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11-9
翌日。
早速塔矢は棋院へ行って、国際棋戦参加の表明をした。
そのニュースがテレビや新聞で流れるのをオレは病院で見て、本当に嬉しかった。
塔矢がオレと一緒に囲碁を打つと、夢を叶えると約束してくれたのだ。
オレ達は一緒に前へ進んで、一緒に夢を叶えるんだ。
そう想像しただけでもオレはワクワクした。
本因坊戦まであと4日──少しでも体力を取り戻したいオレは、朝も昼も晩も、あれ程嫌だった食事を掻き込むようにして全部食べた。
相変わらず食べている時は口内炎で口が痛いわ味がしなくて気持ち悪いわで、食べ終えた後にはいつもそのほとんどを吐いてしまっていたけど、それでも何もしないよりはマシだった。
動かすのが億劫で仕方がなかった身体も必死に動かすようにした。
まずは自分の病室の中をウロウロと歩き回り、次第に調子が良くなってくると今度は病室から廊下へ出て、廊下をウロウロと歩き回ってみたり。
あんまりハリキリ過ぎて、やっぱり途中で気持ち悪くなっちゃったりして廊下に座り込んでしまうこともあった。
その度に矢部先生や看護士さんに怒られたりもしたけど、塔矢と夢を叶えるためだと思えば、それでもオレは楽しかった。
──そう、オレが再び囲碁を打つことを反対していたお父さんとお母さんは。
オレが復帰したい、とお母さんに話した時は、お母さんはやっぱり泣きながら猛反対をした。
でもお父さんは──そんなお母さんを宥めながら「無理をしないと約束するなら、お前のしたいようにしなさい」と言ってくれた。
お母さんはお父さんに説得されて、最後には納得してくれたけど──やっぱりオレはまたお母さんを泣かせてしまった。
「お母さん、ごめんね」とオレが言うと、お母さんはまた泣きながらオレを優しく抱きしめてくれた。
お父さん、お母さん。……ごめんなさい。
そうして日はあっという間に過ぎ──本因坊戦挑戦者リーグ、第2局──オレの復帰する日が明日へと迫った日。
塔矢が3日ぶりにオレの病室へと訪れた。
今週末から始まる国際棋戦のため、塔矢は明日には韓国へと旅立ち暫くの間滞在しなければならないという。
その間のスケジュールを調整するために、今日までギッシリと仕事が詰まっていたらしい。
塔矢は病室につくなりヨロヨロと蹌踉めき、オレのベッドの縁にフーッと本当に大きな溜息をついて腰を下ろした。
「……お疲れ。大変そうだな」
「まったく……冗談じゃないよ」
そう言って塔矢は「やれやれ」と言いながらネクタイを緩め、大きく溜息をつく。
そんな塔矢の様子にオレは笑いながら「お前、オッサンくさいよ」と言うと、塔矢はムッとした顔でオレを睨んだ。
オレはそんな塔矢の顔を見て、またゲラゲラと笑う。
「飛行機、朝早いんだろ? もう帰って寝とけよ」
「キミこそ……いよいよ明日だろ。もう休め」
塔矢の優しい声にオレは素直に「うん」と返事をして、開いていた詰め碁集を閉じる。
そしてベッドに横になると、塔矢はベッドから降りてオレにそっと毛布をかけてくれ
た。
そして傍らの椅子に腰を下ろし、オレの手を握りながら傍にいてくれる。
オレはそんな塔矢の顔を黙って見つめていると、塔矢は少しだけ寂しそうな表情をしながら口を開いた。
「……明日から暫く韓国だ。キミに会えなくなる」
「……うん」
「でも、僕等は一緒に囲碁を打っている。夢を叶えている。繋がっている。だから大丈夫だ」
塔矢の力強い声に、オレは笑顔で思いっきり頷いた。
そう、同じ空の下でオレ達は一緒に囲碁を打っている。そうしている限り、オレ達は離ればなれになることはない。ずっと繋がっているんだよ。
オレは嬉しくなって、塔矢の手を握り返す。
それからオレは──少しだけ口籠もりながら塔矢に「お願い」をした。
「……あのさ……その……お願い…があるんだけど」
「なに?」
「オレ、なるべく早く寝るから。……だからその…」
「寝るまで……傍にいてくれる?」
オレが顔を真っ赤にしながらそう言うと、塔矢は本当に嬉しそうな顔をして「朝までいようか?」と言ってくれた。
オレは「バーカ! 調子に乗るな!」と言って勢いよく目を閉じると、塔矢は笑いながらオレの手をもう一度優しく握り直してくれた。
塔矢、ありがと。
一緒に頑張ろうな。
──翌朝。
目が覚めると、そこには塔矢はいなかった。
ベッドの横のテーブルに、「がんばれ」と書かれたメモを残して。
オレは身体を起こしてベッドから出て、カーテンを開ける。
雲一つない、抜けるような青空。いい天気だ。
