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11-5.5
「……ということで、塔矢名人。
次の十段戦ですが、現在激しい挑戦者争いが行われている訳ですが……塔矢名人?」
「は」
目の前に座る記者の怪訝そうな声に、僕は遠くに飛ばしてしまっていた意識を戻す。
我に返って記者を見ると、記者は「大丈夫ですか? 先生」と僕の顔を覗き込むようにして窺ってきた。
僕が「すみません、ちょっと考え事をしていて…」と言って頭を下げると、記者は持っていたボールペンで頭を掻きながら「お疲れですか? 取材中なんですから、頼みますよ」とふて腐れた様子で言葉を返した。
確かに取材中にボーッとしてしまっていた僕が悪いのだが、会った時からあまり態度のよくない記者だった。週刊誌の記者だという。
本来、日本棋院ではこういった雑誌の取材はあまり受けないようにしているのだが「純粋な囲碁に関する記事ですから」と熱心に言われ、坂巻さんも折れたらしかった。
一応監視役として出張でいない天野氏にかわって筒井さんという出版部の人が僕の傍につき、取材を受けることになったのだ。
そして取材日当日──蓋を開けてみれば、確かに囲碁の質問も多いのだが、それ以外の──つまり僕のプライベートに関することや下世話ともいえる質問も多かった。
たとえば、僕が昨年に日高先輩としたお見合いのことまでこの記者には知れていて「毎朝新聞の社長令嬢をフッたのは、何か彼女に問題でもあったんですかね?」などいった、失礼極まりない質問まで受けるハメになった。
その度に、僕の横に座っていた筒井さんが「そういった質問は答えられません」と強い口調で跳ね返してくれていた。
そして取材も終わる時間に差し掛かった頃、その記者が「これが最後ですから」と言って口を開いた。
「塔矢名人のライバルである進藤碁聖ですが、体調を崩して現在休業されていますね」
「………はい」
「なんでも名人は進藤碁聖と生活を一緒にされていたとか」
「………はい」
「その生活の中で、何か進藤碁聖におかしなところとかありませんでしたかね?
たとえば…ホラ、生活態度とか。いろいろ進藤碁聖も書かれた時期があったじゃないですか」
「………」
「タレントみたいなこともやって、あの派手な外見ですし、チャラチャラしたイメージがあるじゃないですか。
体調不良ってのもどこまで本当なんだか…」
記者はそこまで言いかけたところで言葉を詰まらせた。
いや、喋ることが出来なかったのだ。
僕がその記者の胸ぐらを掴んで締め上げていたからだ。
「……! くっ、苦しっ…!」
「お前が一体進藤の何を知っているというんだ。進藤の何を知ってそんなことを言うんだ!」
「は、離し…っ!」
「進藤を勝手に祭り上げたのはお前達だろう!!」
「塔矢くん!! 離すんだ!」
記者の胸ぐらを掴んで立っていた僕を、筒井さんが後ろから僕を引っ張ってその記者から離させる。
僕の手から離れた記者は、暫くの間ゲホゲホと息苦しそうに咳き込んでいた。
筒井さんに後ろから羽交い締めのようにして押さえられている僕も、ハアハアと肩で息をしてしまう。
許せなかった。
お前に、進藤の苦しみの何がわかるというのだ。
「か…書くからな!」
「………」
「『塔矢名人、取材中の突然の暴行』って書くからな!」
息を切らしていた記者が、僕を指さしながら叫んだ。
書けばいい。だからなんだと言うのだ。
そう思って僕はその記者を睨み付ける。記者はそんな僕の目を見て、一瞬ウッと息を飲んだ。
そうして僕がその記者を睨み付けていると──僕の後ろにいたはずの筒井さんが、いつの間にか僕をその記者から守るようにして前に立ち、記者に向かって言った。
「こちらの失礼で不快な気分にさせてしまったことは、謝ります」
「失礼なんてもんじゃねえ! アレは暴力だ!」
「ですが、先に約束を破られたのはそちらでしょう?
