10-6






「……ただいま」













ドアをあけて靴を脱ぎ、部屋に上がると同時にいつもと同じ言葉が口をついて出る。
いつの間にか癖になっていた自分に、思わず笑ってしまいそうになる。



靴をそろえてふと振り返ると、足下から「ニャー」という鳴き声がした。
その声がした方に目線をやると、真っ暗な部屋にとけ込んでしまっていて気が付かなかったのだが、いつの間にか猫のアキラが僕の足下に擦り寄ってきていたのだ。
そんなアキラを見て、とある既視感に襲われる。
そして思わず笑ってしまう。


「…………いつも僕を出迎えてくれるのはお前だな……」
「ニャー」


そう。帰宅した僕を玄関まで出迎えてくれるのは、いつも猫のアキラだった。
彼はというと──いつもリビングに寝転がっていて、僕がリビングの扉を開けると漸く僕が帰宅したことに気が付いて「おかえりー」と声をかけるのだ。


僕は廊下を進み、閉じられたリビングの扉に手をかける。
その時僕は──もしかして、心のどこかで少しだけ期待していたのかもしれない。
今日あった出来事はすべて夢の出来事で、今この扉を開ければ僕は夢から覚めて、そしてキミがいつものように一足遅い「おかえりー」という声をかけてくれるんじゃないかって。

そして僕は力を込めて扉を開け──そんな僅かな期待こそが夢だったのだ、と思い知る。
電気の消えた真っ暗な部屋を見て、今日あった出来事はすべて現実なのだと、僕は思い知らされる。


















──真っ暗な部屋。
──誰もいない部屋。






──キミが、いない部屋。























電気を点ける気にはなれなかった。
電気を点けてしまえば、キミがこの部屋にいないことをより認識してしまいそうで、怖かったから。

そのまま歩みを進めると、足に何かがあたる。
暗闇の中で何かを蹴飛ばしたことに気付き、僕はその場にしゃがみ込む。
暗闇に真っ直ぐ手を伸ばすと、恐らく僕が蹴飛ばしたと思われるものに触れることが出来た。
こちらに引き寄せてみると、アキラのキャットフードが入った箱だった。

ああ、そうか。そういえば。

暗い部屋の中に入って大分時間が経ち、暗闇に目が慣れてきたのか、窓の外から差し込む月明かりだけで部屋の様子を窺い知ることが出来た。



酷く散乱した部屋──。


リビングの入り口に脱ぎ捨ててある、彼の靴下とスリッパ。
そして僕の足下にあるアキラのキャットフードの箱。空になった牛乳パック。
スーパーの袋。その中から見える食材と菓子類。
ペットボトルやビールなどの飲み物の類。
空になったペットボトルと無数の缶。
鍋に入れた食材の残り。それが入っていたと思われるボールの数々。
ティッシュペーパーの箱とそれをグチャグチャに丸めたゴミの数々。
テレビのリモコン。食材の下敷きにされている週刊碁。月刊囲碁ワールド。少年ジャンプ。碁盤。碁石。

そして。

テーブルの上には、食べかけの状態で放置された鍋──。







そんな部屋の様子を見て、僕は再び既視感に襲われる。









そうだ、昨日。昨日、僕はこの部屋の様子を見たんだ。
でもその時は、部屋は明るかった。
その時は、鍋からは暖かい湯気が立ち上っていた。
その時は、僕は一人じゃなかった。

その時は、彼がいたんだ。










































つい昨日まで、この部屋に確かに彼はいたんだ。






















































でも、今、彼はいない。


















































































僕はフウと溜息をつくと、台所へ行って大きな白いゴミ袋を持ってきた。
そして、床に散乱しているゴミを袋の中へと入れていく。

こんな汚い部屋のままにしておく訳にはいかないんだから。
いつかは、片づけなければならないんだから。



僕はリビングを歩き回って、ゴミを拾い集める。
まったく。よくもまあ、こんなにも部屋を汚せるものだな。
出した物を片づけようという気にはならないんだろうか。
ゴミはゴミ箱に捨てるものだ、出した物は出した場所に仕舞うものなんだ、と何度も注意したのに。
それでもなかなか彼の「パナシ癖」は直らなくて、結局いつも僕が片づけていたんだ。
昨日この部屋を見た時も、イヤな予感がしたんだ。
彼も社も「後で片づけるよ〜」なんて言ってたけど、やる訳がないんだ。

ホラ、結局。













「………ホラ……結局片づけるのは僕なんじゃないか」



















僕が。
僕が片づけるんじゃないか。













今キミが、ここにいないから。


















































そのまま僕がゴミを拾い集めて歩いていると、僕の背後をついて来ていた猫のアキラが「ニャー」という鳴き声を上げた。
僕が振り返ってアキラを見ると、アキラは僕を呼ぶようにもう一度「ニャー」と鳴いた。


「……ああ……そうか…。ご飯……」


丸一日誰も家にいなかったから、お前、ご飯を食べられないでいたんだな。
そういえば先程キャットフードの箱があったはずだ。

僕は先程拾い上げたキャットフードの箱をアキラ用のお皿の上で振るが、中身が一切出てこない。
箱の中を覗くと中はすっかり空っぽになっていた。

……確か彼が、買い置きをたくさんしていたはずだ。
いつの日だったか、駅前のペットショップで安売りをしてたから、と言って持ちきれない程の量のキャットフードを買ってきたことがあったっけ。