その空を見て、オレは思う。
ああ、オレはここからもう一度始まる。
オレの『進藤ヒカルの碁』は、ここから始まるんだ──
なあ。
お前も空の上で、見ていてくれるよな──
抜けるような青空の下、オレは日本棋院へと足を踏み入れた。
2ヶ月ぶりの棋院。
周囲の人たちが皆、オレの姿を驚いたような顔で見る。
オレは構わずに歩みを進め、今日の対局が行われる部屋へと向かう。
その部屋へ向かう途中──オレは、桑原先生とすれ違った。
──桑原本因坊。
オレを再び本因坊の名の下に、引っ張り上げてくれた人。
桑原先生はオレを見て「来おったか、小僧」と言ってニヤリと笑う。
だけどオレは軽く頭を下げ、そのまま桑原先生と言葉を交わすこともなく対局室へと入っていった。
桑原先生、待っていて。必ずアンタの前にオレは座ってみせる。
そのためにオレは絶対に負けない。
──今日の相手が、誰であろうとも。
「おはようございます」
一礼をしてオレは部屋へと入る。
これからオレと戦うその人は、すでに碁盤の前に座してオレのことを待っていた。
研究会で、何も知らないオレに色々と教えてくれた厳しい人。
病室で、「必ず戻って来い」と言ってオレの手を強く握ってくれた優しい人。
「おはよう」
──森下先生。
森下先生は表情を変えずに、座ったままオレを迎えた。
オレはもう一度一礼をして、碁盤の前へと腰を下ろす。
──2ヶ月ぶりに座る碁盤の前。
心地よい緊張感がオレを包み込む。
そう、あの塔矢との初対局の時のような──緊張感と高揚感で、身体の奥底がフツフツと熱を持っていくのがわかった。
オレは目を閉じてゆっくりと息を吐き出し、目を開いてオレの前に座る森下先生の顔を見る。
いつもと同じ、真剣な表情で森下先生は前を見据えている。
和谷が言っていたっけ。
森下先生がリーグ入りをしたのは随分と久しぶりのことだという。
しかも土壇場で決めた逆転勝利の末のリーグ入りだったということと、「オレの年齢を考えれば、タイトルに挑戦出来るのはこれが最後かもな」という思いもあって、このリーグ戦に賭ける意気込みは半端なものではないらしい。
きっとこれから行われるオレと森下先生の対局は、森下先生の囲碁へと賭ける強くて熱い想いが表れるような碁になるに違いない。
オレがそんな思いを込めてジッと森下先生を見つめていると、先生はオレの目を見据えながら静かに口を開いた。
「……お前がよく考えて決めたことだ。止めはしねえ。そして手加減もしねえ」
森下先生の低い声が、オレの身体の中を駆け抜けるようにして響いていった。
それと同時に鳴る、開始を知らせるブザーの音。
「始めてください」という立会人の声に、オレは深く息を吸い込んで頭を下げ、大きな声で言った。
「お願いします!」
++++++
「待っていたぞ、塔矢アキラ」
韓国に到着してホテルのチェックインを済ませた僕は、会場となる韓国棋院へと真っ直ぐに向かった。
すると、まるでそんな僕を待ちかまえていたかのように、高永夏と洪秀英が棋院の入り口に立っていたのだ。
そして目の前に立つ僕に向かって、高永夏はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「お前なら絶対に来ると思っていた」
「………」
「今度こそお前を倒す」
高永夏は僕を指差しながらそう言うと、くるりと踵を返して棋院の中へと入っていった。
すると、同じく入り口に立っていた洪秀英が僕の傍へと駆け寄り、酷く心配そうな顔をして僕に話しかけた。
「……塔矢、こんなところに来ていて大丈夫なのか? 進藤の具合はどうなんだ?」
洪秀英の問いに僕は笑顔で返すと、高永夏の後を追うようにして棋院の中へと入る。
すると、そこには。
「塔矢行洋!」
僕の後を追いかけて棋院に入ってきた洪秀英が、僕の目の前に立つ人の名前を呼んだ。
塔矢行洋。
僕の父であり、師であり、目指すべき人でもあり──そして超えなければならない人。
彼を超えた先にきっと、僕の目指すべき『神の一手』があるに違いない。
僕は超える。
あなたを超えて、僕は神の一手を打つ──
僕と塔矢行洋は、言葉を交わさず、そして視線も合わせないまま静かにすれ違った。
その様子を見ていた高永夏や洪秀英、そして韓国棋院の職員達は驚いているようだった。
僕と塔矢行洋は、今は親子ではない。
これから戦うべき棋士と棋士。馴れ合いはしない。
僕は、塔矢行洋に絶対に勝つ。
絶対に超えてやる。
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