12-10









鳥の囀りが耳元で響く。
瞼の上に当たる強い光に、深い眠りについていた意識が覚醒していく。



ゆっくりと目を開ける。
見慣れた天井。
窓から入り込む朝日が、部屋を明るく照らしていた。




……もう、朝か。


もう一度瞼を閉じて、深く深呼吸をする。
吸い込んだ朝の清々しい空気に、ぼんやりと霞んでいた頭の中がゆっくりと冴えていった。


そして。

















ガバッと音を立てて、僕は勢いよくベッドから起き上がった。
そして隣にあったはずの温もりを確認する。
──だがいくら布団の中を探っても、昨夜まであったはずの彼の姿はどこにもなかった。


ベッドから降りて布団を捲り上げても、彼の姿は見当たらない。
温もりすらなく、シーツのヒヤリとした感触だけが手に残った。












そんなバカな。
……僕は夢を見ていたのか?

いや、そんなバカなことがあってたまるか。
彼は確かにここにいた。僕の腕の中にいたんだ。

夜が終わって朝になって──まさか、朝日に溶けて消えてしまったとでもいうのか?






そんな事があってたまるか!





















「進藤!!」








































































「なんだよ」




僕が彼の名を叫びながら勢いよくリビングの扉を開けると──ベランダの傍の床に屈んでいた彼は、大きな目を丸くして僕を見つめた。
彼のすぐ横で朝ご飯を食べていた猫のアキラも、僕の大声にビクリと大きく体を震わせて動きを止める。

そんなアキラと同じように動きを止めてしまっている僕を見て、進藤はプッと吹き出した。



「おはよ」
「……お、はよう…」
「朝から騒がしいヤツだなーもー。な、アキラ」


進藤はクスクスと笑いながらそう言うと、アキラの頭を優しく撫でた。
アキラは気持ちよさそうにニャーと鳴くと、再びモグモグと餌を食べ始めた。

そんなアキラを優しい瞳で見つめながら、進藤は誰に言うとでもなく口を開いた。


「習慣ってスゴイよな。オレ、コイツに餌やるために毎朝7時半に起きてたじゃん。
 今日も勝手に目が覚めちゃったよ」
「………」
「身体って覚えてるモンなんだな」



そう言って進藤は、餌を食べ続けるアキラの頭を優しく撫でる。
そんな進藤を見つめながらも、僕の頭は盛大に混乱していた。





……これは夢? 現実?
まるで以前の日常が戻ってきたようじゃないか。
そう、毎朝僕が朝食の支度や出掛ける支度をしている間に、彼は朝日を浴びながらアキラに餌をやっていたんだ。

もしかして、昨日までのことが夢だったんじゃないのか?
長い長い夢から漸く覚めて、僕等はいつもの日常に戻ることが出来たんじゃないのか?



混乱する頭でそんなことを考えながら進藤に声をかけようとしたその時──僕の声よりも一瞬早く、進藤はガバリと立ち上がってウーッと大きく伸びをした。
そして清々しい笑顔で僕の方を見ると「お前、早く支度しろよ。今日、韓国発つんだろ。飛行機何時?」と言った。


その彼の言葉で、混乱していた僕の頭は静かに落ち着きを取り戻していく。
ああ、やっぱり夢ではなかったんだな。

ホッとしたような、どこか落胆したような──そんな不思議な気持ちを抱えながら、僕は彼の問いに「昼の14時だよ」と答えた。



そうだ。
明日はいよいよ僕が幼い頃から長い間夢に見ていた父──塔矢行洋との対局なのだ。
今日中に韓国へ入って明日に備えなければならない。
彼は彼の夢を果たすべく本因坊の名に挑戦するように、僕は僕の夢を果たす。

僕は塔矢行洋に勝つ。
そして、僕は僕の『神の一手』を打つんだ。


ここ数日、心の奥底に仕舞い込んでいた父への『闘志』のようなものが蘇り、身体中にゆっくりと充満していく。
そんな僕の表情を見て進藤は嬉しそうに微笑むと「空港行く前に、病院まで車、乗っけてってくれな」と言った。


