たいものを抱えていた。
そして僕はそのことに気付きもしなかったのだ。



社はそんな僕を窺いつつ、再び言葉を続ける。





「とにかく…そんな状態に進藤がなってもうて。
 アイツの本当の目的地だった因島なんて行けるワケなくなって。
 そしたらアイツ、オレに『お願いがあるんだ』って」
「………」
「代わりに因島に行って、この棋譜を燃やしてほしいって」
「──……」
「でもオレ、仕事で東京に行かなアカンかったから…無理やって言うたんや。
 そうしたらアイツ、じゃあ東京の──秀策のもう一つの墓がある、本妙寺でいいから、って」
「──……」
「お前、本妙寺で見たやろ。あの棋譜や」




そう、あの進藤を追っていたあの日。
僕は偶然に本因坊秀策の墓がある巣鴨の本妙寺にたどり着く。
そこで僕は社が代わりに持ってきたという、進藤の棋譜を見つけたのだ。




「……あの棋譜…何の棋譜やと思う?」
「……進藤の…たぶん、囲碁を学ぶ過程で…打ってきた棋譜…」
「指導碁の記録みたいなモンやと思うけど…。
 初めて見た時、驚いたで。アイツ、師匠はおらんって言うてたから……。
 こんな凄い人に教わってたんやないか、ってな」
「………」
「まるで、神様が打ったみたいな棋譜やった」















































神様が打った棋譜──









その中に広がる無限の宇宙──









そして、深い深いところで繋がっている白と黒──
















































あの──春の日に見た棋譜が僕の中に鮮やかに蘇る。
白に導かれるようにして、遙か高みへと登っていく黒。
心の深いところで繋がっている、二つの石──







僕は、その二人の棋士を知っている。





黒は進藤ヒカル。




















そして白は──




































「なんでやろって思ったんや」


社の声で、僕はあの棋譜の中に飛んでしまっていた意識を現実へと引き戻す。
社も頭の中であの棋譜を思い描いているのか、その瞳はどこか憧れを含んだような遠くを見つめるような目をしていた。


「なんで燃やしてしまうんやろって思った。
 ……オレの勝手な想像やけど──たぶん、この棋譜は進藤にとってすごく大切なモンなんじゃないかと思った。
 だからオレ、進藤に聞いたんや。何でや、って」
「………」
「でもアイツ、それには答えてくれへんかった。
 フワフワと笑うばかりで、答えてくれへんかった」
「………」
「たぶん、オレには──オレだから、言えへんかったんやと思う」
「──……」










「たぶん……お前やないとダメなんやと思う。
 進藤は、お前にならすべてを話してくれるはずや」


「──……」



「今すぐじゃないかもしれへん。でもきっといつか──」

























































『お前には──そうだな、いつか話すかもしれない』







『お前に話したいことがあるんだ』

『ずっと前に──いつかお前に話すっていったこと』







『長い間待たせてごめんな』















































かつて進藤から聞いた言葉が一気に僕の頭の中に蘇ってゆく。
今までどこも途切れ途切れで、繋がっていなかった彼の言葉の裏に隠されていた彼の本当の姿が、本当の気持ちが少しずつ見えてくる。






進藤。
キミが本当に僕に伝えたかったことって何?

僕は──
















「なあ、塔矢」


遠くへ想いを馳せていた僕に、社が静かな声で話しかけた。
僕は彼へと視線を移す。


「進藤な。……その、大阪で入院してる時な。
 両親にはたぶん隠すことが出来るけど、お前には無理やって言うてたで。
 お前なら、絶対に大阪まで自分を追っかけてくるハズやって」

社はその時のことを思い出すようにして話し、そしてクスクスと笑い出す。

「そしたらホンマにその晩、お前から電話かかって来よってなあ。
 ホンマ驚いたで」
「………」
「お前らの、繋がりの──絆の深さに、ホンマ驚いた」
「………」

社は心から感心したようにそう言うと僅かに黙り、そして再び静かな声で僕に語りかける。


「なあ、塔矢。
 お前も進藤も──それだけ、思い合える相手に出会えたっちゅーのは…
 ホンマ奇跡みたいなモンやで。羨ましいと思う」
「………」
「だから、絶対に自分を責めないで欲しいんや。
 進藤も、そんなこと望んでないと思うし」
「………」
「あの──矢部先生も言うてたけど……
 お前やから、お前が塔矢アキラやから、進藤はお前が好きになったやんで」







































社が真剣な瞳で僕に言う。
僕が塔矢アキラだから、進藤は僕を好きになってくれたのだ、と。



社。
進藤。






僕は。








それでも、僕は。










































「……ありがとう」



僕は、先程和谷にも伝えた時のように、酷く小さな声で社にそう答えた。
社は変わらずに、真剣な瞳で僕を見つめ続けている。


社。僕は。
それでも、僕は。



「……キミにそう言われると、気持ちが少し楽になる。
 それと……──半年前のこと。話してくれてありがとう」
「………」
「キミには本当に感謝してる。僕はキミと友達になれて良かった」
「………塔…」




僕は社にそう伝えると、彼にクルリと背を向けて、彼が渡るべき信号とは反対側の信号を渡った。
背後で社が、車や雑踏の騒音に負けないくらいの大きな声で「塔矢!」と僕の名を呼んでいた。
それでも僕は振り返らずに信号を渡った。

信号を渡りきって、僕がそのまま振り返らずに歩き出そうとすると、社の大きな声が再び耳の中に木霊していく。
その言葉に、僕は思わず振り返ってしまう。
























































「塔矢! 誰も悪くなんかないんやで!」


















「お前も進藤も、悪くなんかないんや!」












































「塔矢!!」

























































車が次々と僕たちの間を大きな音を立てて走っていく。
社は振り返った僕を見て、大きな声で何度もそう叫び続けていた。






……──社、ありがとう。




でも。





それでも、僕は。
















僕は叫び続ける彼に向かって、その時の僕が出来た最大限の笑顔を彼に向けた。
すると彼はそんな僕の表情に気が付いたのか、叫ぶのを止めてジッと僕を見つめた。

僕は、再び彼に背を向けて歩き始める。










僕は彼に見送られながら、夜の道を一人で歩いていった。
















そんな僕を見送りながら──叫ぶのを止めた社の小さな声が、夜の闇の中に静かに溶けて消えていった。








































































































「お前は悪くなんかないんやで、塔矢……」