「………どこにあるんだろう」





アキラの餌を探して、僕は台所の戸棚をあけた。
でも、どこにもない。
シンクの下の棚を開け、その上の棚をあけ、レンジの下の棚を開け、その下の棚を開け。
食器棚の棚も開けて、中を探す。
台所の棚という棚を開けて中を探したが、どこにも見つからない。



「……おかしいな」



再び棚の奥側を探していると、頭の奥の方で彼の姿が過ぎる。
いつも彼がアキラに餌をやっている姿が、僕の頭の中に鮮明に映し出される。

そういえば。
僕はアキラに餌をやったことは、一度もなかった。
いつも彼がやっていたからだ。
アキラの餌を買ってくるのも、それを片づけるのも、そして餌をやるのも、いつも彼がやっていたんだ。




僕はいつも彼に「まったく、家のことを何もしないんだから」と怒っていた。
でもそんな僕は──すべてを自分一人がやっている気になっていた僕は、こうして猫の餌の在処さえわからないでいるじゃないか。






































僕は。












僕はバカだ。


















































「どこだろう……」





暗闇の中で餌を探し続ける自分の姿が可笑しくて、思わず探しながら笑ってしまう。
僕は笑ったつもりだった。
笑いながら言ったから、自分の言葉が変に崩れて震えていても、おかしいとは感じなかったんだ。
だって僕は、笑ったつもりだたから。


なのに、頬を何かが伝っていく。



それは静かな暗い部屋にポタリと音を響かせて落ちていった。
一粒零れ落ちたそれは、次から次へと止まらずに落ちていく。










「おっかしいなあ………」














僕が再びそう言葉を漏らした時、僕の隣で再び「ニャー」という鳴き声が響いた。
何だか彼に呼ばれたような気がして、僕は思わず振り返って声のした方を見つめる。
すると、アキラが暗い部屋の中で僕をジッと見つめていた。
そして振り返った僕の顔を見て、再び「ニャー」と鳴く。


















僕は探す手を止め、「ニャー」と泣き続けるアキラをジッと見つめた。


そして、思わず手を伸ばす。


アキラのフワリとした黒い柔らかい毛が、僕の冷えた掌を包む。



その伸ばした手を自分の元へと引き寄せ、アキラをそっと抱き上げる。



アキラは鳴き声も上げず抵抗もせずに、僕に黙ったまま抱かれた。



その小さな身体の小さな温もりが、冷えた僕の身体を暖めるようにして満たしていく。




























「……あったかいな……」





















































僕がそう言うと、アキラはそれに返事をするかのように再び「ニャー」と鳴いた。
その声は、まるで僕を慰めようとしているかのような優しい鳴き声で。

その声を聞いて、僕はアキラを抱きしめる力を強めた。
それでもアキラは、暴れもせずに大人しく僕の腕の中に抱かれて「ニャー」と再び優しい声で鳴いた。


そのアキラの小さな温もりと小さな鳴き声は、この冷えた暗い部屋と冷え切ってしまった僕の身体に、酷く優しく染みていく。











「ニャー」



「………………」



「ニャー」



「………………」



「ニャー」



「………うっ…」








ポロポロと零れていた涙は、止まらずに流れ続けている。
先程矢部先生の前で、涙は全て出し切ったと思っていたのに。
なのに、涙は再び止まらずに流れ続けている。

それどころか、先程は出なかった声までもが口から漏れ始める。

最初は小さかったそれは、アキラの「ニャー」という優しい鳴き声を聞く度に、どんどん大きな嗚咽となって僕の口から零れ続けていく。
































「ニャー」



「うっ……ひっ……く……」




「ニャー」



「……う…うええ………」



「ニャー」



「………………………………うっ…」

















































──その後。

僕はアキラを抱きしめたまま、部屋中に木霊するような大きな声でワンワンと泣き続けた。
窓から差し込む月明かりを浴びながら、僕は大声で泣いた。


こんな風に声を上げて泣くのは初めてだった。


どれくらい泣いたのだろうか。
──わからない。










ただ、誰もいなくなったこの部屋に、自分の泣き声が消えることなくいつまでも響いていた。
終わることなく響いていた。















































泣いても泣いても、誰もいなくなったこの部屋から返事が来ることはなかった。


















































































ねえ、進藤。
僕はあの時どうすればよかったのかな。












































社が「悪くない」と言ってくれても。
矢部先生が「愛されてるね」と言ってくれても。



みんなが「キミが僕を好きなんだ」と言ってくれても。









































それでも僕は。





僕は。




































































あの日の僕はただ、泣くことしか出来なかった。
誰もいなくなったこの部屋で、僕は声が枯れるまで泣くことしか出来なかったんだ。







自分を責めて泣いた訳じゃない。
ただただ、キミがこの部屋にいないことが──僕はひたすらそれが、悲しかった。







































































そしていくら涙を流しても、その悲しさは消える事はなかった。











































































ねえ、進藤。



僕は、本当はどうすればよかったんだろう。



進藤。

































































































僕は今でも、あの部屋でそう考える時がある。
でも、僕の問いにキミからの返事はない。








キミのいなくなったこの部屋に、キミからの返事はもう響かない。









だから僕は、今もわからないままでいる。





























ねえ、進藤。





































































































キミは、幸せだった?





to be continued