11-7





塔矢先生と塔矢のお母さんが帰った後の病室で、オレはベッドに横になったまま、頭の中で塔矢先生の言葉を何度も何度も繰り返していた。












『キミが死んでゆくのは──『進藤ヒカルの碁』を残すため──ではないかな』


『だから、最後まで後悔のないように──生きなさい』















ふと、窓の外を見る。
冬の夕暮れ時は早い。時計は4時を回ったばかりだというのに、太陽はすでに西へと傾いて病室の中にオレンジ色の光を射し込んでいた。


──日が暮れていく。
今日という一日が終わる。
オレに残されている時間は、こうして日が沈んでいく度に少しずつ減っていく。


オレが生きていられる時間は──もうあと僅かしかないだろう。
僅かな時間しかないからこそ一秒だって無駄になんかしたくない。
「死にたくない」と後を向くのではなくて、最後まで前を向いて後悔のないように生きたい。
後悔のないように最後まで生きて、『進藤ヒカルの碁』を囲碁の道に残したい。




──虎次郎のように。
──アイツのように。











そのためにオレが今出来ることは、しなければならないことは、何だろう?












沈んでいく日を見ながら、オレはずっとそのことばかりを考えていた。
すると、トントンと小さく扉が叩かれる音が聞こえた。

こんな時間に誰だろう?

不思議に思いながらも、オレはベッドから少しだけ身を起こして「ハイ」と返事をした。
そうして開かれた扉の向こうに立っていたのは──顔も名前もよく知っているけれど、オレにとってはあまり馴染みのない──そして塔矢にとっては酷く馴染みのあるであろう顔が、些か緊張した面持ちで立っていた。



「や……やあ」
「──芦原先生」




そう、その緊張した顔の持ち主とは芦原先生だった。
芦原先生とは塔矢先生の直弟子で、塔矢にとっては兄弟子に当たる。
塔矢先生を筆頭に緒方先生や塔矢といった緊張感の漂う塔矢門下の中で、唯一穏やかな空気を纏っている人だった。
やたらと塔矢門下をライバル視している森下先生の手前、和谷や冴木さんも塔矢門下とは一線を置くようにしているみたいだったけど、芦原先生はそういったことは一切お構いなしに誰にでも気さくに声を掛けた。オレ自身も実際に公式で対局をしたことがあったし、昼休みに何度か言葉を交わしたこともあった。

塔矢にとってはかなり近しい兄弟子に当たるせいか、塔矢は家でもオレによく芦原先生の話をした。
今日も懲りずに談合(塔矢の言うところの合コンのことらしい)に行ったみたいだ、とか。新しく出来た6人目の彼女もどうせ3ヶ月くらいで別れるだろう、とか。小さい頃から一緒に遊んでもらって、同年代ではないけど唯一「友達」といえる存在だった、とか。ちょっと頼りなくて抜けているところもあるけれど、あの明るさと優しさには何度も助けられているんだ──とか。
芦原先生の話をする時の塔矢はとても穏やかで明るい表情をしており、楽しそうだった。
塔矢から芦原先生の話を聞く度に、きっと塔矢にとって芦原先生はすごく大切で大好きな人なんだろうなあ、とオレは思っていたのだ。



──その芦原先生が、今オレの目の前に立っている。



確かにオレは塔矢から聞く芦原先生のことはよく知っているけど、芦原先生自身とはそれ程親しい間柄じゃない。
あくまでも間に塔矢を通した上での関係だ。そんな芦原先生が、たった一人でオレのお見舞いに来るだなんて……。

オレはさぞ不思議そうな顔をして芦原先生を見上げていたのだろう。
芦原先生はそんなオレの顔を見て、「そ、そんなにビックリした顔で見ないでよ」と頭を掻きながら言った。


「えっ…えーと……し、進藤くん、具合はどう?」
「あ…えと…まあまあ…です」
「あっ、あのね! アキラからキミのこと聞いていて…その、心配してたんだよ!
 で、その…ちょっと時間が出来て、近くまで来たもんだから、そのお見舞いでもって思って、その…」
「………」
「………」

お互いがお互いの考えを探り合っているような何だか奇妙な空気が流れる中、オレと芦原先生はしどろもどろとしながら会話を続けた。
芦原先生が何度も言葉に躓きながら喋っている間、ずっと手の中でゴソゴソと弄っているモノにオレは自然と目線を移す。
そんなオレの目線に気が付いた芦原先生は、自分の手元を見て「あっ!」と大きな声を上げた。

