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2007年、2月──。


オレが入院してから、もうすぐ2ヶ月になろうとしていた。
季節は1年で最も寒い季節、2月。
緑もなくなり人々の服装も暗い色が多くなり、街全体が灰色がかった色になる季節。

寒い寒い冬。





そしてその寒い冬が終われば──暖かい春。

その頃、オレは。




















入院してからというものの、オレの体調は比較的安定していた。
時折やっぱり発作みたいなものもあって、もちろん好不調の波みたいなものもあったけど、どれも今すぐどうにかなってしまうようなものではなく、穏やかな日々を過ごしていた。

特に2月に入ってからは随分と体調が良かった。
普通は寒い季節になったのだから、オレのような抵抗力が落ちている人間は最も気を付けなければならない季節のはずなんだけど──何故だかオレは、入院して以来最も体調がいいのではないかというくらいに元気だった。

1月の終わりに少し体調を崩した日々があって、その時はキツイ薬なんかも打たなくちゃならなくて、動けないくらいに怠い日や熱の高い日もあったりしたけど──2月に入ってからはそんな日もなくなった。
相変わらず点滴は外れないし食事も上手く食べることは出来なかったけど、それでもオレは元気だったんだ。


窓の外を見る。
春が訪れる前の、灰色の世界。


オレは夏の方が好きだけど冬も嫌いじゃない。
ピンと張りつめた空気は、頭をスッキリと冴えさてくれる。









外に出たいな。
冬の空気を吸うことは、もうこれが最後になるのだろうし。












『世界は美しい』と言っていたアイツの言葉をもう一度確かめたかった。













そんな想いを込めて、オレは矢部先生に何度か交渉を試みた。
最初は「無理は禁物!」の一点張りだった矢部先生だが、オレが必死に頼み込んだことと、実際体力も少しだけど回復の傾向にあったこともあって──最後には矢部先生がいくつか条件を出す形で、半ば折れるように許可を出してくれた。

矢部先生が出した条件は、

「天気が良く、比較的暖かい日であること」
「3時間できっちり病院へと戻ること」
「絶対に走ったり階段や坂を上ったり、負担の強いことはしないこと」
「あまり遠くへ行かないこと」
「水やお茶はいいけど、それ以外の買い食いはしないこと」


──という5つだった。
矢部先生はわざわざ手書きでこの条件を御誓文のようにして書いて、オレに「お守りだと思って持って行きなさい」と渡してくれた。

なんだか、子供の遠足みたいだな。
思わずオレが笑ってしまうと、矢部先生はいつもの優しい笑顔で「僅かな時間だけど、楽しんでおいで」と言ってくれた。



矢部先生、ありがとう。
ごめんなさい。








そして晴れて外出許可が下りたオレは、最後まで難色を示していた塔矢と共に2ヶ月ぶりに病院の外へ出ることが出来た。
矢部先生の許可が下りた後も塔矢はかなり心配をしていたけど「お前と一緒に行きたいところがあるんだよ」と言うと、少し嬉しそうな表情を見せながら、渋々とOKを出してくれた。
そして外出の日にはこれでもか!というくらいにオレに厚着をさせて、万全の防寒対策を施した。

……ホント、過保護なヤツ。

塔矢、ありがとな。
















そうしてオレは外に出る。















2ヶ月ぶりの外──冬の空。


















胸一杯に冷たい空気を吸い込む。



































淀んでいた身体の中が洗われていくようだ。

気持ちいい──






































さすがにやっぱり身体は重い。
でももう一度こうして自分の足で外に出ることが出来た。

塔矢と一緒に。






塔矢と一緒に外を歩くことがあまりにも嬉しかったオレは、妙にウキウキとしながら街を歩いた。
塔矢はハラハラとしながら──それでもやっぱり少しは喜んでくれたのかな。
久しぶりに塔矢の明るい笑顔を見ることが出来た。





嬉しい。
本当に嬉しい。


























なあ。
お前の言った通りだったよ。


好きな人と歩く世界の景色は、本当に綺麗だよ──






















『あの世界』にオレが行ったら、アイツにそう報告しよう。



























































オレはそんなことを考えながら街を歩く。
そして暫く歩いて駅に着き、これまた2ヶ月ぶりの電車に乗った。
優先席に座らせてもらったオレに、塔矢は不安そうな顔をして「どこへ行くの?」と聞いてくる。

