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11-1.5
僕と彼の母親は、病院の中の待合室へと移動した。
昨日、僕と社と藤崎さんが話していたところと同じ場所だった。
天井まで伸びる大きな窓から射す光を浴びながら、僕と彼の母親は向かい合って座った。
僕は失礼にならないように気を遣いながら、そっと彼の母親の様子を見る。
昨日まで親戚の法事で九州にいたらしく、大急ぎで帰京して朝一番で病院へと駆けつけたという。
恐らくほとんど眠れていないのか──それとも泣きはらした後なのか。
目が痛々しい程に真っ赤に充血していた。
身支度もそこそこに家を出てきたのだろう。
ほつれた前髪が時折ふと目の前に落ちてきて、彼の母親はそれを気にするように手でそっとかきあげていた。
僕がそうして彼の母親を見ていると、僕の視線に気が付いたのかふと顔を上げる。
そして暖かい冬の日差しを浴びながら、酷く穏やかな顔で微笑んだ。
「ごめんなさいね。お忙しいのに、こんなに朝早くから来てもらって」
「……い、いいえ」
「塔矢くんには、お礼を言わないといけないと思って。
ヒカルの担当医の──矢部先生。塔矢くんのお知り合いの方なんですってね。
昔、この病院の権威でいらした方で」
「え、あ、ええ。父と僕が、昔からお世話になっていて。
あ、でも。矢部先生がこの病院に来たのは、矢部先生が進藤…いや、ヒカルくんのファンだったからで」
「本当にどうもありがとうね」
「………いえ…」
彼の母親は優しい声でそう言うと、静かに頭を下げた。
僕はどうしたらいいのかわからずに、黙ったままその様子を見ていた。
暫く僕の前で頭を下げていた彼女は顔を上げると、先程と同じ穏やかな表情で再び口を開く。
「ヒカルね。まだ少し熱があるんだけど…大分落ち着いてきて。
今は結構元気なの。大事をとって面会謝絶にはしてるけど…心配しなくていいのよ。
後でぜひ会ってやってちょうだい」
「……あ……は…はい」
今現在の彼の状況を聞き、僕は無意識のうちにフウッと大きな溜息をついていた。
身体から張りつめていた力が抜けていくのを感じる。
良かった。
元気なのか。
今は、まだ。
でも。
「……矢部先生からあの子の身体のこと、聞いた?」
「……………はい」
「そう…」
僕が俯いたまま小さな低い声で返事をすると、彼の母親はゆっくりと頷きながら返事をした。
その表情は、驚く程穏やかなものだった。
そして僅かに微笑みながら、彼女は再び語り出す。
「あの子ね、可笑しいのよ。
自分の身体のことはもちろん、私や主人…あの子の父親よりもね、
あなたのことばかり気にしてるのよ」
「え……」
「『塔矢はどうしてる?』『塔矢は大丈夫か』って。朝からそればっかり」
「──……」
「フフ、ちょっとヤキモチ焼いちゃった」
彼の母親はそう言って楽しそうに笑った。
僕はそんな彼女の表情を見て酷く居たたまれない気持ちになり、思わず俯いてしまう。
とても──とても彼女の顔を見ていることなど出来なかったのだ。
そのまま僕は、その場に座ったまま彼女に深く頭を下げた。
「……すみません…!」
「え?」
「彼と…半年もの間一緒に暮らしていながら…彼の体調の変化に気がつかなくて…
本当に、本当に僕は」
許して欲しいなどと言わない。
いっそ罵倒してくれたって構わない。
それで彼と彼の母親の気持ちが僅かでも救われるのなら、僕は何をされたっていい。
こうして彼女との約束も守ることが出来ず、ただ頭を下げることしか思いつかない僕を、メチャメチャに責めればいい。
「……塔矢くん。そのことなんだけど」
彼女が先程よりも僅かに低い、静かな声で語り始めた。
僕はそっと息を飲みながら下げていた頭を上げる。
彼女の表情は、先程の穏やかなものから静かで真剣な表情へと変わっていた。
そして僕が再びスウッと小さく息を飲むと、彼女はフッと小さく微笑んだ。
「そのことで…自分を責めないでほしいの。
ヒカルがこうなったのはあなたのせいじゃないのよ」
彼の母親は、再び穏やかな顔になってそう僕に告げる。
