12-13





夜が更けて──長い長い一日が終わりを告げようとしていた。
漸く記者たちや様々な棋士たちから解放された僕は、蹌踉めきながらなんとか宿泊するホテルへと戻る。
部屋に入るなり、スーツも脱がぬままベッドの上にドサリと音を立てて倒れ込んでしまった。



















…………………疲れた………





















なんて長い一日──長い対局だったのだろう。























でも、色々なものを得ることが出来た対局だった。

漸く打つことの出来た一手。
だがまだまだ未熟な自分。
そして神の一手の先にも──果てなく続く囲碁の道があるということ。

こんなにも身体も頭も疲れ切っているというのに、心は酷く満たされている。

ああ、進藤。
もし今キミが目の前にいたら、僕は今すぐにでもキミと打ちたいよ。
打って、何局も打って、キミの言葉を聞きたいよ。







キミの声を聞きたいよ。







そう思った時、ベッドに横になったままだった僕の視界にホテルの電話が飛び込んでくる。
電話……してみようか。
病院の矢部先生宛にかければ繋いでくれるかもしれない。
身体が大丈夫かどうかも聞きたいし。
何よりも、ほんの一言だけでもいいから彼の声が聞きたい。

ガバリとベッドから起きあがり、受話器を持ち上げる。
そしてダイヤルを押そうとしたその時──今度は時計が視界に入る。

午後11時23分。

もうこんな時間だったのか、と思い僕は受話器を再び戻す。
……やめておこう。明日は彼の大切な日──彼の夢へと挑戦する日なのだ。
邪魔してはいけない。きっと今頃、彼も頭の中を棋譜で一杯にして眠りについているはずだ。


大丈夫だ、焦ることなんてない。明日を待てばいいのだ。
明日の朝一番の飛行機はすでに取ってある。
洪秀英が再び空港まで送っていってくれると約束してくれた。
その飛行機で無事帰ることが出来れば、日本に午前10時頃には到着する。
対局は進藤の体調を考慮して、日本棋院の幽玄の間で行われるから──空港から大急ぎで向かえば、途中からになるだろうが本因坊戦に間に合うはずだ。

明日、傍で見守っていたいのだ。彼が夢を叶える瞬間を。



そしてすべての本因坊戦が終わって……僕も彼も自分の夢を叶えて……たくさん話すんだ。
色々なことを話すんだ。
父との対局の話。本因坊戦の話。秀策の話。……『アイツ』の話。











………それから………これから………先の話。












この先も……僕等は一緒に囲碁を打っていくんだ………
どこまでも続く囲碁の道を……………いつまでも………一緒に歩んで………








































彼と………一緒に……………































































ずっとずっと……………いっしょ………に…………


























































……………いっしょに…………
















































































………………。














































































………………












































































































































………………ここは………………どこ?

























































































ふと気が付いて周りを見渡してみると、一面に白い世界が広がっていた。
前を見ても後ろを見ても、どこまで見渡しても──白い白い世界が続いている。
白い、といっても雪や布地の白さとは違う。どこか暖かくて、光に包まれたような綺麗な白い色だった。
上を見上げてみてもその白い世界は続いていたのだが、何かキラキラと輝くものが時折雪のように降り注いでいる。




……なんだろう、これ。綺麗だな。





そしてその白い世界の中心ともいえるような場所で、僕は一人でポツンと立っている。





……ここはどこだろう? 初めて来たはずなのに初めでではない気がする。





ただ広がる真っ白い空間に一人でいるというのに、不思議と「疑問」だとか「恐怖」といった感情はなかった。
何故だかはわからないけれど──そう、寂しくなかったんだ。
たった一人でいるのに寂しくはなかった。
僕の周りをフワリと包み込むこの白い世界の空気が、何だか酷く暖かくて優しいものだったから。