進藤の夢の挑戦──本因坊戦第一局は、明後日の5月5日。
5月4日に父との対局を終えて、5日の朝一番の飛行機で帰ればギリギリ彼の対局に間に合うかもしれない。
彼が夢を果たす瞬間を、僕は一緒に見届けるんだ。















僕たちは離れていても一緒だよ、進藤。
共に夢を叶えよう。





++++++









家を出発した僕等を乗せたタクシーは、まず進藤の病院へと到着する。
12時には成田にいなければならない僕の為に、午前10時頃には病院へと到着した。

病院の玄関の前でタクシーを降りて、僕等は黙ったまま向き合う。

明日行われる僕の挑戦。明後日から始まる進藤の挑戦。
いよいよ互いの夢に挑戦する時が近づいたせいか、僕も彼もすっかり棋士の顔へと戻っていた。
凛とした強い眼差しで真っ直ぐ僕を見つめる進藤の瞳──まるで、盤を挟んでいる時のような表情だ。
僕も同じように真っ直ぐに彼を見つめる。

そんな僕の表情を見て彼はフッと笑うと、いつもよりも僅かに低い、静かな声でゆっくりと語り出した。


「明日はいよいよ、塔矢先生との対局だな」
「……ああ」
「お前がずっと叶えたかった夢だ」
「ああ」
「その次の日の、5月5日。オレの本因坊戦が始まる」
「ああ」
「アイツに挑む──オレの夢が叶う」


そう言って彼は、よく晴れた5月の空を見上げる。
雲一つ無く晴れ渡った空は、どこまで見渡しても綺麗な綺麗な青い色が続いていた。
柔らかな暖かい風が、サァッと僕等の間を通り過ぎる。
静かに瞳を閉じてその風を受け止めた彼は、もう一度ゆっくりと大きな瞳を開き、真っ直ぐに僕を見つめながら口を開いた。




「一緒に夢を叶えよう」




そう言って、彼は握りしめた右手の拳を僕の前に突き出す。
あの時──2月に「夢を叶えよう」と誓い合った時と、同じ。

その夢が果たされるまで、あと一歩だ。

僕は心の中で「必ず果たしてみせる」と固く誓い、あの時と同じように彼の小さな拳に自分の拳をコツンと当てた。





すると、その時。






僕の拳が彼の拳にぶつかった瞬間──彼は突然差し出された僕の右腕をグイと掴み、自分の方へと引き寄せた。
思いも寄らぬ彼の突然の行動に、僕は簡単に姿勢を崩して彼の方へと一歩、二歩と蹌踉ける。
驚いた僕が「進…」とその名を呼び掛けた時──僕の目の前には、彼の満面の笑顔があった。

そして、唇に柔らかな感触が触れて通り過ぎる。

突然のことに一瞬何が起きたのかわからなかった僕だったが──その0.2秒後くらいには頭よりも先に身体の方が理解したのか、全身の血が沸騰して顔が真っ赤に染まっていくのがわかった。
僕が思わずズサッと音を立てて彼から身を離して遠のくと、彼はそんな僕の様子を見て愉快そうに「アハハハ!」と大声で笑った。
頭に完全に血が上ってしまっている僕は、真っ赤な顔でワナワナと震えながら彼に怒鳴ってしまう。


「ひっ…ひひひ人がいるのに…っ!」
「アハハハ、いいじゃん別に」
「よっよくない!! まったく、キミって人は…!」


キョロキョロと周りを見渡して動揺しまくる僕に、進藤は「ほら、タクシー待ってるぞ」と言って僕の身体をタクシーの中へと押し込む。
訳のわからぬ間にタクシーに押し込まれた僕が「進藤!」と声を上げると、彼は「早く行けって」と言いながら、まるで犬でも追い払うような手つきでシッシッと手を振った。
動揺の収まらない僕に「ドア、閉めますね」と言う運転手の無情な声が響き、バン!と大きな音を立ててドアが閉められる。
今にも発車しようとする運転手に僕は「待ってください!」と叫び、ドアの窓を急いで開けた。