『囲碁以外の質問をされた場合には即刻取材を打ち切り、金輪際日本棋院への出入りを禁ずる』と。
この契約書にサインしたのは、あなたですよ」
「………」
「いいんですか? 確かあなたの出版社、囲碁関連の本を出している部署もあって──」
「わ、わかったよ! チッ」
筒井さんの言葉に記者は舌打ちをすると、逃げるようにして部屋を出ていった。
筒井さんは扉がバタンと閉められた途端に「フーッ…」と息をついて、ヨロヨロとしながら乱れたソファーやテーブルの位置を直した。
そして呆然としている僕に「コーヒーでも取ってくるから座ってて、塔矢くん」と声をかけて、部屋を出ていってしまった。
『体調を崩して現在休業されていますね』
先程の、あの失礼な記者が残していった言葉が頭の中に響く。
それと同時に、先日の進藤の言葉が思い出されて同じように頭の中で木霊する。
『死にたくないよ、塔矢』
どうすればいい。
僕は、どうすればいい。
2月に入ってから少しだけ体調が上向きになってきていた進藤は、先日2ヶ月ぶりに僕と共に外出をした。
二人で本因坊秀策の墓がある本妙寺に行って、3時間あまりで病院へ戻ってきたのだが──戻ってきた途端に彼は倒れてしまった。
そして、僕の腕の中で大声で泣いた。
「死にたくない」と言って。
あんな風に進藤が病気に対して僕に感情を見せたのは、その時が初めてだった。
彼は辛そうにしている日でも僕が訪ねていくといつも笑顔で出迎えてくれた。
病気の話をしたり、それに対して感情を僕の前で露わにすることなど一度もなかったのだ。
その彼が、僕の前で泣きながら初めて叫んだのだ。
「死にたくない」と。
それから数日が経ったが──進藤の具合は悪くなる一方だった。
ベッドの上にいる時間が増え、さらにグッタリと横になっている時間も増えた。
微熱が下がらない日が続き、僕や友人が訪れていっても見せる笑顔は少なくなっていった。
このままでは──近いうちに進藤が病魔に飲み込まれてしまうことは明らかだった。
矢部先生は「彼を励ますのは僕にしか出来ない」と言った。
だが僕には何も出来なかった。何をしたらいいのかさえわからなかった。
ただ、黙って苦しむ彼の傍にいることしか出来なかった。
苦しい。
彼のために何も出来ない自分が憎くて苦しくてたまらなかった。
どうしたらいい、僕は。
フーッと無意識に深く息をついてしまう。
すると、目の前に暖かい湯気を揺らしたコーヒーが差し出される。
いつの間にか筒井さんが部屋へと戻り、僕の前に座って心配そうな顔で僕のことを覗き込んでいた。
「大丈夫かい、塔矢くん」
「………」
「すまなかったね、嫌な思いをさせてしまって」
僕は暖かいコーヒーを手にとって顔を上げる。
筒井さんはそんな僕を見て僅かに微笑んだ後、「あ」と声を上げた。
「ご、ごめん『塔矢くん』だなんて…! 名人なのに」
「……いえ、それは別に」
「つい昔の癖で…。本当にすみません、名人」
──昔の癖?
不思議に思った僕は首を傾げる。
そんな僕の様子を見て、筒井さんは「あ、僕のことなんか覚えている訳ないよね」と笑いながら言って頭を掻いた。
「僕はね、葉瀬中の出身なんだよ。しかも、元囲碁部」
「え」
「進藤くんの2年先輩にあたるんだ。塔矢く…名人にも、何度か会っているんですよ」
そう言って筒井さんは決まり悪そうにしながら笑った。
──そうか。
その時に筒井さんがいたことは全く思い出せなかったが、僕は何度か葉瀬中に訪ねているし、恐らくあの囲碁部の大会でも会っているのかもしれない。
僕が「思い出せなくてすみません」と言って頭を下げると、筒井さんは「いいんですよ、名人!」と言って慌てた。
昔の僕と進藤を知っているという筒井さんに「名人」と言われることをなんとなく気恥ずかしく感じた僕は「『塔矢くん』でいいですよ」と笑いながら言った。
すると筒井さんは「そ、そうかな」と言いながら再び頭を掻いた。
そうして僕と筒井さんは、葉瀬中や海王中の話、そしてあの時の囲碁部の大会のことなどを話した。
久しぶりに穏やかな時間を過ごすことが出来た僕は、随分と久しぶりに笑ったような気がした。
暫くそうして穏やかな時間が過ぎたが──囲碁の話になった時に、筒井さんは僕の顔を再び心配そうに見つめた。
「最近…少し調子を落としているようだけど…大丈夫かい?」
「………」
「来月からは十段戦も始まるし…タイトルの防衛戦は初めてだろう?」
「………」
「……進藤くんのことが心配なのはわかるけど」
『進藤』という名が筒井さんの口から聞こえた時、思わず僕は俯いていた顔を上げてしまう。
筒井さんは少し目を伏せながら、言葉を続けた。
「この前、加賀っていう葉瀬中の僕の同級生…進藤くんの先輩とね、お見舞いに行ったんだ」
「………」
「思っていたより元気そうにはしてたけど…」
そう言う筒井さんに、僕はまた知らないうちに溜息をついてしまっていた。
そんな僕の溜息を聞いた筒井さんは、「ねえ塔矢くん」と声を少しだけ明るくして、再び僕に話しかけた。
「僕等が今の進藤くんにしてあげられることなんて、ほとんどない」
「………」
「でも、キミは違う。キミは囲碁を打つことが出来る。
進藤くんの望みは、キミが元気に楽しく囲碁を打つことだと思うんだ」
「………」
「僕の勝手な想像だけど、一応これでも彼との付き合いは古いからね。
彼はそういう人だと、僕は思ってる」
「………」
「だから、頑張って」
そう言って筒井さんは立ち上がり、俯いて座る僕の肩を力強く叩いた。
進藤の望み。
それは、僕が囲碁を打つこと。
それはわかっている。わかっているんです、筒井さん。
それでも僕は──
その時、トントンとドアをノックする音が部屋に響いた。
筒井さんが「ハイ」と返事をしてドアを開けると、別の編集部員がドアの外から僕の名を呼んだ。
「塔矢名人、棋院の役員室へおいでいただけますか?」
「役員室?」
「役員の方々が、名人にお話があると」
役員が、僕に……?
