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「……限界、だね」







静かな矢部先生の言葉が、日の暮れていく病室に響いた。
オレは横になったままブンブンと首を横に振る。





あの、塔矢が準決勝に進んだニュースを聞いた日。
強い発作を起こしたオレは、その後意識不明に陥ってしまった。
だが幸い発作は致命的なものではなく、その後オレは無事に意識を取り戻すことが出来た。
オレが目を覚ますと、ベッドの横であかりがワンワンと泣き続けていた。

……あかり、そんなに泣くなよ。
お前、もうすぐお母さんになるんだぞ。
そんな泣き虫の母ちゃんでどうするんだよ。



そして、第7局まで暫く時間の空くオレは安静にしていたのだけれど、病状は良くなるはずもなく──先程病室でオレの診断を終えた矢部先生が、夕陽を浴びながら静かな声でオレにそう告げた。


「限界」──つまり、オレはもう囲碁は打てないのだということ。


首を横に振り続けるオレに、矢部先生は困ったようにフウと息をついた。

「……アキラくんと『無理はしない』と約束したんだろう?」
「無理じゃない」
「進藤くん」
「塔矢と一緒に夢を叶えるって約束したんだ。だから最後まで頑張るんだ」
「しかし」

そしてオレはまた首を振る。
矢部先生は本当に困った顔をして、溜息をつきながら短い顎髭をさすった。
先生、困らせてごめんなさい。
もうオレの身体が限界に来ていて、無理であることはオレ自身が一番よくわかっている。
でも無理だとか無理じゃないとか。オレがいる場所はもうそういうところじゃないんだよ、先生。

オレは。



「オレはまだ打てるよ。オレ、まだ終局してない。終局するその時まで、勝負は終わりじゃない」




オレが力強く矢部先生にそう言うと、矢部先生はもう一度大きくフーッと溜息をつくと「そうか…」と小さな声で呟いた。
そしてオレの方を見て優しい顔で微笑むと、「少し昔話をしてもいいかい?」と言って沈んでいく夕陽を見つめた。

「僕はね……まだ若い頃、キミと同じ病気の男の子の担当になったことがあってね」
「………」
「その子も経過があまりよくなくて……あと半年って言われていた」

矢部先生はその在りし日を思い出すかのように、遠い目をして夕陽を見つめ続けていた。
夕陽のせいか、たくさんの皺に囲まれた矢部先生の目は僅かに光って見えた。

「その子、キミによく似て元気で気が強くてね。全然僕の言うことなんかきかないんだよ」
「………」
「僕がある時「なんで医者の僕の言うことを聞かないんだ!」って怒ったんだ」
「………」
「そうしたらね、「お前なんか『ヤブ』医者のくせに!」って言うんだよ」


『ヤブ』医者……?
こんないい先生を掴まえてヤブ医者だなんて、生意気なガキだな。
……って矢部先生、その子はオレと似てる、だなんて言ってたっけ。

オレが黙ったまま矢部先生を見つめていると、矢部先生は白衣の胸ポケットからメモ帳とボールペンを出して、何かをスラスラと書いた。
そしてオレの目の前に、その書いたメモを見せる。
そのメモには、漢字で一言「矢部」と、先生の名前が普通に書かれているだけだった。
矢部先生はニコニコとしながらオレに「これって何て読むと思う?」と尋ねてきた。


「なんて…って…。やべ、でしょ」
「うん。そうなんだけど。漢字の一文字一文字で、何て読む?」
「……一文字一文字…? えと……弓矢の「や」と…部活の「ぶ」………あ」
「ハハハ、わかったかい」


矢部先生は楽しそうに笑うと、自分で書いたメモを見て「上手いこと言うよねえ」と言ってまた笑った。
つまり『やべ』先生の『矢部』という漢字を『やぶ』と、その子は読み違えて……それで、『ヤブ医者』だなんて言ったんだ。
楽しそうに笑いながら矢部先生は、話の続きをしてくれる。


「『ヤブ医者の言うことなんか聞くものか』って言って、その子、最後は無理矢理退院しちゃってね」
「………」
「結局……数年後には…亡くなってしまったけど。
 でも、僕が言っていた時よりも彼はずっとずっと長く、そして楽しく生きていた」
「………」
「最後まであの子は、自分のやりたいことをやって生き抜いたんだ」


矢部先生はいつもの優しい瞳でそう言うと、オレの頭をポンポンと優しく撫でて、ゆっくりと言葉を続けた。



「だから、キミもこんなヤブ医者の言うことは聞かなくたっていいよ。
 キミの人生だ。生きたいように生きなさい」
「………」
「そして、どうしても辛くなったら僕が絶対に助けてあげるから。安心して囲碁を打ちなさい」









