「進藤!!」






「進藤!!」
















「進藤!!」




















































彼の枕元でけたたましい音を立てて鳴っていた目覚ましを止める。



「進藤! 何してるんだ、早く起きろ!」
「………あと5分〜……」
「また不戦敗になってもいいのか、キミは!!」



朝から大声で怒鳴り散らし、彼の布団を勢いよく剥ぎ取る。
すると薄いTシャツにトランクスだけという、霰もない恰好で寝ていたりするので、また僕の血圧はそこで上昇するハメになる。
再びそこで僕が怒鳴ると、彼は漸く身体を起こしてほとんど目を瞑っているような状態のまま洗面所へダラダラと向かう。
まったく、毎朝毎朝こうして怒鳴られて、よくもまあ嫌になったりしないものだ。
普通「怒られるのは嫌だから、早く起きるように努力しよう」とか思うものだろう。
しかも、不戦敗までしても寝坊が治らないだなんて、どうかしてるとしか思えない。
結局、彼の寝坊癖は猫のアキラを飼うようになるまで治ることはなく、それまで約5ヶ月の間、僕は毎朝怒鳴り続けるハメになった。(猫を飼ってからというものの、彼が餌をやるために早起きをするようになったので、そこで漸く寝坊癖は解消されることになるのだが)

……彼には元々自己管理の甘い所があるらしいとは薄々感じてはいたが、一緒に暮らすまでここまで「だらしのないヤツ」だとは思わなかったのだ。
まったく。






それ以外でも。


「進藤!! 何だコレは!」
「何って……オレのYシャツ」
「何でこんなリビングのど真ん中に放り投げてあるんだ! 脱いだら片づけろ!」

脱いだら、基本的には何もかも脱ぎっぱなし。
スーツが皺になる!と怒っても、いつもリビングのソファーの上に置きっぱなし。
……この癖は、結局最後まで治ることはなかったな。
まったく。






その他でも。


「進藤!! 何だコレは!」
「何って……オレの食べかけのラーメン」
「何で床の上にカップラーメンの器があるんだ!
 リビングで寝っ転がりながら食べるのはやめろと言ったろう!」

食べたら、基本的には食べっぱなし。
しかも、テーブルだけではなく床だろうが部屋だろうが、果ては台所ででも、どこででも食べる。しかも零す。
そしてそれを片づけるということを知らない。
……この癖も、注意しても注意しても改められることはなかった。
まったく。






さらには。


「……進藤」
「……ックシュンッ!!」
「そのクシャミは何だ? …まさか風邪を引いたんじゃないだろうな……」
「う〜ん?」
「昨日、クーラーのついた部屋で濡れた頭のままウロウロするな、と散々僕は注意しなかったか…?」
「……ヘックシュッ!!」
「進藤!!」

身体だって細くて大して強くもないくせに、目を離すとすぐに不摂生を繰り返したり食事を取らなかったり眠らなかったり、徹底的に甘すぎる自己管理を繰り返す。
そして案の定、風邪を引いて散々な対局になってしまったりする。
キミの引いたその風邪の看病をするのは誰だと思っているんだ、誰だと。
……キミは僕に、一体どれだけ心配をかければ気が済むんだ。
まったく。





















まったく。



どれだけ心配をかければ。



どれだけ心配を──




























「塔矢、大丈夫だよ」
「……だが」
「いーからお前は寝てろって。今薬持ってきてやるからな」
「……すまない」


僕が以前、疲労から風邪を引いて熱を出してしまった時のこと。
進藤は僕のように小言もなにも言わずに、優しく看病してくれた。
執筆の仕事などでちょうど忙しかった時期にも関わらず、彼は夜も寝ないで看病をしてくれた。
僕が熱にうなされると「塔矢、大丈夫だよ」と言って手を握ってくれた。
その細くて小さな手は、とても優しく気持ちが良かった。




それ以外でも。


「……鍋?」
「そ、鍋料理しようかと思ってさ」
「夏なのに……?」
「水炊き! うまそうだろ? 一緒に食べようぜ」
「……暑くないか…?」
「塔矢、大丈夫だって! ホラ早く座って!」


