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11-6
青い空、ゆっくりと流れる白い雲。
白い雲の隙間から、時折眩しい光が射し込んでくる。
オレは眩しそうに目を細めながら、ゆっくりとその光に向かって手を伸ばしてみる。
光を掴もうと手を握り、そして開いてみる。
だが、開いたオレの手の中には何もなかった。
当たり前か。
光なんて掴めるワケないじゃないか。
わかってる。頭ではわかっているのだけれど、オレは何度も何度も光に向かって手を伸ばす。
すると、オレの冷え切った手にわずかに光の温もりが残る。
その温もりを感じる度に「まだ生きてる」ということを実感できるのだ。
まだ、生きてる。
あと、どれくらい?
………。
そんなことを1日中グルグルと考え続けていたら、2月に入ってからあれ程好調だったオレの身体は途端にガタが来て動かなくなった。
鉛を飲み込んでしまったかのように身体が重くて動かすことが次第に億劫になり、ベッドに横になっている時間が増えた。
こんなことじゃいけない、少しでも動かなくちゃ、ってわかっているのだけど──どうにも怠くて、気分も浮上しなかった。
あの日──塔矢に縋って「死にたくない」と言って泣いてしまった日から──オレの身体も気持ちも沈んでいくばかりだった。
あんなこと言うつもりなんてなかったんだ。
塔矢にはどうすることも出来ない。
でも塔矢は優しくて真面目なヤツだから、何も出来ないとわかっていても、そんな自分にきっと酷く悩んで苦しんでいるに違いなかった。
だから絶対に言ってはいけなかったのに──……。
それ以外にも。
オレは、今まで『あの世界』に行って『目的』を果たすために頑張ってきたのだ。
なのにそれを忘れて塔矢に縋り付こうとしてしまった。
大事な『目的』を忘れてしまった自分にも腹立たしかったし、そのせいで塔矢を傷つけて苦しめることしか出来ない自分が憎くて仕方なかった。
塔矢。
オレ、どうすればいいのかな。
オレが今出来ることって、何なんだろう。
そんなことをベッドに横になって空を見上げながら考えていた時、トントンと扉が叩かれる音がした。
あれ、もう回診の時間かな。それともお母さん……いや、この時間ならあかりかな。
そう思いながらオレは横になったまま「ハイ」と小さな声で返事をした。
すると静かに扉が開かれ──そこにいたのは。
「こんにちは、進藤くん」
「とっ…塔矢先生! お、おばさんも…!」
扉が開かれて病室に入ってきたのは、そう──塔矢先生と塔矢のお母さんだったのだ。
先生の突然の来訪に驚いたオレは、重い身体を急いで起こして寝癖のついてしまっている髪を必死に手で整える。
そうしている間に先生と塔矢のお母さんはオレのベッドのすぐ横に立っており、オレはドギマギとしながらペコリと頭を下げた。
「こっ、こんにちは! すみません、オレ、こんな恰好で」
「いいのよ進藤くん、無理しないで。横になっていてもいいのよ?」
「いえ、そんな、だ、大丈夫ですから」
塔矢のお母さんの優しい言葉に、オレはひたすらペコペコと頭を下げる。
塔矢のお母さんは、慌てて起きあがったせいで乱れたオレの毛布を綺麗に直して、オレの足にそっとかけてくれた。
オレが「あ、ありがとうございます」と言って見上げると、塔矢のお母さんはニッコリと優しく微笑んだ。
オレは塔矢のお母さんが好きだった。
塔矢によく似た──美人で優しいお母さん。
だからいつも塔矢のお母さんと話す時は少し緊張した。でも塔矢のお母さんは、そんなオレをとても可愛がってくれた。
そして──その横に静かに立つ、塔矢先生。
オレに石を持たせてくれた人。アイツが追い求めた相手。
神の一手を求めて、いつまでも碁を打ち続ける強い人。