オレは笑顔で答える。

そういえば前に塔矢にこの事を話した時も、電車の中だったな。























「前に言ったよな。
 お前に話したいことがあるって」


「連れて行きたいところもあるって」

































































「長い間待たせてごめんな」















++++++



























































線香の柔らかい香りが漂い、細い煙が静かに冬の空に立ち上っていく。
灰色の墓石の前でゆらゆらと揺れて、溶けるようにして消えていく。




石に彫られた名前は──『本因坊秀策』。






アイツが好きだった虎次郎の墓。









オレと塔矢は、秀策の墓がある巣鴨の本妙寺に来ていた。
住職さんに許可をもらって秀策のお墓参りを済ませたオレと塔矢は、そのまま境内へと向かった。
住職さんが「中に入りませんか」と勧めてくれたが、オレは断って塔矢と共に石段に腰を下ろした。
塔矢はオレを心配して「中に入ろう」と言ったが、オレはどうしても外にいたかった。

せっかく2ヶ月ぶりに外に出られたんだ。
少しでも長い時間、外の空気を吸っていたい。
アイツの好きだった虎次郎の傍で──塔矢に話したいことがあるんだ。




塔矢は電車の中でオレが言った「長い間待たせてごめんな」という言葉を聞いて、以前オレが言った時と記憶が繋がったのだろう。
そのまま緊張したように顔を強ばらせて、その後は何も言わずに黙ったままオレの後をついてきてくれた。

そして今オレの隣に黙って座り、まるで対局中のように緊張してオレの言葉を待っていた。


オレはそんな塔矢の様子を見てクスリと笑うと、冬の空を見上げながらゆっくりと口を開いた。








「半年前に、さ。
 お前と一緒に暮らす前──オレ、一度ここに来てるんだ」
「………」
「って言っても、本当はここに来たのはオレじゃなくて社なんだけど。
 それ、お前知ってるよな」


オレがそう言って塔矢の顔を見ると、塔矢は黙ったまま頷いた。
塔矢の表情を確認しながら、オレは言葉を続ける。


「棋譜を燃やしてもらったんだ。
 本当は虎次郎の故郷の、因島まで行きたかったんだけど──
 オレ、大阪で具合が悪くなっちゃって。
 で、社が東京の本妙寺まで来て、オレの代わりに頼んでくれたんだ」
「………」
「大事な棋譜──オレとアイツの棋譜」



囲碁をオレに教えてくれたアイツ。
オレに命をくれたアイツ。
塔矢と出会わせてくれたアイツ。



大切な大切なアイツ。





「アイツっていうのは──オレに囲碁を教えてくれた人なんだ。
 ……今はもう、いないけど」
「………」
「燃やしてもらったのは、アイツとオレの棋譜。
 指導碁の記録。
 アイツとの思い出がたくさん詰まった、本当に大切だった棋譜なんだ」







アイツがいなくなってしまってからオレは、アイツといた日々を──アイツがオレに残していった物を忘れないようにと、アイツと打った対局のすべてを棋譜にして書き起こした。
書かなくても頭の中にはすべて入っていたのだけど、形にして残しておきたかったんだ。
姿のなかったアイツだけど、確かにオレの中にはいたんだよ──ということを棋譜という形にしておきたかった。

その枚数は数百枚にもなっただろうか。
オレはその棋譜を大切に保管しておいた。
アイツが目指した神の一手が打てるその日まで、傍に置いておきたかった。


アイツとの思い出に考えを巡らせていたオレに、塔矢は静かにオレに尋ねる。



「……何故、そんな大切な棋譜を燃やそうとしたの…?」
「アイツに、先に見ておいてほしかったんだ。
 オレが『あの世界』へ行って『目的』を果たす、その時までに」



オレは未だに神の一手は打てていない。

だから本当に『あの世界』に行けるかどうかわからないけど──もしも行くことが出来て、アイツと再び会うことがあったら、アイツと打ったこの棋譜を見ておいてほしかったんだ。
そしてアイツと一緒に果たさなくちゃならない『目的』があるんだ。

オレがさらに言葉を続けようとした時に、塔矢がオレよりも早く口を開いた。
その声は少しだけ掠れていたが、静かで力強い声だった。









「あの棋譜は……燃やされてないよ」
「え?」
「僕が持っている」
「な……」










…………………なんで、塔矢が?