夏の暑い日、彼は突然土鍋を買ってきて水炊きの鍋を作ってくれた。
季節はずれも良いところなのだが、それでも彼は一生懸命作ってくれて、実際に美味しかった。
彼の母親に習ったと言っていたその味は、どこか優しい味だった。






その他でも。


「……だーっ! 負けたーっ!」
「2目半だな。僕の勝ちだ」
「ココの一手が絶妙だったな〜。この調子なら、明日の名人戦は大丈夫だな」
「……どうかな」
「大丈夫だって! お前なら大丈夫だよ、塔矢」

名人戦の前の日。
漸く念願の名人戦に初めて挑むことになって、僕は酷く緊張していた。
その緊張が災いしてか、第1局を早々に落としてしまっていた。そんな情けない僕を見かねてか、進藤は第2局の前日に僕と真剣勝負で打ってくれた。
結果は僕の2目半の勝利。その彼との対局のおかげで、どこか自信のなさげだった僕の碁は、普段の力強さを取り戻したのだ。
その時彼は、とても優しい目をして僕に言ってくれたのだ。


「お前なら大丈夫だよ。勝てるよ」

と。















「塔矢、大丈夫だよ」

って。
















僕が風邪を引いた時も。
初めての料理を作ってくれた時も。
一局打った時も。

いつも、そう言ってくれていたね。

優しい目で、優しい声で。

いつもいつも文句や小言ばかりを言っていた僕と違って、キミは優しかったよ。
そして、キミがいつも言う「大丈夫だよ」という言葉に、知らず知らず僕は甘えていたのかもしれない。

キミの言葉に、優しさに。











だからかな。
キミに甘えてばかりいたせいなのかな。


僕は、気が付かなかった。















キミの些細な変化。キミの小さな行動。

キミの大きな嘘に。

キミの気持ちに。

僕は気が付かなかったよ。
















優しい言葉の裏側にいた本当のキミに。

僕は気が付かなかった。














































ねえ、進藤。






























































キミは、僕といて幸せだった?











innocent world


act.10






















































──2006年12月15日 午前9時26分。






目の前に伸びる白く長い廊下をボンヤリと見ながら、僕は廊下の長椅子に座っていた。
小さなざわめきや多くの人々の声が遠くで聞こえる。
カツカツと足音を立てて、白い服を着た人たちが通り過ぎていく。

それ以外は、シンとして広がる静粛。

項垂れていた頭を上げると、天井まで届く大きな窓から明るい朝の日差しが差し込んでいるのが見えた。







──そして漂う、ツンと鼻をつく消毒液のにおい。








進藤が倒れた。

まるで糸が切れてしまった人形のように彼は崩れ落ち、そして僕等の呼び掛けに答えることはなかった。
そのまま動かなくなった彼は、救急車に乗せられてこの白い白い建物へと運ばれてきたのだ。
彼は救急の処置室に運び込まれ、僕等は彼の運ばれていった白い部屋の扉の前で、ただ待つことしか出来なかった。

僕の隣には、社がジッと処置室の扉を睨みながら座っている。
そして、少し離れた別の長椅子に韓国の洪秀英が座っていた。
高永夏は、椅子に座らずに洪秀英の側に立っていた。

進藤を待つ僕等の間には、会話はなかった。

誰もが口を閉ざしたまま、そして目の前で起こった現実を受け入れることの出来ないまま、ジッと彼の帰りを待っていた。

もしかしたら、もしかしたらいつもの軽い口調で「寝不足でさ〜、フラフラしちゃって倒れちゃったよ」などと言いながらあの白い扉から出てくるかもしれない。

そして「大丈夫だよ」、と。
そう言ってくれるかもしれない。





──進藤が運ばれて約2時間。
彼は、白い部屋に閉じこめられたまま、出てくることはなかった。







































何故だ。

何故こんなことになった。
一体何があったんだ。

彼の身に何があったんだ。


何か前兆はなかったか?
こんなことになるような、予期できることがあったんじゃないのか?