「ゴ、ゴメン進藤くん、コレ…お見舞いのお花! わ、渡すの忘れてた!」
「………」
「ホラ……その進藤くんって黄色い色が似合うイメージがあって、その、キレイでしょ!?
 バラとか、マーガレットとか、ホラ!
 あ、これ花瓶とか入れなくて大丈夫だから! この籠のままどこかに置いてもらって…」

黄色い綺麗な花籠を抱えたままアワアワと動き回る芦原先生に、オレは可笑しくなって、ついにプッと吹き出してしまった。
笑い出したオレを見て、芦原先生は動きを止める。オレはそんな芦原先生に向かって「そんなに気、使わなくていいのに」と言いながら手を伸ばした。
芦原先生は伸ばされたオレの手に、そっと小さな花籠を乗せてくれる。
黄色い花が集められたその花籠は本当に可愛らしくて綺麗で、花のいい香りがした。

「……キレイ。どうもありがとうございます」
「え…あ、うん。じゃあ、ここ…テーブルに…置いておくね」
「ハイ。どうぞ、座ってください」
「あ、うん。うん」

オレから受け取った花籠をテーブルに飾ってくれた芦原先生は、オレに座るように促されて緊張した動きのままぎこちなく腰を下ろした。
オレはベッドの上に座ったまま、そんな芦原先生をジッと見つめる。
芦原先生はオレの方を見ようとせず、黙ったままギュッと両方の拳を握って俯いてい
た。
その額には冬場だというのに──一筋の汗が流れて落ちていった。






……──何かあったのかな。








「塔矢に何かあったんですか」
「……え?」
「塔矢のことで、何か話があって来たんじゃないのかなって」
「…………」
「芦原先生」


オレは少しだけ力を込めて芦原先生の名を呼ぶ。
芦原先生がたった一人で、しかもこんなに緊張しながらオレに会いに来るだんて、絶対に何かあったに違いない。
オレと芦原先生を結ぶ人──塔矢に何かあったに違いなかった。

芦原先生は多分塔矢のことで話があって、オレの元へと来たんだ。

オレはもう一度力を込めて、芦原先生の名を呼んだ。





「芦原先生」
「──……」





オレのその声に、芦原先生は観念したかのようにフウと大きく息をつく。
そして俯いていた顔をゆっくりと上げて、いつもの穏やかで明るい表情とは違う、真剣な瞳でオレのことを見つめながら口を開いた。


「……今日、僕、棋院で仕事の打ち合わせがあったんだ。
 最上階の会議室で打ち合わせをしてた。……役員室の隣の会議室、知ってるだろ?」
「はい」
「そうしたら、隣の役員室から突然大きな声が聞こえてきたんだ。
 ……その声の中には、オレがよく知っている声も混ざっていた」
「………」
「アキラの声だった」


沈みかけた太陽のオレンジ色の光が、芦原先生とオレを照らす。
ちょうど光を背に受ける位置に座っている芦原先生の表情は、逆光のせいか僅かに暗く、そして酷く真剣な表情に見えた。
そう──まるで対局中のような。そんな表情で、芦原先生は言葉を続ける。


「……何でも、今度韓国で新しい国際棋戦が始まるらしいんだ。
 プロだとかアマだとか関係なく、世界中から囲碁の強い棋士たちを集めて、
 その中で一番を決めようっていう大会らしい」
「……一番、強いヤツを」
「そう。キミも北斗杯とかで何度か戦っている、あの高永夏や洪秀英も参加するって」
「永夏たちも……」




「……それに、塔矢先生も。塔矢先生も参加するって聞いた」












──塔矢先生が。














知らなかった。そんな棋戦が開かれるなんて。



プロもアマも関係なく、世界で一番囲碁の強いヤツを決める戦い──



世界中から色んな棋士が集まってきて大勢で囲碁を打ち、誰が一番強いのかを決めるのだ。
そしてそれに、永夏や秀英、それから塔矢先生も参加するという。

そう考えた瞬間に、オレは身体の奥底がドキンと音を立てたのを感じた。
そのドキドキは、次第に熱を持って身体の奥からドンドンと沸き上がってくる。



……何だろう、この気持ち。随分と長い間感じていなかったこの気持ち。


ドキドキと音を立てる鼓動。熱くなっていく頬。ウズウズと疼く右手。
そして頭の奥の方で、パチッと小気味のいい音が響く。





──ああ、これは石が打たれる音だ。
もう随分と長い間聞いていなかった、石の音──




ああ、そうだ。この気持ちは対局する前の気持ちだ。
緊張。不安。怒り。喜び。
あの様々な感情が複雑に入り混じる、対局前のあの気持ち。



忘れかけていた、あの気持ち。





































ああ、打ちたい。
囲碁が打ちたい。






囲碁が打ちたいよ──








































久しぶりに自分の頭の中で石の音を聞いたオレは、興奮していく気持ちを止めることが出来なかった。
オレがその国際棋戦に出られるワケじゃない。
それなのに何だかもの凄く嬉しくなって、ワクワクとした気持ちが身体の奥底から次々と溢れ出てくるのを感じていた。