そんな塔矢先生が、そっと静かに口を開く。
「今日、韓国から帰ってきてね。先程棋院に行って、キミのことを聞いたんだ。
……驚いてしまってね、その足でここへ来てしまった。突然、すまなかったね」
「い、いいえ! そんな…、ありがとうございます」
「それで、お加減はいかがなの? 進藤くん」
塔矢先生の言葉にひたすら恐縮しているオレに、塔矢のお母さんが心配そうな顔でオレを見つめながらそう尋ねた。
……そうか。棋院も、そして塔矢も先生たちには何も言っていないんだな。
どうしようか。
本当のことを言ったら、先生とおばさんをすごく心配させてしまうかもしれない。
──でも。
この人達は、あの塔矢アキラのお父さんとお母さんだ。
オレの嘘を見抜けないはずがないし──そうだ、オレはこの人達に謝らなければならないことがあるんだ。
そう思ったオレは、心配そうな顔でオレを見る先生とおばさんを真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「先生とおばさんには、嘘、つきたくないから。本当のことを言います」
「………」
「オレ、実は子供の頃から抱えていた病気があって…
一時は治っていたんだけど、またそれが…えーと、再発…しちゃって。
それで、ちょっとあまり良くなくて…」
「………」
「多分、あと…ちょっとしか生きられない……と思います」
最後まで先生たちを見つめて話すことが出来なくて、オレはいつの間にか俯いて手元の毛布を握りしめていた。
何だかあまり上手く説明できなかったけど、先生たち、わかってくれたかな。
オレは恐る恐る顔を上げて先生たちを見ると──先生もおばさんも、オレの話したことをどう受け入れたらいいのかわからないといった表情で、固まったままオレの顔をジッと見つめていた。
うわあどうしよう、とオレが目を泳がせていると、塔矢のお母さんがいつもの明るい声ではなく、少しだけ震えた声でオレに静かに尋ねた。
「………あと……ちょっと…って?」
「え…と、多分…あと2、3ヶ月くらい…」
オレがしどろもどろとそう言うと、塔矢のお母さんは静かに目を見開いて口元を手で押さえる。
ああ、やっぱり驚かせちゃったな。オレ、おばさんのこと好きだったのに。こんな風に傷つけたくなかったのに。
おばさん、ごめんなさい。
おばさんの顔をとても見ていられなくて、オレが再び俯いてしまうと、今度は塔矢先生が──いつもと変わらない静かな落ち着いた声で、オレに向かって話しかけた。
「……アキラは、そのことは?」
「知ってます。毎日来てくれてますし…。…あの、ごめんなさい!」
オレはそう言って、ベッドの上で額が毛布に擦り付いてしまう程に深々と頭を下げた。
そしてゆっくりと頭を上げて、先生とおばさんに向かって謝罪の言葉を続ける。
「オレのせいで、塔矢を傷つけてしまいました。
多分、今、塔矢、すごく苦しんでて……本当にごめんなさい。
先生とおばさんの、大切な子供なのに。本当にごめんなさい。」
傷つけたくなかった。
大切な誰かを失ってしまう悲しみと苦しみを、オレは誰よりも知っていたから。
なのに、結局オレは塔矢から離れることが出来なかった。好きになってしまった。
塔矢がこうして苦しむのを知っていて、オレはそうしてしまったのだ。
オレの大好きな塔矢先生と、塔矢のお母さんの、大切な大切な子供なのに。
いくら謝っても許されないかもしれない。
でも謝らずにはいられなかった。
オレは再び深々と下げた頭をとてもあげることが出来ず、頭を下げたまま「ごめんなさい」と何回も繰り返していた。
──すると。
そんなオレの頭に、そっと優しい温もりが触れる。
その温もりは、優しく優しく何度もオレの頭を撫で続けた。
