11-10










3月、中旬。


長かった冬が間もなく終わりを告げ、春の息吹きが感じられるようになる季節──。
オレが命の期限を言い渡された「春」は、すぐそこまでやって来ていた。

















復帰戦だった森下先生との一局。
取ったり取られたりの、激しい接戦だった。
だが最後の局面で生きる活路を見出したオレに、勝利の軍配は下った。
……厳しい戦いだった。だけど、あの森下先生との一局に勝利することが出来たのは、オレにとってとても大きなものとなった。
その後に続く第3局、第4局も、中押し勝ちで順調に勝利を収めることが出来たのだ。

森下先生の囲碁に賭ける熱い想いが、オレの囲碁に命を吹き込んでくれたに違いない。
……森下先生、本当にありがとう。
先生とあんな対局が残せて、オレは本当に幸せだ。





こうしてオレの目下の敵は、当初の予想通り緒方先生となった。
三年連続で本因坊の挑戦者となっている緒方先生。三冠を持ち、事実上現在の碁界で頂点に立つ人だ。
緒方先生とは公式では二度、そしてプライベートでも何度か打ったことがある。
──だけどオレは一度も勝てたことがない。
塔矢先生譲りの深い読みと、カミソリの刃のような鋭い切れ味の一手を打つ人。一手一手を執念深く研究していくその様は、塔矢先生以上ともいえた。

オレと緒方先生との対局は、リーグ戦の最終局となる第7局だ。

全勝している緒方先生と、すでに一敗をしてしまっているオレ。
経験値といい状況といい、圧倒的に不利なのはオレだ。



だが負けることは出来ない。絶対に。
オレは、塔矢と一緒に夢を叶えるんだ。




その思いだけを胸に、オレは治療をしながらも病室で必死に囲碁の勉強をした。
緒方先生の棋譜を徹底的に検討して、何度も何度も並べた。並べ尽くしたところで初心に返りたくなって、もう一度秀策の棋譜を並べた。
その傍ら、秀策全集の執筆もしていた。桑原先生がオレに残してくれた大切な仕事だ。
執筆はかなり大変ではあるけれど、棋譜並べや検討のいい気分転換になった。秀策の棋譜について執筆をしている最中に、先程まで検討していた緒方先生の棋譜で新しい一手を思いつくことも珍しくはなかった。
そうしてオレは、ひたすら本因坊戦に没頭する毎日が続いた。


塔矢は病院へは来なかった。
韓国に1週間ほど滞在し、日本へと戻って十段戦をこなし、また息もつけぬまま韓国へと戻っていく。
そんな生活が続いているようで、とても病院まで来る時間は取れないようだった。
寂しくはなかった。
塔矢のニュースは頻繁に耳に入ってきていたし、オレを心配する秀英が、よく韓国での塔矢の様子を書いたメールを送ってきてくれた。
時には画像や棋譜を添付して送ってくれたりもして、塔矢が元気に囲碁を打ち込んでいる姿をオレは本当に嬉しく見つめていた。




何よりも、オレ達は今、一緒に囲碁を打っている。
お互いの夢を叶えるために囲碁を打ち続けている。

だから寂しくなんかない。





その思いだけが、今のオレを支えていた。


















石を並べながら、ふと窓の外を見る。
日が随分と長くなった。春がすぐそこまで来ている証拠だ。
オレの命の「期限」も──すぐそこまで来ていることはわかっていた。



身体が以前にも増して重くなった。
対局がある日は不思議とシャンとするのだが、それ以外の日はベッドから動くのも次第に困難になった。
発作の回数も以前より増えたし、熱が下がらない日も長く続くようになってしまった。










あともう少しだけ。
もう少しだけなんだよ、神様。

お願いだから、あともう少しだけ待って──。









オレは暮れていく日を見つめながら、毎日心の中でそう祈った。

































































そうしてさらに月日は流れ──4月。
桜の散る、暖かい春。





本因坊戦挑戦者リーグは大詰めを迎えていた。
4月第2週、第6局。
オレの相手はベテランの張九段。クセのある碁を打つ人だが、勝てない相手ではない。
今日は朝起きた時から身体が重く、体調が悪いことはわかっていた。
だが絶対に負けられない。ここまで来て負けることなんて絶対に出来ない。
オレは勝つんだ!
気を抜くと崩れてしまいそうになる自分を奮い立たせるために、オレは大きな声で「お願いします!」と叫んだ。



──その頃、別室では。
森下先生と緒方先生の対局が行われていた。
すでに三敗を喫し事実上リーグ戦の敗退が決まっている森下先生と、ここまで余裕の全勝で来ている緒方先生との対局だった。
緒方先生がこの対局に勝ち、オレが負けてしまうと──自動的に挑戦者は緒方先生に決定してしまう。
緒方先生がこの対局に勝ち、オレも勝てたとしても──その次のオレと緒方さんとの直接対局で、オレが勝利したとしてももう一局、オレと緒方先生のプレーオフが設けられることになる。
つまり緒方先生がこの森下先生との一局に勝ってしまうと──もうほとんど体力の残っていないオレには厳しい結論しか待ちかまえていないのだ。