矢部先生、ありがとう。
オレ、先生に診てもらえて本当に幸せだったよ。

……そしてごめんなさい。























































それから。
安静にしていたのと、薬を変えたりしたこともあって、オレの身体は僅かに回復の兆しを見せていた。
良くはないが、以前のように動けなくなる程悪くはない。
熱も少しだけど下がって、食事も取れるようになってきた。
起きあがることも出来るようになったし、ベッドから出て部屋を歩くことも出来るようになった。
顔の半分が隠れてしまうのではないかというくらいの大きなマスクの着用を義務づけられるようになってしまったけど、調子がいい日は点滴を引きずりながら病室の外へと出ることも出来るようになった。



あと少し。あと少しでオレの夢は叶う。
だから神様、もう少しだけオレに時間をください。



そう毎日神様に祈り続けていたお陰かな。
いよいよ明日に控えた緒方先生との最終局──矢部先生のOKも出て、万全とは言えないけど今の中では最もいい状態で臨むことが出来そうだった。
そしてちょうど塔矢も──明日、高永夏との準決勝に臨むという。

あと一局。
あと一局を勝てば、オレ達は夢に手が届くよ、塔矢。









明日の対局に気持ちが高ぶって落ち着かなくなったオレは、なんとか気を静めようと、大きなマスクをして点滴を引きずりながらフラフラと病院の廊下を歩いていた。
すると、目の前に毎日見ている人影が見える。
デカイ腹をしたソイツは、メモを片手に公衆電話に向かって何かを喋っていた。


「……あ、あのもしもし! 私、和谷あかりという者なんですけど…
 あの、韓国の、韓国棋院というところにいる塔矢アキラさんにお電話を繋いで欲し……」


ガチャリ。



突然後ろから伸びてきた手に電話を切られたあかりは、驚いて振り返る。
そして後に立っていたオレに驚いて「ヒカル!」と声を上げた。
オレは、笑顔であかりに「ダメだよ」と声をかけた。
俯いていたあかりは顔を上げて、訴えかけるような目でオレを見つめて「だって…!」
と泣き出しそうな声で叫んだ。

あかり、ありがとう。
でもダメだよ。
















「アイツは今、夢を叶えている途中なんだ。邪魔しちゃだめだよ」


















なあ、そうだよな。

塔矢──


















++++++












「オレはこの日を待っていた。──塔矢アキラ」



韓国棋院、国際棋戦準決勝、第2局。

僕の前に座る高永夏は、鋭い目で僕を見据えながらそう話しかけた。
僕は返事をせずに、黙ったまま高永夏を見つめ返す。
すると高永夏はフ、と小さく笑って言葉を続けた。



「お前は囲碁を打たねばならない人間だ。
 囲碁の神に愛されたヒカルに──愛された人間なのだから」
「………」
「オレはそんなお前に勝利して、オレが神の一手を打つ」
「………」
「ヒカルのためでも誰のためでもない。オレは自分自身のために打つんだ」








自分自身のために。
そう。










「僕も──僕も誰のためでもない。僕は僕の夢を叶えるために──囲碁を打つ」

「上等だ」















高永夏がそう言って不敵に笑った後に、対局開始のブザーが鳴った。
この対局は父が──塔矢行洋が見ている。

絶対に負けられない。




僕は絶対に勝つ。






















見ていてくれ。




進藤──




















++++++











本因坊戦挑戦者リーグ、第7局。
最終局。

この対局に勝利した者が、本因坊の挑戦者となる。







碁盤の前に静かに座っていたオレの前に、いつもの白スーツで現れた緒方先生は「おはようございます」というオレの言葉に返事をしないまま、静かに席に座した。
そして碁盤の向こう側から、射抜くような目でオレのことを見つめる。
ブルリと震えそうになる右手を、オレは必死に握りしめて堪える。
そんなオレを見据えながら、緒方先生は静かに口を開いた。



「手加減はせん。オレの持てる力をすべて出すつもりだ。──進藤碁聖」




──病院にいる時の、あの身体の重さや痛みが嘘のように消えている。
心も身体も酷く静かだ。
目の前の碁盤に輝く九つの星が、碁盤という宇宙の中からオレを呼んでいるような気がした。
今までの中で最高の状態──そう、オレが囲碁を打ち始めた時からすべての中で──今オレは、最高の状態にある。


絶対に勝てる。
オレは絶対に勝つ。



















なあ、塔矢。
そして……『あの世界』にいるお前も。




































オレの碁を、『進藤ヒカルの碁』を見ていてくれ。




















































「始めてください」











対局の開始を告げる声──先番はオレだ。

パチリと澄んだ音を立てて、オレは第一手を打った。






















































右上スミ、小目。