よく考えろ。思い出せ。


思い出すんだ──















──あれは、先月の…11月の初め頃だったか。

僕の母に頼まれて、進藤は僕が幼い頃から懇意にしている矢部先生の元へと指導碁に出かけていった。
矢部先生が進藤の熱烈なファンだったからだ。彼と一緒に暮らしている僕に「早く紹介してよ〜」とごねていたっけ。
僕の家の近所で診療所を開いている矢部先生は、70歳を超えているとは思えない程元気で、そしてとても優しい先生だった。
僕も父も昔からすごくお世話になっていて、特に早くに祖父母を亡くしてしまった僕にとっては、本当のおじいさんのような存在だった。
そんな矢部先生と指導碁を打ってひとときを過ごした進藤は、酷く上機嫌で帰ってきた。
そして僕の小さい頃の写真を見たり話を聞いたりした、ととても嬉しそうに語ってくれたのだ。

そして、その翌週から彼は定期的に矢部先生の元へと通うようになった。

理由を尋ねる僕に、進藤はいつものように笑いながら「矢部先生が毎週指導碁をお願いしたいって。オレも楽しかったから、行きたいんだ」と言っていた。
なんとなく気になった僕は、矢部先生に電話をした。
だが矢部先生も、いつもと同じ飄々とした語り口で「進藤くんの指導碁は楽しいよ〜」
と笑いながら言うだけだった。

でも。


……あれは本当に指導碁だったのか?








──いやもっと。もっと前を思い出せ。

そうだ、北斗杯。
彼は第2回、第3回とも体調を崩していた。僕は、だらしない彼の不摂生だと思っていた。
……本当は違ったんじゃないのか?

そうだ、あの時──第3回北斗杯の時。
彼は風邪をこじらせて高熱を出し、倉田さんに付き添われて病院と会場を往復していた。
心配だった僕は、倉田さんに彼の様子を聞きにいったのだ。
そう、その時の倉田さんの言葉は。





『ああ、進藤? いいっていいって、オレが病院連れて行くからさ。
 お前達は先に会場行ってろ』


『え? 病院の進藤の検査結果?
 あ〜〜〜〜〜、アレだって。え〜〜〜〜〜〜と。
 と・に・か・く!! お前らはそんなことより対局に専念しろ!
 進藤は大丈夫だから』


『進藤は大丈夫だから』







……進藤は本当に大丈夫だったのか?







そして、翌年の第4回北斗杯。
彼は高永夏との対局の後に体調を崩し、授賞式や閉会式よりも前に帰宅してしまった。
僕は彼に聞きたいことがたくさんあったのに、彼は僕にも社にも一言も言わずに会場から立ち去ってしまったのだ。
その時も倉田さんは僕をひたすらはぐらかし、取り合ってはくれなかった。


──そしてその直後。
彼は僕の前から突然姿を消す。

突然彼は、休業届を出して大阪に行ってしまったのだ。









『進藤五段?
 …えーと、ああ、出てますね。休業届。1ヶ月間』


──驚いた僕は、彼の足取りを辿っていくうちに、社へと辿り着く。


『棋譜のことも確かにオレがアイツに燃やしてくれ言われたわ』


──詳しいこともわからぬまま、社の元に身を寄せていることを知った僕は、大阪まで行って彼と再会する。


『すっげー前から考えてたの。北斗杯終わったら休もう休もうって。
 5月なったら、5月なったら、って』


──事情を話したがらない進藤に、僕はただ質問することしか出来なかった。


『何故御両親…、その、キミのお母さんにも、行き先を告げなかった』

『告げられない事情があるのか』

『……ごめんな……』


──そうだ。
進藤は、結局僕には何も話してくれなかったのだ。

その時も。その後も。そして今も、ずっと。




僕には何も話してくれなかったのだ。














僕には何も──
















『春に…4回目の北斗杯終わった時、アイツ大阪来たやろ。
 お前迎えに来たやんか。
 そん時にな……ちょっと聞いたんや』
















昨日の晩の社の言葉を思い出す。
社は、僕の知らない進藤の何かを知っていた。

僕の知らない進藤を知っていたのだ。

































































『お前、ホンマにまだ何も知らんのか?』

















































「な…なんや」





僕の隣に座っていた社は、突然自分の目の前に出来た影に驚いて顔を上げた。
僕が彼の前に立っていたのだ。
社は少し驚きながら僕の顔を見上げる。そして僕の表情を見て、彼がヒュッと息を飲む音が聞こえた。

