11-8








芦原先生が帰った後、日は完全に沈んで夜になり──月が静かに病室を照らしていた。
オレは部屋の灯りを消して月明かりを浴びながらベッドの上に座り、ひたすら考え続けていた。














『最後まで後悔のないように──生きなさい』




『アキラに夢を叶えさせてやってくれないか!』















そのために、オレが出来ることは。























──その時。
ふと背後に気配を感じて、オレは真っ暗な病室の中で振り返った。

すると閉じられていたはずの扉がいつの間にか開いており、人影が音もなく立っているのが見えた。
驚いたオレは「だ、誰!?」と声を上げる。
するとその立っていた人影はゆっくりと動いて病室の中に入り、オレの方へと向かって来る。
部屋が暗いせいか顔がハッキリと見えず、オレが思わず身構えていると──その人影は「ゴホン」と咳払いをした後に、聞き覚えのある嗄れた声でオレに話しかけた。



「まったく、このワシを忘れるとはイイ度胸じゃの」
「………く、桑原先生!?」




そう、その人影の正体とは──日本棋院の最長老、桑原先生だった。
桑原先生は現役で活躍しているプロの中でも、棋士歴50年という最長を誇る大ベテランの棋士だ。

──そして、現・本因坊。

桑原先生が本因坊を獲得してから、すでに20年近い年月が経過していると聞いたことがある。──まさに「囲碁の鬼」ともいうべき人。
この移り変わりの激しい碁界の中で、これ程までに長きに渡って一つのタイトルを保持し続けることは並大抵のことじゃない。
現在三冠を保持し最強と言われている緒方さんですら、本因坊戦にはすでに三連敗を喫している。
オレも桑原先生とは公式で一度だけ戦ったことがあったけど──いいように翻弄されて、全く敵わないまま負けてしまった。

それ程までに凄い棋士である、桑原先生。

そんな桑原先生は何故かオレが入段した時から、何かとオレのことを目にかけてくれていた。
塔矢先生との新初段シリーズにはわざわざオレの対局を見に来てくれたというし、棋院で会うといつも声をかけてくれた。
オレの棋譜も時々見てくれているらしく、「この前の対局はなかなか良かったの」
「あの一手は明らかな失着じゃ。この阿呆」などと声をかけてくれることも多かった。

──そんな桑原先生が、規定の面会時間も終わったというのに、突然オレの病室に現れたのだ。
オレは突然の桑原先生の来訪に、「お、驚かさないでよ!」と思わず怒ると、桑原先生は「お前のシックスセンスもまだまだじゃな」などと、よくわからないことを言って笑った。

そして桑原先生はズンズンと病室の奥まで入り、オレが勧める前にベッドのすぐ横にある椅子にドカリと音を立てて座った。
オレはそんな桑原先生にドギマギとしながら部屋の灯りを点けようとすると、桑原先生は「灯りなんぞいらんわい」と言ってオレを制した。
そして椅子に座ったままゆっくりと背後にある窓を振り返り、夜空に浮かぶ月を見上げる。
オレもそんな桑原先生の動きにつられるようにして、窓の外の白い月を見上げた。



「ほほ〜〜、今晩はまた見事な月じゃな」
「……うん」
「まるで白石のように真ん丸とキレイな月じゃ」



桑原先生はそう言ってオレを見ると、ニヤリと笑う。
今日は綺麗な満月だった。夜空にぽっかりと浮かぶ白い月は、確かに碁盤の上に置かれた白石のように見えた。



「ボウズ、碁盤と碁石はないのか?」
「……ないよ。先生やお母さんが、まだ碁は打っちゃダメだって。
 碁、打つと気力の消耗が激しいし…。もう少し体力が戻ってからだ、って…」
「ふーん、ツマランの。この見事な月夜に一局打ってやろうかと思ったのに」
「ご、ごめんなさい」



フン、という桑原先生にオレは思わずベッドの上で頭を下げて謝る。

……──碁盤と、碁石か。
もう随分と長いこと触っていないし、姿すら見ていなかった。

オレはそんなことを思いながら、もう一度夜空に浮かぶ白石のような満月を見上げる。
そんなオレを見ながら桑原先生はもう一度フン、と鼻を鳴らして口を開いた。



「それで? お前は平気なのか?」
「……まあ、まだなんとか生きてるけど…」
「お前の身体のことなんか聞いとりゃせん。
 お前は囲碁を打たずに過ごしていて平気なのか、と聞いてるんじゃ」



桑原先生の言葉に、オレは思わず月に向けていた視線を桑原先生へと移す。
桑原先生はそんなオレにはまるで意に介さず、耳の穴を穿ってはフッと息を吹きかけたりしていた。






──囲碁を打たなくて、平気……?