不思議に思いながら、僕は役員室へと向かった。
++++++
棋院の最上階にある役員室へと入る。
すると棋院の役員が珍しく勢揃いしており、僕がドアを開けた瞬間にその内の一人が「塔矢名人!」と大きな声を出した。
一体何事なのか、何が起きているのか全くわからない僕は、ドアの前で目を白黒させていると、他の役員が「名人、こちらへどうぞ」と言って僕をソファーへ座るように促した。
とりあえず僕は「はあ」と言って腰を下ろす。
すると僕の前に座る役員たちは、全員ニコニコとしながら同じような表情で僕を見つめている。
何だか酷く居心地が悪く感じた僕は「何の御用でしょうか」と小さな声で恐る恐る尋ねた。
すると、そんな僕の質問に待ってました!と言わんばかりに、役員の一人が表情を更に明るくさせながら口を開いた。
「実はですね名人! 今度、韓国で新しい国際棋戦が開かれることになったんですよ!」
「国際棋戦…?」
「数年前から日本と韓国が中心になって動いていたんですがね、それがいよいよ開催されることになりまして!」
「……それは…どういった…?」
「純粋に『囲碁が最も強い者』を決めよう、ということを主旨としておりまして。
プロだとかアマだとかそういった垣根も取り払って、世界中から囲碁の強い者たちを集めて、
その中で一番を決めよう、というものです」
「……一番強い者を…」
「国だとか、男女だとか、年齢だとか。そういったことも一切関係なく、純粋に囲碁が強い者を決める大会なんです!」
──世界中から強い者を集めて「一番」を決める。
僕も今まで何度か国際棋戦に参加したことはあったが、資格や制限などがある大会が多く、そのせいで参加出来ない者たちが大勢いることも知っていた。
そういった垣根が取り払われて、世界中から囲碁を極めんとする者達が集ってくるのだ。
僕の知らなかった国、知らなかった世界で、たくさんの強い者たちと囲碁を打つことが出来る──
その光景を想像した時──ここ数日の間濁っていた僕の視界が、光が射すようにして開けていくのを感じた。
そして右手がフルリと震える。
暫くの間感じていなかった、感じることさえ出来なかったあの感情が、僕の身体の奥底からフツフツと沸き上がってくる。
打ちたい。
囲碁が、打ちたい。
その話を聞いて表情が変わった僕を見て、役員はニコニコとしながら言葉を続けた。
「その大会には、北斗杯や──それから昨年末名人と素晴らしい一局を打った、あの高永夏や洪秀英も参加すると聞いています」
「高永夏たちが…」
「それからですね、もうお一人、塔矢名人に縁が深い方が参加を表明されているんですよ」
「僕と…縁が深い?」
「現在韓国で客員棋士としてご活躍中の、塔矢行洋先生が参加なさるんですよ!」
──父が。
先程僕の目の前に差し込んできた光は、さらに大きく明るくなって、僕を照らす。
さらに強い者と自由に囲碁を打ち続けるために、プロを引退して世界へ飛び出していった父。
その父が、この大会に興味を示して参加を表明するのは当然といえた。
高永夏、洪秀英、それから──塔矢行洋。
それ以外にも世界中の強者達が集まってきて、一斉に囲碁を打つのだ。
打ちたい。
僕も父のように世界で戦ってみたい。
自分の本当の力を試したい。
そして何よりも。
「その大会に、塔矢名人も是非参加していただければ──塔矢アキラ名人対塔矢行洋元名人という、
我々にとって夢のような対局が実現するかもしれないんですよ!」
役員の一人が興奮気味にそう話す。
すると、その周りにいった役員達からも「おおっ!」という声が上がり、皆頬を紅潮させながら「まさに夢の対局だ!」「世紀の親子対決! 是非とも見たいですな!」
と口々に喋り始めた。
──夢のような対決。
そう、それは僕にとっても『夢』の対決だった。