……これは、後から和谷に聞いた話なのだけど。
その日の森下先生の気合いの入り方は、尋常なものではなかったらしい。
早朝から外で冷水を浴びて気合いを入れ、対局が開始する3時間前にはすでに棋院へと到着し、碁盤の前へとジッと座っていた。
まるでこの一局に、自分が今まで歩んできた三十数年に渡る囲碁人生のすべてを賭けているといっても過言ではないくらいの──凄まじい気迫だったという。





森下先生はわかっていたんだ。
この一局の勝敗如何によって、オレの本因坊戦の動向が大きく左右されるということを。
わかっていたから森下先生は、全身全霊を込めて緒方先生との対局に臨んでくれたのだ。



































──そして、結果は。













「……弟子の可愛さゆえ、ですか」
「ナメるんじゃねえ。オレがお前に勝ちたかっただけだ」
「………お見事でした」












緒方先生は、静かに碁盤の前で頭を下げた。





森下茂男──3勝3敗。
緒方精次──6勝1敗。





森下先生の勝利で第6局は幕を閉じた。






















そしてその頃、別室で打っていたオレはというと。


「だっ誰か……! 救急車を!!」
「どうした!?」
「進藤先生が、対局が終わった途端倒れて……!」


なんとか張九段に勝つことが出来たものの、対局が終わると同時に糸が切れたかのようにオレは倒れてしまった。
張九段の「ありません」という声の後、ブツリと意識が途切れてしまったオレは全く記憶がないのだけれど──オレを病院へと運んでくれたのは、なんと緒方先生だったのだ。
一緒に病院へ同行してくれた和谷が言うには、倒れたオレの元へ緒方先生が慌てるようにして駆け込んできて、オレを抱え上げて愛車をブッ放し、病院へと運んでくれたのだという。
だけどオレが目を覚ました時にはすでに緒方先生の姿はなく──「お前に負けたのがバレると悔しいから、先に帰るってさ」と和谷が苦笑しながら教えてくれた
そして、「第7局で待っている」──とも。




……森下先生。
……緒方先生。




本当にありがとう。
オレは、先生みたいな人たちと最後まで囲碁を打つことが出来て、本当に幸せだよ。




あまりにも嬉しくて、オレがベッドに横になったまま思わずボロボロと泣き出すと、和谷とあかりは焦ったように「どこか痛いのか!?」「苦しいの? ヒカル!」と夫婦揃って慌てふためいていた。

……和谷も、あかりも。本当にありがとう。


































──あと一局。
あと一局で、オレはアイツの名前に挑戦出来る。








あと一局なんだよ、神様。









だからお願いだから、この身体の痛みをとって。
この熱を下げて。
この苦しさを取り除いて。









お願いだから、オレに囲碁を打たせて。





















































オレは塔矢と一緒に夢を叶えて、そしてお前の元へと行って──『目的』を果たすんだ。
だから神様──

















































































その時、部屋のテレビが夕方のニュースを大きな音で伝えた。



『今、新しいニュースが飛び込んできました!
 韓国で行われている囲碁の国際棋戦なのですが──
 あの塔矢アキラ名人が韓国の洪秀英選手を破り、準決勝に進出しました!』

『それはスゴイですね』

『スゴイのはそれだけではないんです!
 なんと決勝には、あの囲碁界で一時代を築き上げた塔矢行洋元五冠が、すでにコマを進めているんですよ!』

『塔矢行洋元五冠といえば、塔矢アキラ名人のお父様ですよね?』

『そうなんです。なので、塔矢アキラ名人が準決勝、韓国の高永夏棋士に勝利をすれば、
 「世紀の親子対決」が実現するんですよ〜!』







──塔矢が、準決勝に。
そして塔矢先生がすでに決勝で、塔矢のことを待っている。

はるかなる高みから、塔矢のことを待っている──








「すげえ! さっすが塔矢!」「塔矢くんすごい!」とはしゃぐ和谷やあかりの横で、
オレはベッドに横になりながらそのニュースを見ていて──止まったはずの涙が、また静かに頬を伝っていくのを感じていた。


塔矢。だってオレ、今わかったんだよ。














塔矢先生は、きっとずっとずっと待っていたんだ。
お前が自分の前に座る日を、ずっとずっと待っていたんだよ。














お前、前に言ったよな。
塔矢先生が夜中に一人、碁盤の前で誰かを待つようにして座っている時があるって。
「saiのような強い打ち手を、父は待ち続けているのかもしれないな」ってお前は言っていたよな。


それは違うよ、塔矢。


塔矢先生が待っていたのはsaiじゃない。
お前だったんだよ。








お前が夢を叶えるのを、塔矢先生は待っていたんだよ。




























































塔矢、塔矢。
あと一局、あと一局だね。





あと一局で、お前の夢が叶う。







そして、オレの夢も叶うんだ。






























































塔矢。









一緒に夢を叶えような。












































































一緒に──……

















































































































































「……ヒカル?」

「おい…進藤?」

「やっ……やだっ…これっ……血…!?」

「おい、進藤!! 進藤!!」

「ヒカル!! イヤアアアア!! ヒカル!!」

「進藤!!」

















































































「進藤!!」