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白い部屋、白い布。
白い光、白い服を着た人たち。
――そこは白い白い世界。
小さい頃、確かにオレはそこにいた。
──今、はっきりと思い出す。
忘れていたのは、オレの記憶の中から白い世界のことが消えていたのは、……ただ思い出したくなかったから。
本当にそれだけだと思う。
思い出したくなかったんだ。
白い壁に白い窓、窓の外から見える白い雲。
思い出す、遠い景色。
身体の奥底が熱と痛みに焼かれて崩れていく。
思い出す、この身体の痛み。
白い部屋にたちこめる、消毒液の匂い。
それは、噎せ返るような死の匂い。
──あの白い白い世界が、オレがいた世界の色を消すようにして、オレの中で蘇っていく。
昔、この白い世界にいた頃。
逃れられないと思っていた。
幼いながらも、いつか自分はこの白い部屋に溶けるようにして消えてしまうんだと、思っていた。
でも、そうはならなかった。
オレはこの白い世界から逃れて、色鮮やかな世界へと飛び込むことが出来た。
色々なものを見ることができた。
触ることが出来た。
知ることが出来た。
そして大切な人とも出会えた。
時間にしてみれば、十年あるかないか。
たった十年、されど十年。
オレの人生の半分だよ? 十分じゃないか。
今、再びこうして白い部屋に戻ってきて、わかることがある。
オレがこの白い世界から少しだけ出ることが出来たのも。
ただ消えてゆくだけだったオレが、色々なことを経験出来たのも。
そして大切な人と出会うことが出来たのも。
すべて『アイツ』がいたおかげなんだ。
『アイツ』と出会えたおかげで、オレは幸せだったよ。
オレ、幸せだったんだよ。
ねえ、聞こえてる?
innocent world
act.11
小さい頃。
オレはいつも白い部屋にいた。
白い部屋、白い布、白い壁、白い光。
それは病院に入院していたからだ。
──そう、小さい頃のオレは、その時間のほとんどを病院で過ごしていた。
だから小さい頃の記憶がなかったんだ。
だって、楽しかった思い出なんて一つもなかったから。
忘れたい記憶しかなかったんだ。
せいぜい思い出せることといえば、あかりが幼稚園で泣かされているオレを庇ってくれたことくらいなもので。
その幼稚園ですら休みがちで、ほとんど行っていなかった。
幼稚園や小学校に行かない日々は、病院で過ごしていたんだ。
不思議だな、と思っていた。
どうして友達やあかりは毎日幼稚園に行けるのに、自分はいけないんだろう。
どうしてすぐに熱が出るんだろう。
どうしてすぐに身体の中がズキズキとするんだろう。
なんで自分だけなんだろう。
そう思って、母親に聞いたことがあった。
すると、母親はすぐに顔をグシャグシャにさせて泣きながら病室を飛び出していってしまった。
追いかけて行きたかったけど、行くことすらできなかった。
腕は透明な管に繋がれていたし、棒のようになってしまった足は上手く動かすことすら出来なかった。
お母さん、お母さん。おいていかないで。
泣かないで。
目を腫らして戻ってきた母親にそう言うと、母親はまた顔をグシャグシャにした。
なんでかなあ。
なんでかなあ。
お母さんには泣いてほしくないのに。
お母さんには幸せでいてほしいだけなのに。
僕が大きくなって、お母さんを幸せにしてあげればいいんだけど、
僕、大きくなるまで生きていられるのかな。
──そんなことばかりを、毎日白い部屋の中で考えていた。
そんなある日。
……あれはいつだったか。
オレの10歳の誕生日を病院で祝った直後のことだったから──今から約10年近く前か。
その日、病室のベッドでオレは夢を見た。
真っ白い夢だった。
真っ白い世界の中を、オレは一人で歩いている。
でも病院の白い部屋とは違う。
どこか暖かくて、光に包まれたような綺麗な白い色。
──このままこの白い中を歩いていったらオレはどうなるのかな。
もしかして、消えちゃうのかな。
……それでもいいか。
そうしたら、お母さんは毎日泣かなくてすむかもしれないし。
そんなことを考えながら、幼いオレはその白い世界の中を歩き続けていた。
どれくらい歩いた頃だろうか。
声がする。
どこから?