──僕は今、どんな表情をしているのだろう。
よくわからない。

まるであの瞬間──進藤が僕の目の前で倒れた瞬間から、身体中の神経が切れてしまったかのように上手く動かせないでいる。
その上手く動かない口から、酷く低い声が社に向かって発された。





「お前が知っている『進藤の事情』とはなんだ」
「…あ……」
「半年前に大阪に進藤が行った時」
「………」
「僕の前から姿を消した時」



社の表情が、少しだけ動いて変わる。
グッと眉に力が入り、目元がピクリと動くのがわかった。
ジッと彼を見つめる僕から彼は一時も目を逸らさずに、彼もジッと僕を見つめた。

そんな彼に僕は再び地を這うような低い声で、言葉を続ける。



「あれがすべての始まりだったんじゃないのか」
「………」
「今の進藤の、進藤がこうなったことの、すべての始まりだったんじゃないのか」
「………」
「話せ」
「………」
「話せ」
「………」


































「話せ!!!」


































自分でも信じられないような大声が出る。
その叫ぶような僕の声に驚いた社は、ビクリと大きく身体を震わす。僕はそんな社の胸ぐらを掴むと、無理矢理引きずり立たせた。
無理矢理立たされた社は、僕の顔をジッと見つめながらも驚きを隠せない、という表情をしていた。
こんなにも乱暴で凶暴な僕の姿を見たのが初めてだからだろう。
僕は社の胸元をギリギリと絞め、もう一度「話せ!!!」と大声で叫んだ。

すると、僕等と少し離れて座っていた洪秀英が慌てて走ってきて僕と社を引き離した。
そして「落ち着け!」と僕に向かって言うと、僕を再び長椅子に座らせた。

社の胸元を力強く絞めていた名残なのか、それともあんな大声を出した名残なのか──僕は両手がブルブルと震えるのを止めることが出来ないでいた。
洪秀英はそんな僕の様子を見ると「落ち着くんだ、塔矢」と力強い声で再び言い聞かせた。

そしてそんな僕の様子を窺いながら、洪秀英は低く静かな声で「実は…」と口を開いた。


「塔矢たちが知っているかどうかわからないけど…
 進藤は2年前に一人で韓国に来たことがあったんだ。ほんの1週間くらいの間だけど」
「え……」
「……僕は…彼から聞いたことがある。『なんとなく気分転換に出掛けた』と曖昧な返事をされた」
「……そうか。やっぱり、進藤は塔矢にも本当のことを話してなかったんだ」
「………」
「ほ…本当のことって…なんや…?」

僕と社はジッと洪秀英の言葉を待った。
洪秀英はフウと息をついて瞳を閉じ、そして進藤が訪ねてきた2年前の出来事をまるで昨日のことのように話し出した。


「進藤は囲碁を打ちに来たんだよ。より強い者を求めて韓国にやって来たんだ」
「………」
「進藤には『目的』があったから」
「目…的…」
「………」
「僕は、進藤の真意のすべてはわからない。でも進藤は僕にこう言った」




『オレの目的は……
 オレの目的は、神の一手を極めて、『あの世界』にいるアイツに会いにいくこと。
 そして、アイツに会って、やらなければならないことがあるんだ』




「………」
「『あの世界』…?」
「それから……進藤は体調を崩して韓国で一度倒れたんだ。
 その時に、韓国の病院の先生に言われたことがあるんだ」





『彼は何か病歴があるのですか?』
『……は?』
『それか、韓国に来る前に…例えば体調を崩していたとか。
 精神的に何か酷く辛いことがあったとか』

『身体が酷く衰弱している。
 出来れば早く日本に帰って、日本の病院で治療を受けたほうがいい』






「………」
「……そんなことが…」
「ここまで話したことは、実際に進藤から聞いたことや起こったことだ。
 そしてここからは……僕の憶測になるから、すべてを鵜呑みにしないで聞いて欲しい」
「………」
「もしかしたら、進藤はずっと以前からどこか体調が悪かったんじゃないのか?
 そうだとすると進藤が言っていた言葉に、いろいろ合点がいくんだ」





