|
12-11
「塔矢!」
5月3日──天気は、晴れ。
進藤と別れ、予定通りの時刻に韓国の空港に降り立った僕に、名を呼ぶ声が響いた。
聞くはずのない場所で自分の名前を呼ばれると酷く驚く。
一体誰が…と思いながら振り返ると──そこには洪秀英の姿があった。
「洪秀英…?」
「よかった! 入れ違いになっていたらどうしようかと思っていたんだ」
「何故…ここに?」
驚く僕を余所に、洪秀英は僕の荷物を勝手に奪い取るとドンドンと先に歩いていってしまった。
突然の洪秀英の登場に僕の頭の中は混乱したままだったが、早足で先を歩いていく洪秀英の後を慌てて追いかける。
──状況から察するに、どうやら僕を迎えに来てくれたようだが……何故?
僕が彼にそう声をかけるよりも早く、洪秀英は空港から出て駐車場へと赴き、車のドアを開けて僕の荷物を放り込むと、そのまま運転席へと収まってしまった。
車の外でポカンと口を開けている僕を不思議に思ったのか、洪秀英は窓から顔を出して「何してるんだよ。早く乗れってば」と急かした。
そう言われて慌てて乗り込んだ僕を乗せて、洪秀英の運転する車はソウル市内へと走り出していった。
車が走り続けて20分程経った頃だろうか。
とりあえず「一体何がなんだかわからない」というこの状況を打破すべく、黙々と運転を続ける洪秀英に、僕は後部座席から声をかけた。
「……あの、これは一体」
「え? なに?」
「何故キミが僕を迎えに……いや、非常に有り難いんだけど、何故かと思って」
「ああ」
僕が不思議そうな声で尋ねると、洪秀英は「そういえば説明してなかったな」と言って、バックミラー越しに僕の顔をチラリと見て話し始めた。
「明日、いよいよ塔矢行洋との対局だろ。その前に少し打っておきたいだろうな、と思ってさ」
「え……」
「僕じゃ肩慣らしにもならないかもしれないが」
「い、いや、そんなこと」
「……ま、それは後付の理由でね。ホントはお前を連れてこいって人がいてさ。
僕はその人の命令でお前を迎えに行っただけだよ」
「僕にそんなこと命令するの、一人しか思いつかないだろ」と言って、苦笑する洪秀英の顔がバックミラーに映って見えた。
洪秀英に『そんなこと』を命令する人物……確かに一人しか思いつかない。でも彼が一体何故。
その男の顔を思い浮かべつつも、不思議な気持ちのまま僕はソウル市内にある洪秀英の自宅へとお邪魔することになった。
そして通された部屋にいたのは──やはり想像通りの顔で。
「やっと来たか。しかし、よくもまあ図々しくついてくるものだな」
待ちくたびれた、といった風情でその男──高永夏は、僕の顔を見るなりいつもの口調で嫌味を言い放った。
そんな高永夏に、洪秀英が「また永夏はそんなことを言って!」と言いながら詰め寄っていく。
「永夏が塔矢を連れて来いって言ったんじゃないか!」
「オレが? そんなこと言ったか?」
「そうだよ! ホテルだとなんだか拘束されているようでリラックス出来ないから、って!
で、僕たちと打てば塔矢もリラックス出来るんじゃないか、って!
全部永夏が言ったんだよ!」
「オレはそんなこと言ってない」
「言った!」
そのまま高永夏と洪秀英は、呆然と立ち尽くす僕の前で「言った!」「言わない!」
の大ゲンカを始める。
今にも掴み合いにならんばかりの勢いで二人は暫くの間言い合っていたのだが、途中で洪秀英が我に返ったのか、息を切らしつつも僕に向かって「ああ、ごめんごめん」
と言いながら口を開いた。
「お前にいい碁を打って欲しいんだよ。僕も、永夏も。
お前は僕等を倒した上で、あの塔矢行洋に挑んでいくんだからな」
「………」
「お前の夢だったんだろ? 行洋に一人の棋士として挑むのが」
「──どうして、それを」
僕の夢──父と子ではなく、一人の棋士として塔矢行洋に挑むこと。
何故洪秀英がそのことを知っているのだろうか。驚いた僕が目を丸くしていると、洪秀英は笑みを浮かべて僕に言う。
「進藤から聞いたんだよ」
「……進藤、から?」
「そう。メールでだけどね。
自分は今塔矢のためには何もしてやれないから、僕等にお前の力になってやってくれって」
「………」
「進藤がそう言ったんだよ」
──進藤がそんなことを……
進藤が洪秀英とメールを交換しているらしいことは知っていた。
今までも僕が韓国にいる間は、洪秀英がメールを使って僕と進藤の架け橋になってくれていたのだ。
でもまさか──そんなことを洪秀英に頼んでいただなんて。
驚いて言葉を失っている僕に、高永夏はフンと鼻をならしていつもと変わらぬ威圧的な態度で喋り始める。
「ヒカルがそう言うから、オレは仕方なくお前に協力してやることにしたんだからな」
「永夏!」
高永夏の相変わらずな物言いに、洪秀英は呆れた口調で「ホンットに素直じゃないな」
と言って盛大な溜息をつく。
「大体さ、塔矢を僕の家に呼んでやろうって言い出したのは永夏じゃないか」
「うるさい!」
些かからかうような口調で洪秀英は高永夏にそう言うと、高永夏は何度も「うるさいうるさい!」と怒鳴りながら顔を赤くした。
そして突然くるりと振り返ると、今度は僕に向かって指を差して怒鳴り始める。
「いいか、塔矢アキラ!」
「は、はい」
「このオレが、お前の踏み台になってやろうというんだからな!
絶対に塔矢行洋に勝て! そうじゃないと許さないぞ!」
高永夏は僕を指差していた手を下ろし、真剣な顔つきになる。
そしてその横に立つ洪秀英も、いつもよりもさらに真剣な表情になって僕を見つめる。
高永夏は僕を見つめたまま、ゆっくりと口を開いて僕に伝える。
一人のライバルとして。
「お前の夢を叶えろ。お前自身のために」
進藤を愛した者として。
「ヒカルのために」
そして── 一人の棋士として。
「神の一手を打て」
──その後僕と高永夏と洪秀英の3人は、夜遅くまで何度も何度も打ち合った。
様々な形の棋譜を作りだし、それを見てはまた検討して石を持ち──食べることも寝ることも忘れそうになるくらいに、僕等は何度も何度も打ち合った。
こんなにも「囲碁を打つこと」だけに真剣にのめり込んでいったのは随分と久しぶり
のことだった。
ありがとう、永夏、秀英。
キミ達と友達になれて良かった。
キミ達のおかげで、僕は父と戦う前に大切なことを思い出すことが出来たんだ。
僕は物心がつく以前から石を持ち続けてきた。
その「石を持つこと」を教えてくれたのは、他ならぬ父だった。
父は僕に囲碁を教えてくれた。
囲碁を通して、囲碁を打つことによって、僕は様々なことを学んできた。
勝負に勝つこと。負けること。戦うこと。
大切な人と出会うこと。別れるということ。
友達になること。愛すること。守ること。守られること。
生きるということ。……死ぬということ。
囲碁は僕に本当にたくさんのことを教えてくれたんだ。
父が囲碁を教えてくれたから、僕は。
お父さん、あなたがいたから僕は──
僕は今、ここまで来ることが出来たんです。
──明日。
僕は僕に囲碁を教えてくれた父に勝つ。
そして、僕にしか打てない『神の一手』を打つ。
進藤。
僕の碁を。
塔矢アキラの碁を、見ていてくれ。
|