優しい声。
……オレのことを呼んでる?
『ヒカル』
その声を聞いた瞬間、オレの身体は白い暖かい光に包まれてフワリと浮き上がった。
そうしてそのままどこか遠くへ飛ばされる。
その飛ばされた勢いを借りるようにしてハッと目を開けると──病室で母親が心配そうな顔でオレのことを覗き込んでいた。
「ヒカル!」
お母さん。
『ヒカル』
……あれは、お母さんの声?
いや、違う。
あの声に呼ばれて、オレは再びまたここへと戻ってくることが出来た。
──誰だったのだろう?
そして目覚めたその瞬間から、オレの身体に不思議なことが次々と起こる。
起きあがった身体は、未だかつて経験したことのない程に軽かった。
まるで重力がなくなってしまったようにオレは飛び起きて、ベッドの上でピョンピョンと跳ね上がった。
病院のご飯を食べる。
今まで食事の時間は苦痛以外の何ものでもなかったけど、信じられないくらいにご飯が美味しかった。
今までの十年分を取り戻そうと、オレはあっという間にペロリと飯をたいらげてしまった。
驚く先生や母親を余所に、まだまだ十年分は腹の空いているオレは「お腹空いたー!」
を繰り返していた。
堪りかねた母親が、たまたまオレの病院へ行く前に寄っていたスーパーの袋の中にカップラーメンが入っていたことを思い出し、取り出してみせた。
カップラーメンに目を輝かせたオレは、先生の目を盗みながら無理矢理母親にポットのお湯でラーメンを作らせて、これもわずか5分ほどでたいらげてしまった。
美味かった。本当にあの時食べたラーメンは美味しかった。こんなにおいしい食べ物がこの世にあるのか、と感動すら覚えてしまう程にあのラーメンは美味しかった。
……今思えば、オレのラーメン好きの原点はココにあったのかな、と思う。
生まれたてのヒヨコが初めて見たものをお母さんだと思うように、生まれ変わったオレが初めて食べたものがラーメンだったわけで。
そりゃあ、あんなに好きになるワケだよなあ。
先生も目を丸くするオレの奇跡はまだまだ続き、あれだけオレの身体を蝕み続けていた病魔が、オレの身体の中から全く消え去っていたのだ。
頭の先からツメの先まで検査をしても、どこにもその病魔の姿は見えなかった。
先生は頭を抱えていたが、全くの健康体になってしまったオレがいつまでも入院していたって仕方がない。
そんなこんなで、オレは失われた体力の回復とリハビリを猛スピードでこなし、あっという間に病院を退院していった。
その翌日からもちろん登校をする。
心配をして迎えにきたあかりを置いていく程のスピードでオレは学校へと走っていき、教室へと駆け込んだ。
クラスメイトは目を丸くしていたけど、そこは子供、あまり疑問も持たずにアッサリと今まで不登校だったオレを受け入れた。
そしてそれから。
さすがにほとんど学校に行かないで勝手に小学校4年生になっていたものだから、全く勉強にはついていけなかったけど、体育だけは得意になった。
歩くことさえ困難だったオレが、運動会でリレーの代表になる。
泳ぐことなど夢のまた夢だったオレが、町内会の大会で3位になったりする。
勉強は嫌いだったけど学校は好きで、あれから一度も休んだことなんてなかった。
だって、楽しかったから。楽しい思い出しかないんだ。
だから──あの生まれ変わった日々を、オレは今もはっきりと覚えているんだ。
──それからしばらく経った──あの小学校6年生の時の、雨の日。
じいちゃんの蔵で、オレはアイツと出会う。
アイツといた日々は楽しかった。
毎日が本当にキラキラと輝いていた。
綺麗な綺麗なアイツといて、囲碁を打って。本当に楽しかったんだ。