……この空気、なんだろう。どこか覚えがある。感じたことがある。













誰かの気配? 誰の気配────















思い出せぬまま、僕は白い世界の中を歩いていく。
前も後ろもただ白い空間が広がっているだけだというのに、何故だか僕は迷うことなく歩みを進めることが出来た。
「道」が出来ていたんだ。時折雪のように降ってくるキラキラとした綺麗なものが僕の前に降り注いでゆき、一本の綺麗な道を作り上げていく。



……どこまで続いているのかわからない。それでも。



僕はただひたすらに、その「道」を歩き続けた。どこまでもどこまでも歩き続けた。
綺麗で暖かい、優しい空気に包まれながら──僕は歩き続けたんだ。












































どれくらい歩いた頃だろうか。
















































声がする。
























































どこから?



























































優しい声。

































































……僕のことを呼んでる?










































































































「塔矢ーっ」

















































































「……進藤?」





































































そう、その輝く道の先にいたのは──進藤だった。
彼は満面の笑顔を浮かべつつ背伸びをするような格好で、手を大きく左右に振り続けている。
手を振りながら、何度も「塔矢ーっ」と僕の名前を呼んだ。

彼が僕の名前を呼ぶ度に、僕の歩いているキラキラとした道は一層の輝きを増して光を放つ。
そのあまりの眩しさに、僕は思わず何度も彼を見失いそうになってしまう。
目を凝らしてなんとか彼の姿を見ようとすると──彼の隣に、誰かが立っているのが見えた。




……あれは……誰?





背の高い人。
白い着物──平安時代のような不思議な形の着物を着ている。
長くて黒い帽子を被り、その下から伸びる綺麗な黒髪が時折ユラユラと揺れているのがわかる。

僕は急いで歩みを進めて、その人の前に立つ。
その人の隣に立つ進藤は、本当に幸せそうな笑顔でその人と僕を交互に見つめている。



……この人は……




優しい笑顔の美しい人。
初めて会うはずなのに、初めではない気がする。
何度も何度も会ったことがあるような気がする。
僕はこの人を知っている。知っているんだ。

そう、この人は。


































































































「はじめまして、塔矢アキラ」
「あなたは……」




















































































震える声でそう尋ねて、その優しい顔の優しい声の人を見上げていると──隣にいた進藤のエヘヘと笑う声が聞こえた。
進藤の笑い声を聞いて、僕の前に立つその綺麗な人も本当に優しそうな笑顔で微笑む。
僕が視線をその人から進藤へと移すと、彼は僕の傍へと駆け寄って腕を掴み「あっち、行こうぜ!」と言って走り出した。

「し、進藤、どこへ?」
「いいからいいから」

進藤は僕の顔を見て笑うと、問いには答えずに前を見て走り出す。
彼に引っ張られるようにして走っている僕を見て、横を歩いている綺麗なその人は楽しそうに微笑んでいる。




……一体どこへ行くのだろう?





そのまま暫く走り続けて行くと──白い空間に何かがポツンと置かれているのが見えた。
進藤はそれを見つけると「あった! アレアレ」と言ってその物体を指差す。

目を凝らさずとも、それが何かはすぐわかった。
木で出来た四角い塊。その下に伸びる短い4本の足。
僕等が最も心を通じ合わせることの出来る場所────








「碁盤……」
「うん!」







どうやら目的地であった古い碁盤の前に辿り着いた進藤は、僕の呟きに満面の笑顔で頷いて「ハイ、座って!」と僕を盤の前へと座らせた。
何がなんだかわからない僕が目を瞬かせていると、進藤は「ハイ、お前はそっちな!」と言って──僕の前に、あの人を座らせたのだ。

そうして僕等が盤の前に座ると、進藤は満足そうな笑顔を浮かべて碁盤の横にチョコンと腰を下ろした。
「進藤、これは一体」と僕が尋ねても、進藤は聞こえているかいないのか、ただ笑うばかりで答えてくれない。
困り果てた僕が溜息をついて顔を上げると、盤の向こう側に座る優しい笑顔の人の顔が見えた。