ああ、そんな凄い棋戦が開かれるだなんて。
同じ『囲碁』という道を歩んでいる人達が、世界中から集まってくるだなんて。
想像しただけでワクワクする。
塔矢先生はどんな一手を打つのだろう。
永夏や秀英は、どんな棋譜を残してくれるのだろう。

そして塔矢は。塔矢はそこで一体どんな碁を打つのだろう。

ああ、見たい。見たいよ。

オレはたとえ参加出来なくても、塔矢の対局が見たい。塔矢の光り輝く一手が見たいよ──




オレはそんなことを考えながらワクワクとした表情を浮かべて芦原先生を見る。
だが芦原先生の表情は、そんなオレの表情とは裏腹に──未だに緊張を帯びた表情を崩していなかった。
オレは不思議に思って芦原先生をジッと見つめる。すると、芦原先生は俯きながら、
徐に口を開いた。



「……その……役員室での話ってのは…もちろんアキラが参加の打診をされている話だった」
「………」
「だけど……アキラ……アキラのヤツ、断ったんだ。参加することを断ったんだよ」



──断った? 塔矢が? 何故……



オレがその理由を問うよりも早く、芦原先生の言葉が続けられた。







「漸くアキラの夢が叶うかもしれないのに。それなのに、アキラ、断ったんだ」












………塔矢の、夢?













オレは目を見開いて芦原先生を見つめる。

塔矢の、夢。

──初めて聞く話だ。塔矢の、夢。
プロ棋士になること? 名人になること? それらをすべて順調に果たしてきたかのように見えていた塔矢の、本当の夢。
塔矢からそんな話を一度も聞いたことのないオレは言葉を返すことが出来ず、驚いた表情のままジッと芦原先生を見つめた。
芦原先生は俯かせていた顔を僅かに上げて、ゆっくりと口を開いて語り出す。

オレの知らない、塔矢を。



「……アキラ、さ。僕、アキラが小学生くらいの頃から知ってるんだよ。
 もちろん、キミと出会った時のことだって知ってる」
「………」
「囲碁の腕では全然キミには叶わないけど…
 僕はアキラのことを一番長い間、そして誰よりも一番近くでアキラを見てきた。
 キミよりも」
「………」
「そんなアキラの小さい頃からの夢はね、
 プロになって、お父さんである塔矢先生と戦うことだったんだ」
「………」
「父と子、ではなくて棋士として」



塔矢の、夢。

それは塔矢先生と戦うこと。
父と子ではなく、師匠と弟子ではなく。一人のプロ棋士として塔矢行洋に挑むことだった。

2歳から塔矢先生に碁を教わってきたという塔矢。
塔矢は小さい頃から囲碁を打つ塔矢先生の背中を追いかけ続けてきたに違いない。
そんな塔矢先生に──自分がずっと目標としてきた人に──息子でも弟子でもなく、棋士として挑んでみたいと願うのは当然のことだった。

……──そうか。
塔矢にはそんな夢があったんだな。


初めて聞く塔矢の話に、オレは心の底から感心して深く頷く。
それと同時に、先程の疑問が再び頭を擡げる。

……じゃあ、何で国際棋戦の参加を断ったのだろう?
塔矢先生と戦えるかもしれない、チャンスじゃないか。


オレは芦原先生の顔を見上げる。芦原先生は俯いたまま握っていた拳にさらに力を込めて、そして再び口を開く。



「アキラがプロになってから……塔矢先生はすぐに引退しちゃっただろう?
 だからアキラのその夢は今まで叶えられることはなかった」
「………」
「そのことをアキラに聞いたら「仕方がないことだから」って言ってた。
 でも絶対悔しかったはずなんだ! 誰よりも、誰よりも塔矢先生と戦いたかったのはアキラなんだ!
 悔しくないはず、ないんだ!」
「………」
「……その諦めていたはずのチャンスが、長い年月を経て、漸くアキラに訪れたんだ。
 公式の場で、塔矢先生と──棋士として塔矢先生と戦えるチャンスなんだ」



そう言って芦原先生は、俯いていた顔を上げる。
そして真剣な瞳で、真っ直ぐにオレを見据える。

オレンジ色の夕陽が射す病室に、芦原先生の真剣な声が静かに響いていく。



















「それなのに、アキラは断った。夢が叶うかもしれないチャンスを捨てたんだ。
 『今、僕には他にやらなければならないことがあるんです』と言って」


















そう言った後、芦原先生は意志の強い瞳でジッとオレのことを見つめた。
芦原先生に見つめられたオレは──頭の中で芦原先生の言葉を反芻する。

オレンジ色の光が明るく病室を照らす。オレと芦原先生を照らす。
芦原先生の影が、オレの白い毛布の上に濃い影を落としていた。
光だけが音もなく動き、シンとした静粛がオレと芦原先生を包む。









