12-12




──2007年5月4日。
よく晴れた、気持ちのよい光の射す朝──



対局の行われる韓国棋院に、僕は約1時間程前に到着する。
僕を送ってくれた洪秀英と高永夏は検討室へと入っていき、僕は対局の行われる一室へと向かう。
同じ棋院でも、日本と韓国とでは建物の雰囲気は違うが、漂っている空気の緊張感は一緒だ。
部屋に近づけば近づく程──ピリピリとした空気が僕を包んでいく。
























































いる。
父はもうすでに来ている。

























































静かに扉を開けて、中に入る。そこには──


































































「おはようございます」
「おはよう」

































































すでに碁盤の前に座している父の姿があった。





現役時代の頃から変わらぬ、碁盤の前に座る姿。
着物を着て真っ直ぐに背を伸ばし、前だけを見据える力強い瞳。

お父さん。
僕はあなたのその碁盤の前に座る姿に憧れて、ここまで来ました。
あなたのその見据える瞳の先に僕は座りたくて、ここまで来たのです。

そして──僕は静かに腰を下ろし、力強い父の瞳を真っ直ぐに見つめた。





静かだ。
進藤と碁を打つ時も、いつも世界は僕たち二人だけになってしまったのではないかというくらいに静かだった。
だが父との対局は──進藤の時とはまた違った静けさを感じる。
自分の周りに漂う空気には目に見えない糸のようなものが張り巡らされていて、少しでも動けばそれに触れて切られてしまいそうだった。
だから、動くことが出来ない。喋ることも出来ない。
父とは毎日毎日碁盤を挟んできたはずなのに、やはり公式の対局ともなるとこうまで違うものなのか。
震えそうになる右手を力強く握りしめながら、僕は前に座る父の瞳をジッと見つめていた。


暫くの間そうして互いの目を見つめ合っていると──突然、鋭い眼光を放っていた父の目がふと柔らかくなる。
突然の父の変化に思わず僕はピクリと身体を揺らしてしまう。
父は何も言わずに目を伏せ、着物の袂から白いハンカチを取り出した。

そして僕と父の間にある碁盤を、静かにゆっくりと拭き始めたのだ。

驚いた僕は、何も言葉を発することが出来ずにただ黙って碁盤を拭く父を見る。
すると父は僅かに微笑みを浮かべ、口を開いた。


「これから打たれる一局ために、盤を清めておかねばな」
「………」
「最高の一手を生み出す──最高の舞台となるために」


碁盤を拭き終えた父は、再び真っ直ぐに僕を見据える。





そして、父は言う。
同じように真っ直ぐに前を見据える僕に向かって、父は言う。











































「この一局を待ち望んでいたのは、お前だけではない」

「私も一緒だ」

「互いの全てを賭けた、素晴らしい碁にしよう」





























































お父さん。ありがとう。








































「始めてください」──開始の声が響く。





































「お願いします」
































++++++








「……スゴイな」



検討室では滅多に喋ることのない永夏が、小さな声でそう呟いた。

塔矢アキラと塔矢行洋の対局が開始されてからすでに一時間半が経過した。
先番は塔矢アキラ──右上スミ、小目の一手目から対局はスタートする。
現在手は20手目を過ぎたあたりである。
検討室では、僕と永夏でモニターを見ながら二人の対局を碁盤の上に再現していた。

まだ20数手しか打たれていないというのに、二人の碁盤の上には今まで見たことのない程の緊張感が漂っていた。
日本で言うところのサムライが、互いに刀を抜いて間合いを確認し合っているかのようだ。
研ぎ澄まされた一手一手が打たれる度に、碁盤の上に張り巡らされた緊張の糸が弾かれていく。

そんな二人の石の運びを見ながら、永夏は再び呟く。


「お互いの力がほぼ同じせいか──膠着状態だな」
「……うん」
「どちらが先に仕掛けるか、だ」
「イキナリ最初で、塔矢が黒7から仕掛けてきたじゃないか」
「だが塔矢行洋はすぐさま白10手目、16の十四で返してきた。大して効いてはいない」
「……うーん」
「だが」


そう言って永夏は、一点を指差す。6の十五、黒15手目。


「これは……いい手だ。黒15、17。これは塔矢行洋も苦しかったはずだ」
「………」
「下辺の競り合い──とりあえず序盤は塔矢アキラの優勢だな」
「うん……やっぱり塔矢はスゴイ」
「まだ序盤だ。この後、どちらが先に動くかでこの後の展開が決まってくる」