アイツといると心の奥底の柔らかいところが、とてもあたたかい何かに包まれたような幸せな気持ちになった。
アイツといた時は気がつかなかったけど、アイツが傍にいる時のあの綺麗で暖かい優しい空気は、オレが生まれ変わったあの白い世界の空気とよく似ていた。
そうだ。
もしかして、あの時オレの名前を呼んだのは──
でも、もう今はそれを確かめることは出来ない。
アイツは、いなくなってしまったから。
そうしてアイツがいなくなって1年半程が経って──オレの身体は変調を来す。
最初は風邪か疲労だろうと思っていたが、暫く経っても体調は元には戻らなかった。
だけどオレは、それをあまり不思議には思わなかった。
覚えがあったからだ。
この、身体の痛みには。
母親には内緒で、わざと家から遠い病院へ行った。
すると「すぐに大きな病院で再検査を」と言われた。
その検査の結果は──小さい頃犯されていた病気の再発だった。
だがその時のオレは、小さい頃の嫌な思い出はすべて忘れてしまっていたから、あまりピンとは来なかった。
それなのに妙に冷静な自分が逆に可笑しかった。
その時考えたことは生きるか死ぬかということではなくて。
病気が怖いとか、そういうことでもなくて。
──あとどれくらいあるかわからない僅かな時間で、オレはあと何局囲碁が打てるのだろう。
その僅かな間で、『神の一手』を打つことが出来るだろうか。
そんなことばかりを考えた。
『神の一手』を。
『神の一手』さえ打てば、オレはアイツの元へと行ける気がする。
アイツに会ったら、オレはやることがあるんだ。
それがオレの『目的』。
そのためにオレは、『神の一手』を打つ──。
──そうして。
オレはまたここへと──この白い病室へと戻ってくる。
『神の一手』を未だに打てぬまま。
ベッドに横になって白い天井と白い壁を見ていると、あの遠い日の記憶が次々と蘇ってきて、オレの中で線となって繋がっていく。
そして、オレは知る。
ああ。
死んでもおかしくなかったはずのオレが、あの10歳の誕生日の日に突然元気になったのは。
アイツを、オレの身体の中に受け入れるためだったんだ。
病気のままのオレの中にアイツが入ったって、囲碁なんか打てやしない。
だからきっと、神様が特別にオレの身体を治してくれたんだ。
そうしてアイツがオレの中に入ってきた3年の間、オレは病気一つしなかった。ずっとずっと元気なままだった。
それは、アイツがオレの中にいたから。
アイツがオレにくれたのは囲碁だけではなかった。
アイツはオレに、『命』をくれたんだ。
アイツが消えた後の1年間は、アイツの残していってくれた命のおかげで元気に過ごすことが出来た。
そうして1年半が過ぎてアイツの残していってくれた命は静かに燃え尽きて、オレの身体の中に残ったのは、幼い頃にオレ自身が残していた小さな小さな命の残り火だけだった。
そうか。
そうだったんだ。
オレはお前のおかげで、今まで生きることが出来ていたんだな。
ちゃんと、ありがとうって言いたかったな。
ごめんな。
でも、オレ、お前のおかげで幸せだったよ。
大好きで大切な人とも出会えたし、何より──短い間だったけど、小さい頃にオレが願っていた夢も叶ったよ。
お母さん。
オレ、大きくなれたよ。
幸せだったよ。
今まで生きられて、幸せだったよ。
産んでくれて、ありがとう。
なのに丈夫に生まれてこなくて、ごめんね。
だから、そんな風に泣かないでよ。
オレ、大きくなって、お母さんを幸せにすることが夢だったんだからさ。
ねえ。
「お母さん」
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