──芦原先生は全てを言わなかった。
『他にやらなければならないことがある』と言った塔矢の言葉をオレに伝えた後、何も言わずにただただ、ジッとオレのことを見つめた。






その後に続く言葉を、オレは聞く必要はなかった。全てを芦原先生から聞く必要なんてなかった。
だってオレはわかってしまったから。







『他にやらなければならないことがある』──そう言った優しい優しい塔矢の思いが、オレは一瞬にしてわかってしまったから。













































『他にやらなければならないこと』──それは、オレの傍にいるということ。
















































残り少ない時間を過ごそうとしているオレの傍にいるということ。










































































オレの傍にいるために、塔矢は捨てようとしているのだ。

自分の夢を。































































オレがそんな塔矢へと思いを馳せていた時──突然ガタリと大きな音がして、オレは驚いて顔を上げる。
すると、先程まで座っていたはずの芦原さんが真剣な顔のまま立ち上がっていて、オレをジッと見つめていた。
オレがそんな芦原さんの様子に驚いて声を掛けようとした瞬間、芦原先生は今度は突然勢いよくその場の床に膝をついて腰を下ろしたのだ。
そしてその勢いのまま、風を切る音が聞こえてくるのではないかというくらいの早さで、芦原さんは床に自分の額を擦りつけた。

そう、それはいわゆる「土下座」というヤツで。

突然オレの目の前で土下座をする芦原先生に驚いてしまったオレは、ベッドの上から「あ、芦原先生」と声を掛ける。
だがオレの声を聞いても芦原先生は顔を上げようとせず、その土下座の姿勢のまま突然大きな声を張り上げた。


──とてもとても強い意志と、塔矢への想いを込めた声で。










































「どうか!! 
 どうか、アキラに夢を叶えさせてやってくれないか!!」




























































芦原先生はそう叫んだ後、顔を上げてオレを見る。
その目は夕陽の光を浴びて潤むように光り、張り上げられた声は力が込められた必死さ故に震えていた。

そして芦原先生は土下座の姿勢のままオレを真っ直ぐに見据え、震える声を再び張り上げた。









「キミから…進藤くんから棋戦に参加するように言ってくれれば、アキラも考え直すと思うんだ…!」


「こんなっ……こんなことをキミに頼むだなんて……
 間違っているのは分かっているし、残酷なことを僕は言っているのだと思う。
 キミにもアキラにも余計なお節介だって…それも重々承知している」


「でも僕は、僕は小さい頃からアキラを見てきた!!
 アキラはずっとお父さんを尊敬してきた。プロになって、お父さんと打つことがアキラの夢だった。
 漸くそのチャンスがアキラに訪れたんだ! でもアイツはそのチャンスをふいにしようとしている」


「アキラは多分、僕がキミにこんなことを頼んだことを知ったら、怒ると思う。
 ……そして、二度と僕を許しはしないだろう。キミにも、きっと恨まれると思う」























「でも、そうなったっていい!!」








































































「僕は叶えてほしいんだ、アキラに夢を!!」





































































「どうか……どうか、頼む……! お願いします…!」




芦原先生はそう叫んだ後、再び頭を床へと擦りつけた。
そしてそのままの姿勢で、何度も何度も「お願いします…!」と叫び続けた。































































──ねえ、塔矢。




お前のことで、こんなにも必死になってくれている人がいるよ。
オレやお前に恨まれてもいいんだって。


それでも、お前に夢を叶えてほしいんだって。




すごいね。






芦原さんはお前が小さい頃からずっと傍にいてくれて、ずっとお前のことを見守ってきてくれて。
そしてお前のことが本当に大切で、本当に大好きなんだね。







芦原先生のお前への気持ちを聞いていたら──涙が出て来ちゃったよ。








嬉しくて。本当に嬉しくて。


























ねえ、塔矢。
お前は一人じゃないよ。


お前の傍にいるのは、オレ一人なんかじゃないよ。


塔矢先生も。お前のお母さんも。そして芦原先生も。
本当に本当にお前のことを愛していて、こんなにもお前の傍にいるんだよ。




みんなみんな、お前のことが大好きなんだよ。




























ねえ、塔矢。

大好きな塔矢。



























































後悔なく、最後まで生きるために。



オレが今、お前にしてやれることって何だろう。