永夏は再び目線をモニターに移し、厳しい目つきで中の碁盤を睨んだ。


塔矢、頑張れ。








++++++








──どれくらい時間が経過しているのだろうか。
時計をチラリと見ると、昼の1時近くを差している。
もう対局が開始されて3時間近くが経っているのか。

……よくわからない。
時間を計算しないで打っている訳ではない。でも僕の中で、時間だとかそんなことは最早どうでもよいものになっていた。


ただ、ただ今は。
父が次々と打ってくるこの一手を。
幼い頃から憧れていた──あの光り輝く指先から放たれる一手を受け止めて、打ち返す。
その時の僕が打つことのの出来る最高の一手を父に打ち返す。

それだけが、僕の全てとなっていた。




最高の一手を。そして僕だけが打てる神の一手を────





そう思っていた、その時。

































白54手目、12の四。





















……これは。









++++++











「白54って……え?」
「黒55、16の六。白56、12の三……変だな」


検討室がザワザワと騒ぎ出す。
先に動いた方が展開が決まる──そう言っていた永夏の言葉通り、先に動いたのは白番の塔矢行洋の方だった。
だが打たれたその手は。


「こんなのって……」
「白50とかぶせても攻めにならない。白54とノゾいて黒55とハネさせたのはおかしいな」


永夏の冷静な声が響く。
その間にも、モニターの中に映る局面はあっという間に進んでいって、黒63手目まで進んでしまう。
上辺はたちまち黒の陣地で塗り固められてしまった。
あり得ない──塔矢行洋ではあり得ないようなその一手に、検討室で騒ぐ声は収まらない。

それはそうだ。だって、こんな手は。



「失着か」
「そんな……っ! 塔矢行洋が失着だなんて!」
「塔矢行洋だって人間だ。あり得ない話ではないだろう」
「でも! 待ち望んでいたはずの、塔矢アキラとの対局でこんな…!」
「こんな形で動くことになろうとはな」



そう言ってモニターを眺めながら石を並べていく永夏の手が、碁盤の上でピタリと止まる。
白石を持ったまま動きを止めてしまった永夏を、僕は不思議に思って顔を覗き込む。
すると──永夏は大きく目を見開いたまま、ある一点を見つめていた。


「……永夏? どうしたの?」
「白……54」
「だから、失着だって。永夏が自分で言ったんじゃないか」
「黒……55は確かに好形だが……この白64は」
「……え?」


そうしている間にも、モニターの中の手は進んでいく。
次に僕と永夏が顔を上げたのは、検討室中にワッと歓声が上がった時だった。


「なっ、何!?」
「白82!」
「え、え? 永夏、なに?」
「わからないのか!」


そう言って永夏は、64手目から82手目までをあっという間に並べて再現していく。
その石の並びを見ていて、僕はスウッと深く息を吸い込んだ。


「……これ…って」
「……読んでいたのか。塔矢行洋は、あの白54を打った時点でこの82手目までの展開を読んでいたんだ」
「………」
「確かに、パッと見はどう考えても黒優勢に見える。
 だが、厚みはどうだ。白の方が厚い打ち方をしている。
 僅かなことで──それこそたった一手で、白はいくらでも形勢逆転できるような打ち方をしているんだ」
「一手で逆転を……って、それってまさか」



僕が言葉を震わせながらそう言った時、永夏は左手の拳でテーブルをダンッと叩いた。
その衝撃で、碁盤の上の碁石が僅かにユラユラと揺れる。
その揺れる石たちを見ながら語る永夏の声も、僅かに震えているようだった。

怒りなのか、それとも──畏怖なのか。








「神の一手だ。塔矢行洋は、神の一手を打つつもりなんだ…!」











神の一手を打つことを目指して囲碁を打ち続けてきているのは、進藤ヒカルや塔矢アキラだけではないのだ。
塔矢行洋、この男も────
























塔矢、頑張れ。
お前の一手を、塔矢アキラの碁を見せてくれ。




塔矢。







++++++










……苦しい。息が苦しい。
何故だろう。思ったように呼吸が出来ていないような気がする。

僕はきちんと息をしているのかな。
僕の心臓はきちんと動いているのかな。

手が痺れて上手く動かない。
手だけではない。脳もビリビリと痺れて、上手く次の一手を考えられないでいる。


今……何時? そして僕は何手目を打っている……?