いや、平気なんかじゃない。
打てるものなら、今すぐにでも打ちたい。
……でも打つことは出来ない。

矢部先生に止められているのもあるし、実際に気力を激しく使う囲碁は今のオレの身体には厳しかった。
何よりもオレが無理をして囲碁を打とうとすると、お母さんが悲しんだ。
もうこれ以上お母さんを悲しませたくないオレは、とてもそんな我が儘を言うことなど出来なかった。



……でも、やっぱり打ちたいな。
先程の韓国で行われるという国際棋戦の話を聞いてから、オレの中の「打ちたい」という想いは膨らんでいく一方だった。




打ちたい。
囲碁が打ちたい。


オレはやっぱり、囲碁が打ちたいよ。







桑原先生の言葉を聞いてますますその想いを募らせてしまったオレは、相反する想いに挟まれて何も言葉を返せず、ただ毛布をギュッと握りしめることしか出来なかった。
桑原先生はそんなオレをジッと見つめるとフーッと大きく息をついて、再び口を開いた。


「今日はな、お前に抗議をしようと思って来たんじゃ」
「……抗議?」



桑原先生の言葉にオレは首を傾げる。
桑原先生はそんなオレを見てニヤリと笑うと、言葉を続けた。


「出版部の天野。いるじゃろ、あの小太りのヒゲメガネ」
「…ハ、ハイ」
「アイツがな、久々にワシのところに来てな。取材かと思ったら、仕事の依頼だと。
 秀策全集の、お前が残している部分の執筆を、お前の代わりに書けとぬかしおっての」
「……え」


オレが最後までやり遂げることが出来なかった、秀策全集の執筆の仕事。
秀策が晩年の頃に残した棋譜数本を、オレは書ききることが出来ないまま手を引くことになってしまったのだ。
そういえばこの前、天野さんがお見舞いに来てくれた時に「続きは他の人に執筆してもらうから、チェックだけしてくれないか」だなんて言ってたっけ。
その「他の人」が、まさか現在の本因坊である桑原先生だったなんて。
驚いたオレはチラリと桑原先生の顔を伺うと、桑原先生は案の定ムッとした顔をしてオレのことを睨んでいた。


「なんでワシが、と言ったら『大丈夫です、進藤先生にチェックしてもらいますから』などと言いおっての。
 無礼にも程があるじゃろ。
 天下の本因坊を前にして何をぬかす、この阿呆が! と追い返してやったわい」

そう言って桑原先生は胸元から扇子を取り出してバッと開き、自分を仰ぎながらガハハと高らかに笑った。
オレは話が話なだけにひたすら恐縮することしか出来ず、ベッドの上で小さく縮こまって「す…すみません」と呟いた。
するとそんなオレに向かって、桑原先生は仰いでいた扇子を閉じてビシッとオレのことを指差した。


「なぁーんで、このワシがお前の代わりなんぞやらないとならんのじゃ!
 冗談じゃないわい。自分のケツくらい自分で拭き取らんかい!」

「ハッ、ハイ!」


桑原先生の大きな声とその迫力にオレはベッドの上で思わず姿勢を正し、その勢いにつられるようにして「ハイ!」と返事をしてしまった。
そんな自分に後から気がついたオレは、口元を押さえて「あ」と言ったが時すでに遅し──桑原先生は「天野のヤツにはワシから伝えてやろう。ありがたく思えよ」と言って再びガハハと笑った。

そんな桑原先生を見ながらオレは、どうしようという気持ちもあったけれど、それ以上に「もう一度秀策の棋譜を検討することが出来る」という喜びの気持ちの方が勝っていた。
そしてオレは、ふとあることに気付く。


──桑原先生、もしかしてオレのために、ワザと……?


オレがそのことを確かめようとした時に、オレよりも早く桑原先生の方が口を開いた。

「それともう一つお前に言おうと思っていたことがあるんじゃ」
「は、はい」
「お前、本因坊リーグはどうした?」
「……へ?」

オレは思わず素っ頓狂な声を出して、桑原先生を見つめてしまう。
すると桑原先生は呆れるようにして大きな溜息をついて、オレのことをジロリと睨んだ。

「お前のちっぽけな脳味噌は棋戦のスケジュールも忘れおったのか、このたわけ!」
「え、あ、いや。わ、忘れてはいないけど…だって、オレ…」
「お前、予選を勝ち抜いてリーグ入りしておったろう。
 それはどうした? もう何局か進んでおるじゃろ」

桑原先生は、まるで棋院で話しているかのような調子でオレに話しかけてくる。
……桑原先生、まさかオレが休業しているのを忘れているワケじゃないよな。だってこうしてわざわざお見舞いに来てくれているくらいだし。

「だ、だって……オレ、去年の暮れから入院しちゃってるから…。
 今月からリーグ戦、始まってると思うけど……その…」
「打っとらんのか?」
「……ハイ」

気まずくなったオレは少し俯いて、下から窺うようにしながら桑原先生を見ると、桑原先生は心底呆れたというような顔をしながら盛大に溜息をついた。


「……ハ〜〜〜〜〜〜。情けないのぅ。
 お前はそれでも本因坊秀策の弟子か」


「……え」















──本因坊秀策の、弟子。
















桑原先生のその言葉を聞いた瞬間にオレの脳裏を過ぎったのは、虎次郎──つまり本因坊秀策と共にいた、そしてオレに囲碁を教えてくれたアイツの顔。
オレは思わず顔を上げて目を見開いてしまう。
すると桑原先生はそんなオレを、まるで「何もかもお見通しだぞ」と言わんばかりの顔で見て、ニヤリと笑った。