オレはその温もりを確かめるために、そっと顔を上げる。
すると塔矢のお母さんがいつもと変わらない優しい笑顔で、オレの頭を静かに何度も撫でてくれていた。
オレが「おばさん…」と思わず呼び掛けると、塔矢のお母さんは頭を撫でながら優しい声でオレに語りかけた。
「そうだったの……。進藤くん、よく頑張ったわね。
本当に、よく頑張ったわね。偉かったわね。
アキラは、あなたを好きになれて幸せね」
おばさんはそうオレに言い終えると、おばさんの──塔矢によく似た、黒くて綺麗な瞳からポロリと涙を零した。
一度零れてしまったそれは、堰を切ったように次から次へとおばさんの頬を濡らし、そんな自分に慌てたおばさんは「ごめんなさいね」と言って、涙を必死に押さえながら病室から出ていってしまった。
優しい優しい塔矢のお母さんは、きっと、自分の涙でオレが傷ついてしまうと思ったのかもしれない。
……おばさん、ごめんなさい。
塔矢のお母さんが出ていってしまった病室には、オレと塔矢先生が残されていた。
オレは塔矢先生をそっと見上げる。
先生はいつもと変わらない静かで穏やかな表情をしており、オレと目が合うと、フ、と静かに微笑んで「座ってもいいかね?」と尋ねた。
そんな先生の言葉にオレは慌てて「どっ、どうぞ!」と言うと、塔矢先生はベッドのすぐ隣にある椅子に腰を下ろし、ベッドに座るオレより僅かに下の位置からオレの顔をジッと見つめた。
塔矢先生の、目。
この世界でただ一人──オレとアイツの繋がりを知っている、塔矢先生の、目。
この目に見つめられると、オレの中の全てが見透かされてしまいそうだった。
だから、オレは先生には嘘はつけない。
先生にだけは、本当のことしか言えないんだ。
「あの…先生」
「うん?」
「あの……オレ、先生に言っておかないといけないことがあります」
「なんだい?」
「……saiのことです」
先生はオレの口からアイツの名を聞いても、穏やかな表情を崩さなかった。
静かな深い瞳でオレを見つめ続け、無言のままオレに言葉を続けるように促した。
「実は、アイツももういないんです。
だから、アイツと先生を打たせてあげることは、もう出来ないんです」
「………」
「言うのが遅くなって、ごめんなさい」
オレはもう一度頭を下げる。
そうして顔を上げて、先生を見つめる。
だが先生はやはり穏やかな表情のままだった。
……不思議な気分だな。
アイツの話を聞いても、こんな風に何も問い詰めたりせずに静かに聞いてくれるのって、きっと世界中を探しても塔矢先生だけだと思う。
本当に不思議で、そしてとても穏やかで優しい気分。
そう、まるでアイツといた時のような──そんな穏やかな気分だった。
アイツといた時のような──
「……アイツ、先生と打てて喜んでました。
きっとアイツは、先生とあの一局を打つために今まで……長い間、生きてきたんだって…思いました」
「……私と打つために」
先生は静かな声で、そう呟いた。
その声はとても深くて、そして優しい声だった。
そうして先生は──アイツとの一局を頭の中で思い出しているのかもしれない──暫くの間、ジッと黙っていた。
そんな先生の横で、オレもあの一局を思い描く。
アイツのすべてをかけた、あの一局。
アイツはきっと、先生とあの一局を打つために千年もの時を越えて──囲碁を打ち続けてきたんだ。
たった一人の誰かと、すべてをかけて打つ碁。
このために自分は生まれて生きてきたのだ──そんな風に思えるような碁。
アイツは先生とそんな碁を打って、そんな碁をオレに残して──……そして消えていった。
オレは。
もうすぐ消えてしまう、オレは。
「……ねえ、先生」
「……うん?」
「先生は、そういう碁って打ったことがありますか?