『オレが碁を打ち続けていけば、アイツに会える。
 そしてアイツの碁を未来へと残していける。そう思ったから』


『そんな時……『ある事』が起こった。
 ……ごめん、その『ある事』の内容は今は話せないけど。
 とにかく、その『ある事』によって、そんなに悠長なコトはいってられないってことがわかった。』


『それじゃあもう駄目なんだよ!! オレにはもう時間がないんだ!!』


『オレ……オレ、早くしないと…
 アイツに会いにいって、やらなくちゃいけないことが……』








2年前に韓国で起こった出来事。僕の知らない、進藤の出来事。
あまりのことに、僕も社も口を挟むことが出来ないでいた。
洪秀英は、そこまで話すと大きくフウと息をついた。
そして僕と社を力強い瞳でジッと見据え、口を開いた。


「韓国に来た時の進藤はとにかく焦っていた。
 永夏のような強い者との対局をひたすら望んでいるように見えた。
 そして『神の一手』を極めなければならない、と」
「………」
「自分には時間がない、と言っていたんだ」
「………」
「……お、おい…待てよ…」
「それは」





































「それは、もしかして──」































































「やめてくれ!!!!!」





































僕の切り裂くような大声に、洪秀英は言葉を止めて驚いた表情で振り返った。
社も固まったまま僕の姿を見ている。





聞きたくない。聞きたくない聞きたくない聞きたくない。




聞きたくない。







洪秀英が話そうとした言葉の先を僕は聞きたくなかった。














だって、僕は知らない。

そんなこと、僕は知らない。
そんな進藤、僕は知らない。
進藤は一度も僕にそんなことを言ったことはないんだ。


僕の知っている進藤は、いつも笑ってバカなことばかり言って、楽しそうに囲碁を打っている姿だった。
僕といつまでも一緒に打ち続けようと言っている進藤だった。




キミは言ったじゃないか。



ずっと一緒に打ち続けようって──










『僕は、きちんとキミを理解することができている?』


『いつか、わかる日が来る。もしも、今はわからないと思っていてもいつか──。
 ずっと、一緒にいれば。
 ずっと一緒にオレ達は打ち続けていれば。
 わかる日が来るよ』



『ずっと一緒にだなんて、いられるわけないじゃん』



『今すぐ、じゃないかもしれないけど。
 でもいつかは。……遅かれ早かれ、オレ達は離れなくちゃいけないんだよ。
 いつまでも同じままじゃいられないんだよ』



『ちがうんだよ。
 オレ、オレお前のこと好きだよ。塔矢。それは変わってない。
 でもオレ、わかったんだよ。
 いつまでもそんなこと言ってられないって。
 ……オレ、ホントはわかってたんだよ。ずっと。お前と一緒に暮らす前から。
 オレとお前は、ずっと一緒にはいられないってわかってたんだよ』



『なのに、オレ……。
 オレ、自分のことばっかり考えて…。お前のこと、ちっとも考えてなかったんだって…』








『塔矢。………ごめんね』















進藤の言葉が頭の中に響き渡るようにしてフラッシュバックする。
彼は、僕にたくさんの言葉を伝えてきた。
僕は、彼の言葉の中に何を見ていた?

本当の姿を──彼の優しい言葉に包まれて隠された、本当の彼に気が付いていなかったんじゃないのか?





先程洪秀英から聞いた言葉と、僕の頭の中に響き渡る彼の言葉。
それらを合わせると──何かが形になって見えてくる。

今まで僕の中では、彼の言葉の断片を拾っても形にはならなかった。
僕が本当の彼を見つけることが出来なかったからだ。

彼の言葉を聞く度に、僕の中では明かりの切れかけた電球がバチバチッと音を立てて点滅しているだけだった。
点滅する明かりを必死に追っても、それは線にはならず、形らしきものは何も見えてこなかった。
だが、今洪秀英から僕の知らなかった進藤の姿を聞かされて。
その言葉を元にして、再び切れかけた電球に明かりが灯されていく。
今度は消えることなく、その明かりは一つの点となる。
そしてその点と点を結んでいくと一本の線になる。
そしてその線は、あるものを形作っていることに気付く。