「進藤!」
「なんだよ、早く行けよ。遅刻するぞ」
「いいか! 病室に戻ったらすぐ矢部先生に連絡して、診察を受けろ!」
「わかってるよ」
「和谷と藤崎さんに連絡を入れておいたから、もうすぐ彼らも来るから!」
「お節介なヤツだなー」
「あと、くれぐれも無理はするな! 何かあったらすぐ連絡をしろ!」
「ハイハイ」
「それから!」



一瞬の沈黙。
僕等は静かに、互いの目を見つめ合う。
そして。












































「頑張れ」


「お前もな」



































































「出してください」

僕の声を合図に、タクシーは音を立てて進藤の前から走り去っていった。
開けられていた窓を閉めて、ゆっくりと後ろを振り返る。
すると、進藤は背伸びをするような格好で、大きく手を振り続けていた。
何度も、何度も。


窓の向こうに見える彼の姿が、どんどんと小さくなっていく。
それでも彼は、手を振り続けていた。
何度も、何度も。




そして──タクシーは病院を出て、走っていく。
進藤の姿は、完全に見えなくなっていた。








後ろを見ていた僕は前を向いて座り直し、姿勢を正す。
そして大きくゆっくりフーッと息をつき、瞳を閉じた。

瞼の裏に写るのは──囲碁を打つ彼の姿。
そして脳裏に響くのは、彼の声。




『一緒に夢を叶えよう』




















































進藤、頑張れ。





















































閉じていた瞳を開け、真っ直ぐに前を見つめる。
今の僕に見えるのは果てなく続く囲碁の道の先にいる──父の姿だけだった。







お父さん、待っていてください。
僕は必ずあなたの前に座って、神の一手を打ってみせる。












僕は僕の夢へと向けて、走り出していった。





















































































































































塔矢、行ったかな。

塔矢、もう後ろを振り返ったらダメだよ。

お前は塔矢アキラなんだから。

いつもいつも真っ直ぐに前を向いて──自分の夢に真っ直ぐに進んでいってくれな。





オレは、そんな塔矢アキラが。




































そんなアキラが好きだったんだから。







































































塔矢、頑張れ。






















































































































「ねえ、義高。アレ、ヒカルじゃない?」
「あ、ホントだ。よかったーっ、無事戻ってきたんだな」
「そりゃそうよ、塔矢くんが一緒だったんだもん」



「おーいっ!」



「ヒカルーっ!」





































































いくら呼んでも、届かない声。
目の前でゆっくりと──まるで、スローモーションのように崩れ落ちる身体。



































































「ヒカルッ!!!!」


「進藤!!!」



































































駆け寄って、抱き起こす。
でもピクリとも動かない。
何度も何度も名前を呼び続ける。






「ヒカル!! ヒカル!!!」

「進藤ッ!!」










何度も、何度も。












「ヒカッ………う……」

「……あかり?」












腹部に走る、今までに感じたことのない痛み。
立ち上がるどころか、声を上げることも出来ない。

名前を呼ばなくちゃならないのに。

























「あかりっ!!」





















「あかりっっ!!!」



























名前を呼ばなくちゃならないのに。



























































ガラガラと大きな音を立てて担架が運ばれてくる。
大勢の人々に名前を呼ばれながら、病院の中へと運ばれていく。

ふと視線を横にやると、自分と同じスピードで運ばれている人がいた。
青白い顔に大きなマスクを当てられて、運ばれていく。






名前を呼ばなくちゃ。なのに痛みで声が出ない。




声が出ないよ。









































暫く並んで走っていたけど、途中で道が分かれる。
名前を呼びたかったその人は、別の道へと走っていってしまった。

最後に、僅かに動かすことの出来た右手をその人の方へと伸ばして、心の奥底でその名前を叫んだ。



届いたかな。

































































何度も、何度も呼んだのよ。

何度も、何度も。



何度も、何度も。












































































「……………ヒカル……………っ」















































































漸く声に出してその人の名を呼ぶことが出来た時──耳元では新しい命の誕生を告げる泣き声が響いていた。
赤ちゃんが生まれた瞬間にオギャアオギャアと泣くのは、きっとお母さんの呼び掛ける声に、必死になって答えているからなんだと思う。





























































ねえ、ヒカル。


私の声、届いていたのかな。





















返事をして。








































































































ヒカル。