白、116手目。
ああ、僕の番だ。早く、早く打たなければ。早く打たなければ時間がないかもしれない。

黒、117手目。
何でだろう。的確に打っているはずなのに。打てば打つ程、息が苦しくなっていくのは何故だろう。
打てば打つほど、白の厚みが増していくのは何故だろう。





そうか。
これが父の──塔矢行洋の碁なんだ。







……強い。やはり父は強い。
進藤、ごめんよ。
キミに誓った約束、やはり僕には果たせそうもないよ。

自分の目標である父に挑戦をして、神の一手を打つということ。

やはり僕には────




































































その時。

ボウッとなった僕の頭の中に、声が響く。



































































柔らかくて優しい声──僕の好きな、僕の好きな人の声。



















キミの、僕に呼び掛ける声。





















































































































『塔矢』









『頑張れ』
































































































































光り輝く僕の指先──そして。







































































パチリ。





碁盤に石の打たれる音で、僕は我に返る。
黒143手目。






光り輝く指先から打たれた──僕の一手。







それは。









































































「神の一手……」


































思わず、言葉が口を突いて飛び出していった。
だが僕の発したその小さな声は、誰にも聞こえていなかったのか──目の前の父も、何も言うことはなかった。

何も言うことはなかったが──大きく目を見開いて、ただ一点だけを見つめていた。

僕が打った黒143手目を、ただひたすらに見つめていた。











お父さん。
お父さん、僕は。










進藤、僕は。









































































































──それから後のことは、よく覚えていない。





終局したのは264手目。
数えてみれば半目──たった半目、僕の黒が勝っていた。

あの143手目から一体どういう手順を辿っていったのかよく覚えていなかった僕は、後から高永夏たちに棋譜を見せてもらった。
143手目以降の僕の手は、酷いものだった。
黒159手目で酷い失着を打ち、父の白160手目はすぐさま怒濤の反撃に出る。
黒189手目でも僕はさらに傷を広げるような手を打ち、ついに形勢は逆転。白の半目勝ち──という結果が見えている中で、盤面は進んでいった。
だが、最後の最後──白216手目。僕の213手のアテに対する手。
ここで父は、驚いたようにコウにハジいたのである。

そして終局──白半目から、いつの間にか黒の半目勝利へと逆転していた。






「まったく! 最後までヒヤヒヤさせやがって!」





そう高永夏は僕に怒鳴る。
僕はボンヤリとした頭のままで、高永夏に「何故……父はコウにハジいたのだろう」と尋ねた。
高永夏は僅かに思案した後、徐に口を開いて言う。


「……この143手目が」
「え?」
「この143手目が最後の最後で力を発揮した。
 この143手目があったからこそ、塔矢行洋は最後にハジくしかなかった」
「………」
「まさに、神通力ってやつだな」


そう言って高永夏はフッと笑った。
その後ろでは、先程からずっと泣き続けている洪秀英がいる。


「秀英! お前もいい加減に泣き止め!」
「だっ……だっで……! ごんな……ごんな一局……ごんな一手……見られて、僕……!」
「確かにこの一手は素晴らしかった。だが後はグダグダだ!」
「でっでも…! う、うううう〜〜」
「塔矢。最後に行洋が言った言葉、覚えているか?」
「……お父さんが、僕に言った言葉……」




































































『素晴らしい一局だった』

『お前とこのような一局を打てたこと。あの一手を見ることが出来たこと』

『そして、お前のような息子を持つことが出来たこと』

『私は、全てを誇りに思う』





















『私はきっと──今日この日のために、今まで囲碁を打ち続けてきたのだと思う』

『そしてあの一手の先に続く一手を、この先の生涯をかけて打ちぬくことが私の囲碁だと確信した』

『お前も、まだまだこの先に続く道を歩み続けるだろう』






















『彼のように。そして……saiのように』






















『アキラ』




























































































『成長したな』






























































































「……って。何でお前まで泣き出すんだ……」



高永夏の呆れたような声が響く。
僕は父の言葉を思い出して、いつの間にか涙を流していた。
涙は後から後から流れつづけ、一向に止まる気配を見せない。


「秀英! お前もいい加減にしろ!」
「だっ、だっで〜〜〜」
「塔矢! お前も泣くな! この後記者会見だろ!」
「うえええええ〜〜〜」
「ああっ! もう、秀英!」








後から、後から。
涙が零れていくよ、進藤。


































進藤。
キミの『塔矢、頑張れ』という僕を呼び掛ける声が聞こえた時──僕は打つことが出来たよ。
僕の打つ、僕にしか打つこと出来ない『神の一手』を打つことが出来たよ。



進藤。
でも僕は、わかったことがある。



キミが神の一手を打った時、キミは「いい碁だったな」と一言呟いて、すぐに盤面を崩してしまったね。
その理由がわかったんだよ。



何故なら、『神の一手』は、そこが終わりではないのだから。
その先に続く、新たな囲碁の道の始まりでしかないのだから。











僕はまた、明日からその道を歩んでいくんだ────











































































進藤。
ああ、話す事がいっぱいあるよ。




そうだ、キミの言う『アイツ』にも聞いてほしいな──


















































































ねえ、進藤。