──そう、それは彼の本当の姿。























それは、今までキミに守られて、何も知らずに過ごしてきた僕にとって、あまりに残酷な姿。











































「進藤! 進藤!!
 聞かせてくれ!! キミの声を聞かせてくれ!!
 キミの真実を聞かせてくれ!!!
 進藤!!」

「塔矢、やめろ!!」

「進藤!!!」



僕は再び大声で叫びながら、ドンドンと病院中に響き渡るくらいの大きな音で進藤のいる白い部屋の扉を叩いた。
喉の奥で、血の味がする。
さっきから大声で叫んでばかりいるから、喉の奥が少し切れたのかもしれない。
それでもいい。僕がここで血を吐けばこの白い扉が開くなら、僕はそれでもいい。

ドンドンと扉を叩く。
手が折れそうに痛い。
それでもいい。僕の手が折れてこの白い扉が開くなら、僕はそれでもいい。

だからお願いだ。
僕の元に彼を帰してくれ。この白い部屋から彼を出してくれ。

お願いだ──






そう願いを込めて、扉を叩き続ける。

すると、暫くしてその白い扉は開かれた。
だが中から出てきたのは、白い服を着た白い人。





「今診療中ですよ! 静かにしてください!」


白い部屋から出てきた白い服を着た女は、そう怒鳴ると再び白い部屋の中へと消えていった。
白い部屋の扉は再び僕の前で閉ざされる。

扉が目の前で閉ざされた瞬間、僕は糸が切れたように床に座り込んでしまった。
自分で立ち上がる力さえなくした僕は、社と洪秀英に抱えられて廊下の長椅子に座らされた。




──だが、それもよくわからない。
もう、なにもわからない。





僕の目の前で、本当の彼がいる世界の扉は閉ざされてしまった。
僕はもう行くことが出来ない。

それはそうだ。
今更気が付いたって、もう何もかもが遅いのだ。




もう何もかもが──






















「無様だな」






低い声がする。誰だろう。
重くなった頭を上に向ける。
誰かが目の前に立っている。




「無様だな、塔矢アキラ」




背の高い影。茶色い長い髪。端正な顔。
僕を「無様だ」と評する人。






「よ、永夏! やめろよ!」


僕の横で、洪秀英の声がする。
永夏──ああ、高永夏。僕の目の前にいるのは高永夏。
でも目が霞んで、よく前が見えない。

高永夏らしき僕の目の前に立つその人物は、膝を折って僕の前に腰を落とし、呆然として何も映さなくなった僕の瞳をジッと見つめた。
そして再び低い声で口を開く。



「お前は今までヒカルと一緒にいて── 一体ヒカルの何を見てきたんだ?」


進藤といて──僕は一体何を見てきたのだろう?


「ヒカルと一緒に暮らしていたのだろう? それで何故気が付かなかった」


僕は、僕は一体今まで何をしてきたのだろう。


「お前はヒカルを愛していたんだろう? それなのに何故ヒカルの異変に気が付かなかった」



僕は──












「何故だ!!!!」











高永夏は大声でそう怒鳴ると、力の抜けてしまった僕の胸ぐらを首を絞めるようにして掴んだ。
そして、彼の顔のすぐ前に僕の顔を引き寄せる。
息もかかりそうなその距離で、彼は怒りと憎しみに震える声で言葉を続けた。


「オレはヒカルを愛していた。
 オレはヒカルに近づこうと、そしてヒカルに愛されようと必死に努力をした」
「………」
「ヒカルの答えを得るために日本へ来て、そしてヒカルと一局打った。
 ヒカルの答えは言葉ではなく──石の中にあるとオレは思ったからだ」
「………」
「対局を終えて──オレはヒカルに負けた。結局ヒカルに勝つことは出来なかった。
 そしてそこに答えはあった。ヒカルはオレを選ばなかった。
 『神の一手』を極める相手として──共に囲碁を打つ相手としてお前を選んだんだ」


高永夏の手が、ギリギリと音を立てて僕の首に食い込んでいく。
だが、もう息苦しささえ感じない。
高永夏の叫ぶような言葉だけが、僕の空っぽになってしまった身体の中に響いていく。