「どうじゃ、ワシのシックスセンスは大したモンじゃろ」
「──……」


オレは何も言葉を返すことが出来ず、ただ呆然と桑原先生を見つめる。
桑原先生はそんなオレを見据えて、先程までよりも僅かに低い声で話し始めた。


「本因坊の挑戦者になるには、お前はあと何局勝てばいいんじゃ?」
「…え? ええと…多分今、第一局が終了している段階で……誰が勝ったかどうかはわからないけど…。
 と、とにかくオレは不戦敗で一敗してて……。一番の強敵は多分緒方さんになると思うけど……。
 とりあえずはまだ第一局だから、緒方さんを含めて残り6局を全勝すれば、まだ可能性は……」

「ならば、勝てい」
「え」

桑原先生の一言に、オレは思わず聞き返してしまう。
すると桑原先生は椅子からガタリと音を立てて立ち上がると、窓の外に見える大きな白い満月を背負って、オレに向かって言葉を放つ。


「本因坊秀策に近づきたいんだろう、お前は。
 『神の一手』を打ちたいんだろう?」
「──……」
「そのお前が──挑戦者であるお前が本因坊から逃げてどうする」
「──……」










「このまま、お前の囲碁は終わるのか?
 本因坊秀策を超えねば、『神の一手』なぞ決して打てんぞ」










白い満月の明るい光が病室を照らす。
その光を背負って話す桑原先生──桑原本因坊の、目に見えるのではないかと思われる程の溢れ出る闘志は、月の光と入り混じり、まるで日本刀のように鋭い光を放っていた。
その光を間近で浴びたオレは──背筋がザワリと音を立てて粟立つのを感じた。

桑原本因坊はそんなオレを一睨みすると、クルリと背を向けて病室の出口までゆっくりと歩いていった。
オレは声を出すことも出来ずに、黙ったままその姿を目で追う。
すると桑原本因坊はドアの前でピタリと足を止め、ゆっくりとオレの方へと振り返った。

その時の桑原本因坊の目はいつもとまるで違う──そう、碁盤の前で本因坊の座を20数年に渡って守り続けてきた、まさに「囲碁の鬼」の目だった。
そして呆然としているオレに向かって「囲碁の鬼」はトドメとも言える最後の一言を放った。




























































「本因坊秀策の名が欲しければ、このワシのところまで這い上がってこい」















































































そう言い残して、桑原先生は病室を去っていった。











真っ暗な病室に一人取り残されたオレは、暫くの間ベッドに座ったまま動くことが出来なかった。
それからどれくらいの時間が過ぎたのだろう──ふと気が付くと、自分の右手がブルブルと震えていることに気が付いた。

──恐怖? いや違う。この感情は違う。
確かに桑原先生の迫力は凄まじいものがあったけれど、これは恐怖なんかじゃない。
あの「囲碁の鬼」──桑原本因坊に挑みたい、あの人と囲碁を打ちたい──これは、そう願う気持ちだ。

多分オレの脳がその感情を認識するよりも前に、ずっと石を持ち続けてきたオレの右手の方が先に反応を示してしまったのだろう。



震える右手が、オレ自身に訴え続ける。

















石を持ちたい。






打ちたい。






囲碁を打ちたい。

































打ちたい打ちたい打ちたい。















囲碁を、打ちたい。
























































オレは、囲碁を打ちたい。






























































その瞬間、身体の奥底がポッと光り、火が灯ったのがわかった。
すると今まで鉛を飲み込んでいたかのように重たかった身体が、ドンドンと軽くなっていった。
ボンヤリと霞んでいた頭の中が急激に冴えて目覚めていくのを感じる。
身体中に力が漲ってくる。

震えていた右手にも力が漲り、オレはグッと力を込めて右手を握りしめた。













──打てる。


オレはまだ打てる。


オレは、囲碁を打つんだ。





















ベッドの横に置いてあった卓上カレンダーと週刊碁に手を伸ばす。
週刊碁を勢いよく捲り続け、棋戦のスケジュールを確認する。


「本因坊リーグ 第2局」のスケジュール──……あった。


2月20日。
来週の火曜日だ。

来週の火曜──今からなら、まだあと5日ある。
今ならまだ間に合う。







オレはもう一度自分の右手を見つめる。
もう、右手は震えてなんかいない。
今はただひたすらに、石を持つ日を待ち望んでいるかのように見えた。























































後悔のないように最後まで生きるために、オレが出来ること。
それは、囲碁を打つことだった。

どんなに考えても、やっぱりオレには囲碁しかなかった。



囲碁しかなかったよ、塔矢。















オレが今、お前にしてやれること──それも「囲碁」しかないんだと思う。


『囲碁』という道に、『進藤ヒカルの碁』を残すこと。


それが多分オレ自身のために、そしてお前のためにしてやれる、最後のことなんだ。






















オレ達はやっぱり「囲碁」なんだよ、塔矢。


































だからオレは打つ。







最後まで、オレは打つ。















































打って打って、最後まで打ち抜いて。

















































































後悔のないように生きてやる。