予想と全く反する言葉に、僕はどうしたらいいのかわからず、すぐさま口を開く。
「で、でも…!」
「親なら離れて暮らしていても、あの子の体調の変化には気づくべきだったのよ。
だから悪いのは、私なの」
「そんな…!」
彼女は慌てる僕を笑顔で制しながら、静かな声で言葉を続ける。
「私はあの子の母親だから。
せめてそれぐらいは、あなたより優位に立ちたいの」
「………」
「ごめんなさいね」
そう言い切った彼女の表情は、穏やかな中に見え隠れする「強さ」が滲み出ていた。
母としての強さ──
他の誰でもない、この世で唯一人の彼の母親としての強さ。
僕は声を出すことも出来ずに、黙ったまま彼女をジッと見つめていた。
彼女は少し視線を落としてフウと息をつくと、再び顔を上げて僕のことを見つめた。
「矢部先生から聞いたと思うけど…
あの子ね、本当はもっと小さい頃にこうなっていても、おかしくなかったの」
「………」
「それが…こうして大人になるまで生きることが出来て。
幸せだったんじゃないかしら」
「あなたに会えて」
冬の日だまりの中、彼の母親は僕を見つめて酷く優しい声でそう言った。
暖かい日差しが僕等を照らしている。
返事をしなくちゃ。
でも。
僕は声を出すどころか、身体を動かすことも出来なかったのだ。
そんな僕の様子を彼の母親は微笑みながら見つめ、再び口を開く。
「きっと……きっと囲碁の神様が…
あなたとヒカルを会わせる為に、ヒカルの命を延ばしてくれたのね」
「………」
「ありがとうね、塔矢くん」
「………」
「本当にありがとう」
彼女はそう言って、再び深々と僕の前で頭を下げた。
だが僕は、未だに声を出すことも出来ない。
何か言わなければならないことはわかっているのに、声が出ないんだ。
でも声が出たとしても、何て言えばいい?
こんな。
こんな、こんな、こんな。
こんな。
その時、頬を暖かいものが伝っていくのを感じた。
それはポタリと音を立ててテーブルの上に落ちた。
僕は顔を俯かせて、その落ちたものを見る。
小さな丸い雫。
僕が下を向いたのと同時に、それは次から次へと同じような形の染みを作った。
彼の母親はそんな僕の様子を見て、フッと小さく笑いながら白いハンカチを差し出した。
僕は震える手でそれを受け取る。
だがそれを顔の傍まで持っていくことができなくて、涙はポタポタと流れ続けた。
彼女はそんな僕の様子を心配しながらも、再び穏やかな声で語り出した。
「塔矢くん。……あなたに一つお願いがあるの」
「………」
「無理だけは、絶対にしないで欲しいの」
僕は涙を流したまま顔を上げ、彼の母親の表情を見つめた。
彼女は酷く穏やかで優しい表情のまま、言葉を続けた。
「あなたは無理をして、自分の道を曲げてまで、ヒカルの傍にいる必要はないのよ。
あなたには大切な将来があるんだから」
「………」
「あなたがヒカルを背負うことはないんだからね」
唇がワナワナと震える。
何かを言わないといけなくて、何かを答えないといけなくて。
でも震える唇からは、まともな言葉を形作ることなど出来そうもなかった。
彼女は、僕の瞳をジッと見つめながら再び口を開く。
「あなたが、あなたの囲碁の道を進むことが、きっとヒカルの望みだと思うの」
「………」
「だから、あなたにもギリギリまで言わなかったのね」
「………」
「しょうがない子よね、本当に」
彼女はまるで小さな子供に言い聞かせるように、楽しそうにそう言って笑うと、僕に渡していた自分のハンカチを再び自分の手に戻し、涙を零したままだった僕の頬をハンカチでそっと拭った。
そのハンカチは酷く柔らかくて。
彼女の手は、本当に本当に優しくて。
そっと僕の濡れた頬を拭う。
そして今度は僕に向かって、泣きじゃくる小さな子供を躾るような優しい声で、彼女は言った。
「あの子の傍には私がいるから。
あなたは、あなたの道を進みなさい」
お母さん。
約束を守れなくて、ごめんなさい。
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