「ヒカルは言った。お前を愛している、と」

「………」

「それは、ヒカル自身の全てを──命をかけた言葉だったんだ」

「………」

「それをお前は──
 『何も言ってくれないから何も知らなかった』だなんて済まされると思うのか?」


僕の首を絞める高永夏の手は怒りでブルブルと震え、そして先程僕が社にやったように、無理矢理僕を立たせる。
そしてその怒りのままに僕の身体を壁へと打ち付けた。
洪秀英が慌てて高永夏を止めようとするが、高永夏の僕への怒りは止めることが出来なかった。





「お前にヒカルが何も言わなかったのは、ヒカルがお前を愛していたからだ!!」



「お前を傷つけないために、お前を守るために、ヒカルは嘘をついて必死に隠していたんだ!!」



「だがお前も──お前もヒカルを愛しているのならば──気付かないはずがないんだ!!」



「お前が真にヒカルを愛して、ヒカルの異変に気付いてやって、ヒカルの苦しみを受け止めてやれば、
 ヒカルは傷ついたり苦しんだりせずに済んだんだ!!」






高永夏の言葉がビリビリと痺れて響く。
廊下はシンと静まりかえっていた。
洪秀英も社も口を開くことが出来ずに、僕と高永夏の様子をただ黙って見ていた。




「……お前は…
 お前はただ自分の気持ちばかりに夢中で……ヒカルに自分の想いをぶつけてばかりいたんじゃないのか?」

「………」

「それでも笑ってくれる、お前を傷つけないためにお前を守ってくれているヒカルに、
 お前は甘えてばかりいたんじゃないのか?」

「………」

「真のヒカルの姿に気付づこうともせず」

「………」

「オレもそうだった。だからオレは選ばれなかった。
 オレはそう思っていた」




高永夏はそこまで言うと僕の首を絞めていた手の力を緩め、蔑んだような酷く冷たい目で僕を見つめた。




「だがまさか……ヒカルが選んだお前までもがそうだったとはな。
 幻滅もいいところだぜ。
 何のためにオレは身を引こうと……オレは」

「………」

「……オレは、お前なんかにヒカルを渡さない。渡してたまるか」

「………」

「絶対に」





高永夏は、僕を投げ捨てるように手を離す。
解き放たれた僕の身体は、支えるものを失って壁に身体を打ちつけ、そのままズルズルと床へ座り込んだ。

もう、立ち上がることも出来ない。

もう、何もわからない。

わかるのは、ただひとつ。











「無様で無力な塔矢アキラ」



「ヒカルにお前は必要ない」



「己の無知さを──無力さを思い知れ」

























高永夏の言うように、自分の愚かさで彼を失った僕は、何もない人間なんだということ。



















































高永夏はそのまま僕の前を去っていった。
洪秀英は高永夏と僕を交互に見つめ、そしてポケットから何か名刺のような紙切れを出すと慌てて僕の元へと駆け寄り、力の入らない僕の手に握らせた。


「……今日、僕らは仕事があるんだ。日本棋院で。
 僕の携帯番号と叔父の家の電話番号だ。進藤に何かあったら連絡をくれ。
 仕事が終わったらまたここに来るよ」


洪秀英は僕を少し気遣うような声でそう言うと、力の入らない僕の手を上から包みこむように力を込めて握った。


「塔矢アキラ。
 進藤はお前のことを本当に大切に想っていたよ。
 ──どうかこれ以上……進藤を傷つけないでくれ」



洪秀英はまるで神に祈るようにそう言うと、僕の手を再び力強く握って立ち上がり、高永夏の後を追いかけていった。
二人が立ち去った後も、僕は立ち上がることが出来なかった。

進藤のいる白い部屋の前で、僕は己の無力さを思い知り、無様に座り込んでいた。





冬の朝の、明るい日差しが白い部屋の扉を明るく照らした。
それは遠い遠い世界から差し込んでいるかのような、神聖で暖かい日差しだった。



僕は、座り込んだままその光を見つめていた。








何も感じない──何も動かないはずの身体がピクリと何かを感じ取る。
頬を何かが一筋、伝っていくのを感じた。







口からは力をなくした声で、僕を守ってくれた優しい人の名前が静かに零れていった。





























「──進藤……」