オレとアイツの棋譜を何で塔矢が持って……














……そうか。
オレが大阪の病院に入院している時に──社が確か言っていたっけ。
「本妙寺に行ってオレとお前のことを嗅ぎ付けたようや」って。

塔矢はきっとその時にこの棋譜を見たんだ。
そしてオレと──多分、塔矢は口に出してこそ言わないけど、塔矢も知っているアイツの棋譜だということに気が付いたんだ。
それで塔矢は、燃やさずに塔矢の手元に保管しておいたんだ。


それでいて塔矢は、今まで何も聞かずに待っていてくれたんだ。



塔矢、ありがとう。
でもその棋譜はオレがアイツと『目的』を果たすには必要なもので──





「ねえ、進藤。『アイツ』がいる『あの世界』ってどこ?」
「………」
「『目的』ってなに?」




塔矢は、真剣な瞳で真っ直ぐにオレを見つめてそう尋ねた。
だがそれは決して問い詰めるような口調ではなく、今まで何も聞かずに待っていてくれた、塔矢の静かで優しい言葉だった。

オレはその言葉に答えなければならない。
今ここで、虎次郎の傍で、オレは答えなければならない。

そんなオレの想いの傍で、塔矢は再び静かにオレに言葉を投げかける。



「その『目的』は……ここでは出来ないことなの?」
「……うん、出来ない。アイツと一緒じゃないと、出来ない」
「僕ではダメなの?」



塔矢、塔矢。
塔矢の優しい目。優しい声。

塔矢は優しくオレの冷えた手を握る。そして真剣な優しい瞳でオレを見つめる。
塔矢の真っ直ぐで純粋で綺麗な気持ちが、オレを包み込む。




涙が零れそうになる。



塔矢。








「………オレの目的は……アイツと一緒に、お前に……」
「イヤだと言ったら?」
「え?」








塔矢は静かにオレの手を握る力を込める。
そして真剣な瞳のまま、言葉を続ける。










「『あの世界』に行くのも。『アイツ』に会いにいくのも。『目的』を果たすのも。
 僕がイヤだと言ったらどうする?」
「……………」
「僕は。僕は、キミとずっと一緒にいたいよ。
 ずっとずっと一緒にいたいよ。キミの傍にいたいよ」
「……………」
「進藤」
























「進藤」










































冷たい冬空の下。
塔矢の温かい手がオレを包み込む。

塔矢の優しい言葉と気持ちが、オレの心を包み込む。








「……そんなこと、言うなよ」








そんなこと言うなよ、塔矢。
オレ、今まで何のために頑張ってきたと思ってるんだよ。










「そんなこと言われたら、オレ…………」











オレ、今まで『目的』を果たすためだけに頑張ってきたんだよ。

そのために、今までお前のこと好きになりすぎるの我慢したりして、がんばってきたのに。

いつか『目的』のために、お前と離れなければならない日が来るから──そのためにオレ………











『あの世界』に行かなくちゃならないのに。






































それなのに…………オレ…………


































































「そんなこと言われたら、オレ………」








































「お前の傍に、ずっとずっといたくなっちゃうよ……」




























































隣に座る塔矢の肩にそっと頭を寄せる。
今まで必死に堪えていた涙がスーッと頬を流れて落ちていくのを感じた。


それきり塔矢は何も言わずに、黙ったままオレの手を静かに握っていてくれた。










そのまま泣いてしまったオレは結局上手くアイツのことは話せないままだった。
ごめんね、塔矢。








………ごめんね、虎次郎。












++++++




















それから矢部先生との約束の3時間が近づき、オレと塔矢は病院へと戻った。
病院の門をくぐって庭をぬけ、もう少しで入り口に辿り着く。
そうしてオレはもう一度、あの白い部屋にいなければならなくなる。


──これでもう、外に出ることはないかもしれない。


オレはそう思って、もう一度外の空気を胸一杯に吸い込もうと深く息を吸って、良く晴れた空を見上げた。


















すると。


















綺麗だった、良く晴れていたはずの青空が、まるで突然夜になってしまったかのように真っ暗になって見えた。
驚いたオレは自分の足下を見る。
すると芝生が敷かれていたはずの足下も真っ暗になっており、それどころか自分の手も足もハッキリと見えなかった。











………あれ?
何だろう。突然天気が悪くなっちゃったのかな。

ねえ、塔矢。















「進藤?」














先に歩みを進めていたはずの塔矢が、立ち止まったまま動かないオレを不思議に思って声をかける。
オレは「塔矢」と呼ぼうとしたのだが、声すら上手く出せなかった。

真っ暗になってしまった自分の目元を両手で覆う。






































何も見えない。聞こえない。









塔矢、塔矢、どこにいるの?








オレもお前と一緒にいたいよ、塔矢。













































































「進藤、どうし……」

「………とうや……なんか………くらいよ………」


















































































空間が歪む。
足下がグニャリと崩れるのを感じる。

どこか遠くで塔矢がオレの名前を呼んだ声が聞こえた気がした──



















































……………………とうや…………






































































「進藤!!」



「進藤!!!」









「どうしました!?」

「突然倒れてっ……! 進藤!!」

「担架を! 早く!」















「進藤!!」













































































「進藤!!!」