『この人とこの一局を打つために生きてきたんだ』って思えるような碁を」
「………」
先生は黙ったままオレを見つめる。
オレは先生の背後に広がる窓の外の大きな青空を見つめながら、言葉を続ける。
「オレは…まだ、ありません。打ちたいのに。
そんな一局が打てれば、オレはきっと『目的』が果たせるのに」
「………」
「……打ちたいな。
このために生きてきたんだ…って思えるような碁が打ちたい」
オレはもう一度、光に向かって手を伸ばす。
たった一人の人と、この一局ために生まれて、そしてその一手を打つためだけに生きて。
そして。
「ねえ、先生。
オレは、何のために死んでいくのかな」
白い雲から漏れる光が、サアッと病室を照らす。
オレと先生を照らす。
──静かだ。
こんな静かで穏やかな気持ちになったのは、入院して以来初めてだ。
静かなオレの気持ちから自然に零れ出た言葉。
そんなオレの言葉を聞いて暫く黙っていた先生は、オレを変わらぬ穏やかな表情で真っ直ぐに見つめながら、口を開いた。
「……以前、私が引退する時…キミに話したことがあったね」
「………」
「この身がある幸福…たとえ棋士という肩書きがなくとも、この身があれば碁は打てるのだと」
「……はい」
オレが静かに頷くと、先生は僅かに遠くを見つめるような表情になって、再び言葉を続ける。
「それから私は海外で様々な人たちと囲碁を打つようになった。
様々な人と出会った。
囲碁の才能に満ち満ちた子供。才能の限界に喘ぎながらも突き進んでいく者。
新たな挑戦者を待つ者。それに挑んでいく者。
……皆様々な環境の中で囲碁を打っている」
「………」
「そんな彼らに共通することは一つだ」
「………」
「同じ、『囲碁』という道を歩んでいるのだ、と」
「──『囲碁』という道」
先生の言葉を、思わずオレは繰り返してしまう。
先生はそんなオレの顔を見つめると、小さく笑った。
「もちろん、この私も。アキラや緒方くん、……それからsai。
そしてもちろん、キミも。
私たちは皆同じ、『囲碁』という道を歩んでいる」
「……オレも」
「その道は、一つに繋がっているのだと思う。
そしてかつては、あの本因坊秀策も同じ道を歩んで、……そして死んでいった」
「……秀策、も」
「だが『囲碁』の道において、本因坊秀策は消えてはいない。
今も我々、歩んでいる者たちの中で生き続けているだろう?」
──そう。
秀策は、アイツと共に囲碁を打ち続けた秀策は、今もオレの中で生き続けている。
秀策が残してくれたたくさんの棋譜は、オレの中で決して消えない明るい光を放ち続けているのだ。
そして。
「……saiもそうだ。
彼もまた、私の中で──そしてキミの中でも生き続けている」
「──……」
「この囲碁の道に終わりはない。
そう思った時、私は悟った。たとえこの身がなくなったとしても私の囲碁は消えはしないのだ、と」
「この身がなくとも、囲碁があれば私たちは生き続けられる。……永遠に」
「進藤くん」
「キミが死んでゆくのは──『進藤ヒカルの碁』を残すため──ではないかな」
「キミがこの世に生まれて、そして残してきた一局一局にはすべて意味がある。
囲碁の道に残る一局として。
そしてそれは、いつまでも消えることなく残り続ける」
「私の中に。……アキラの中に」
「だから、最後まで後悔のないように──生きなさい」
先生は終始穏やかな声でそう話し終えると、先程塔矢のお母さんがしてくれたのと同じように、オレの頭を優しく撫でてくれた。
──そのオレの頭を撫でてくれた先生の手は、本当に大きくて、温かくて。
その温もりを感じた瞬間、オレの目から涙がポロポロと零れた。
もしもアイツがオレに触れることが出来ていたら──アイツの手の温もりは、きっと塔矢先生とよく似ていたんじゃないのかな。
先生に頭を撫でてもらいながら、オレは頭の片隅でボンヤリとそんなことを思って、嬉しいような悲しいような、酷く懐かしい気持ちになって、ますます涙がポロポロと零れて泣き続けた。
先生は、そんなオレの傍に黙ったままいてくれた。
先生、どうもありがとう。
……そしてごめんなさい。
オレが今出来ること──それは後悔のないように生きること。
そのために、オレがしなければならないことは。
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