物心がつく以前から父に教えを請い、今まで父の後を追いかけるようにして囲碁を打ち続けてきた僕にとって、父に挑むことはまさに僕の『夢』だった。
家や研究会で打つような一局ではない。公式の大会で、塔矢行洋に一人の棋士として挑んでみたい。
それが、僕が幼い頃から描いてきた夢だったのだ。
しかし僕のその夢が果たされる前に、父は碁界から身を引いてしまった。
父が以前よりもずっと自由に楽しく囲碁を打っている姿は嬉しかった。だがこれで、
僕の夢は一生果たされないものとなってしまった。
──そう、思っていたのに。
その僕の『夢』が今、こうして思わぬ形で果たされようとしている。
打ちたい。
打ちたい、打ちたい、打ちたい。
お父さんと──いや、塔矢行洋と囲碁が打ちたい。
打ちたい。
でも。
「……その大会は…韓国で開かれるんですよね」
「はい! 来月からトーナメントを進めて、決勝は5月の上旬頃になるかと思います」
「…その間…僕はずっと韓国に?」
「いえいえ、塔矢名人には来月から十段戦も控えていることですし、ずっと韓国に滞在ということにはなりませんが…。
対局スケジュールなどを調整しながら、でも一ヶ月の半分くらいは、韓国に滞在していただくということになるでしょうね」
役員は嬉々としながら僕にそう話した。
一ヶ月のうち、半分も韓国に滞在しなければならなくなる。
その間、ずっと日本を離れることになる。
──進藤の傍に、いられなくなる。
僕の傍にいたいと言って、泣いた進藤。
死にたくないと言って、泣いた進藤。
徐々に衰弱し始めている、進藤。
そんな進藤の傍にいてやれないというのか。
一番彼を支えてやらなければならない僕が、傍にいられなくてどうするのだ。
『ヒカルのこと──……よろしくお願いしますね』
『あの子ともう少しだけ、友達でいてやってください』
僕にそう言って頭を下げてくれた、彼の両親の言葉を思い出す。
僕は彼の両親に「はい」と返事をした。約束をしたのだ。
彼の傍にいると、彼を守ると約束したのだ。
その僕が、彼が一番辛い時に傍にいられなくてどうするのだ。
僕は。
僕は。
僕がいるべき場所は。
「……すみません。お断りいたします」
「…は?」
「失礼します」
静かな声でそう言って、僕は席を立ち役員に背を向ける。
僕の予想外の答えに驚きを隠せない役員達は、次々に「塔矢先生!」「な、何故ですか!?」と言いながら立ち上がって、部屋を出ていこうとする僕の後を追いかける。
そして、そのうちの一人が叫ぶように僕に向かって言った。
「塔矢行洋先生と公式で戦える、最後のチャンスかもしれないんですよ!」
その言葉に、僕は右手の震えを何とか堪えるために、グッと力を込めて握る。
掌に爪が食い込んでいくのがわかる。
そうして痛みで気を紛らわせなければ、僕は振り向いてしまうかもしれないからだ。
振り向いてはいけない。
振り向いてはいけない。
僕が今いるべき場所は、碁盤の前ではない。
進藤の傍なのだ。
父と戦うのは、確かにこれが最後のチャンスかもしれない。
だがキミの傍にいることが出来るのも──これが最後なのだ。
あとほんの僅かな時間しか、僕はキミの傍にいることが出来ないのだ。
「……今、僕には他にやらなければならないことがあるんです」
だから僕は、キミの傍にいる。
どこにもいかない。
キミの傍にいるよ、進藤──
大きな声で追いかける役員達に僕は振り返ることなく、部屋を後にした。
だから僕はその時、気付かなかったのだ。
役員室の隣にある会議室に、僕のよく知る──僕のことをよく知るあの人がいたということを。
「あ…芦原先生……。今の、塔矢先生ですよね」
「………」
「な、何で棋戦に出られないのでしょう…? 他にやるべきこと、って…」
「………アキラ」
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