──その時。


その優しい人の顔を見た時。
僕の中で様々な棋譜が溢れて蘇り、身体中を駆けめぐっていく。
そして僕は感じる。頭で理解するよりも早く、身体が──僕の右手が感じる。




初めでではない。
僕はこの人とこうして向き合うのは初めでではない。




今まで僕は僕の人生において最も重要な時に、この人と打ち、そしてこの人の残した棋譜と触れ合ってきた。
この人が進藤の中に残していった囲碁に、僕はきっと誰よりも触れてきた。
だから聞かずとも僕にはわかるのだ。

そう、この人の名は────
























































「さあ、打ちましょうか」





































































優しい声が響く。
僕に黒石の入った碁笥を渡して微笑むと、僕に一手を打つように促した。

僕の、第一手。




パチリ、と音を立てて置かれた黒石の場所は──右上スミ、小目。





その人は黒石を見て嬉しそうに微笑むと、鮮やかな手つきで白石をパチリと音を立てて打った。
そのまま僕とその人は、碁を打ち続けた。
手が進めば進む程、僕が感じた予感は確信へと姿を変えていった。

ああ、この一手も。あの一手も。すべてに僕は覚えがある。
すべて進藤の中で、進藤の傍で見てきたものだ。
僕がそう思いながら盤面を見つめていると、僕の前に座るその人は嬉しそうな声で僕に語りかけた。


「楽しいですか?」
「え?」
「囲碁は楽しいでしょう? 塔矢」
「……はい、楽しいです」


思わず笑顔になって僕がそう答えると、その人は幸せそうな顔をして微笑んだ。
本当に楽しかった。そして何より嬉しかったんだ。
こうして盤を挟んで打てることなどないと思っていたから。
この人とこうして囲碁が打てるなんて、まるで夢のようだ。



──そう、夢のよう。




僕は思わずハッと顔を盤から上げて、横に座っている進藤を見る。
進藤は先程と変わらぬ笑顔で僕等を見つめていて、顔を上げた僕と目が合うとニッコリと微笑んだ。
その笑顔は本当に嬉しそうで、幸せそうで──そして綺麗で。
僕が「進藤」とその名を呼ぶと、彼は優しい目で僕を見つめながら口を開いた。




「塔矢、ありがとな」
「……え?」
「コイツと打ってくれて。夢だったんだ、お前とコイツが打っているところを見るのが」
「………」
「ずっとずっと、オレの夢だった」





そう言って進藤は、僕の前に座る人の顔を見上げて「な?」と言って笑う。
その人は「そうですね」と言うと、進藤と僕に向かって優しく微笑んだ。

そして進藤とその人は、二人で僕の顔をジッと見つめる。



何も言わずに、ただジッと僕を見つめる。







僕等の間に暫くの沈黙が流れた後──進藤は隣にいるその人の顔を見上げた。
その人は進藤を見て微笑み、ゆっくりと頷く。
それを見た進藤は力強く頷き返すと、真っ直ぐに僕を見つめる。

そしてキミは、僕の名を呼ぶのだ。



優しい笑顔で、優しい声で。


























































「塔矢」







































































「オレさ、お前に言わなくちゃいけないことがあるんだ」



「ずっとずっとお前に伝えたかったこと」



「オレ一人じゃダメなんだよ。コイツと一緒じゃないと」



「今からオレが言うこと──それがオレの『目的』」



「コイツと果たしたかった、オレの『目的』」






















































「それはね」














































































「塔矢」












































































































































「ごめんなさい」

































































同時に発せられた二人の声が、白い空間に、そして僕の心の中に静かに響いていった。



『オレは『あの世界』へ行って『目的』を果たすんだ』
『………オレの目的は……アイツと一緒に、お前に……』



進藤がよく言っていた言葉。
進藤が果たしたかった、果たさなければならなかった『目的』。
あの人と一緒でなければ、この世界に来なければ決して果たすことの出来なかった『目的』。









それは、僕に謝ることだった。











二人一緒に僕に向かって頭を下げた彼らは、同時に顔を上げて再び「ごめんなさい」という言葉を繰り返す。
キョトンとしている僕に、進藤はゆっくりと口を開いて語り出す。

「オレ、お前にずっと嘘をついてきた。初めて会った時も嘘をついたんだ。コイツのことを隠すために」
「………」
「あの碁会所の時も、アレ、本当はオレじゃなくてコイツが打ってたんだ」
「………」
「それだけじゃない。囲碁部の三将戦の時も。ネット碁の時だって」
「………」
「そのせいで、オレは何度もお前のことを傷つけた」





「本当にごめん」
「ごめんなさい、塔矢」




「ごめん、塔矢。ごめんな」
「ごめんなさい」





二人で、何度も何度も「ごめんなさい」という言葉を繰り返す。
僕の顔を見ては「ごめんなさい」と言って頭を下げる。
そんな風に二人に謝られている僕はというと、まるで金縛りにでもかかってしまったかのように動けないでいた。
返事をしなくちゃいけない。何か言わなくちゃいけない。
頭ではそうわかっているのに、身体が一向に動かない。声すら出ないんだ。


言わなければ。
僕に向かって謝る彼らに、僕も言わなければならないことがあったはずなんだ。


そんな僕に向かって、進藤は下げていた頭を上げて再び口を開く。


「オレ、ずっとずっと、コイツと二人でお前に謝りたかったんだ」
「………」
「二人で一生懸命、お前に「ごめん」って頭下げて」
「………」
「お前、きっと「ふざけるなッ!」って言って怒ると思ったから。
 だから許してくれるまで何度も何度もコイツと一緒に謝ろうって決めてた」
「………」
「それがオレが絶対に果たしたかった『目的』だったんだ」


進藤はそう言って再び「な」と言いながら隣の人を見上げる。
その人は深く頷くと、僕の方を見てもう一度「塔矢、本当にごめんなさい」と言って頭を下げた。
その様子を見た進藤も、僕に向かって深く頭を下げる。
















「塔矢、ごめんな」
「本当にごめんなさい」









違う。









「ごめんなさい」









違うよ、進藤。









「ごめんね」









僕は謝って欲しいんじゃない。









「ごめんなさい」









僕は、僕こそ言わなくちゃならないことがあったんだ。









「ごめんなさい」









だから、もう────

















































































「謝らないでください!」









































































漸く金縛りが解けて僕の口から飛び出していった言葉は、情けないくらいに震えていた。
そんな僕の言葉を聞いた彼らは、下げていた頭をピタリと止めて不思議そうな顔で僕を見上げる。
僕は震えそうになる右手を力強く握りしめて、彼らに向かって伝える。



彼らの目的が『僕に謝ること』だったというならば。
僕も、僕の『目的』を果たさせてもらう。



僕の『目的』──それは。



































































「僕は、僕はずっとお礼が言いたかった!」

「進藤に、そしてあなたに! 僕はお礼が言いたかった!」

「あなたがいたから、僕は進藤に出会えた」

「あなたがいたから、僕は囲碁を打ち続けることが出来た」

「あなたがいたから、僕は……」


















「僕は、ここまで来れたんです」


















「だから僕はずっと伝えたいことがあった。あなたに会えたら、伝えたかったんだ」














































































「ありがとう、って」














































































「本当に、ありがとう」











































































彼らが「ごめんなさい」と言って頭を下げたように、今度は僕が「ありがとう」と言って彼らに向かって頭を下げる。
暫くの間僕がそのままの姿勢でいると──フワリとした優しい気配が近づくのがわかった。
驚いて顔を上げると、僕のすぐ目の前にあの優しい人が微笑みながら立っている。

僕が驚いた顔で「あの…」と言うと、その人は本当に本当に綺麗な笑顔でニッコリと微笑んで──そして。





僕に向かって、その優しい声で言ったのだ。
























































































「塔矢、私の方こそありがとう」


「あなたと会えて、あなたと打てて私は幸せでした」


「だからお礼なんていりませんよ」
















































































「……でもその代わりと言ってはなんですが」


















































































































「私のお願い、一つだけ聞いてもらえませんか?」