12-14










「……う…」
















朝の強い光が綴じられた瞼を通り過ぎて、瞳に直接当たっているかのような感触を覚える。
あまりの眩しさにすぐ眼を開けることが出来ず、細目で部屋の様子を窺いながらゆっくりと瞼を開けた。


古びた天井。
日に焼けて僅かに黄ばんだ白い壁紙。
ハングル文字で書かれた張り紙。
閉じられることのなかった緑色の古いカーテン。
朝の明るい光が燦々と部屋の中を照らしている。





……ここは……ホテルの部屋……?





──そうか。昨日、父との対局が終わって疲れ果てて帰ってきて…その後の記憶がはっきりとしない。
僕はどうしたのだろうか。
ベッドに横になったまま、ボンヤリと古い天井を見つめながら考える。
如何せんまだ起きたばかりだ、頭の中がなんだかボンヤリとしていて考えが上手く纏まらない。


……寝起きのせい、なのかな。
なんだか酷く頭の中がボーッとしている。
たくさん眠ったはずなのに、そんな感じがしない。
眠ったというよりも、まるで一晩中囲碁を打ち続けていたかのような感覚で────









『囲碁は楽しいでしょう? 塔矢』










頭の中にあの優しい声が響いた瞬間、僕の中に立ち込めていた霧はサァッと音を立てて引いていった。
そして晴れ渡った僕の心の中にいたのは──進藤の姿。

おかしいな。
今僕に呼び掛けてくれたあの人の、進藤の隣にいたあの人の姿が見えない。
気配は感じているのに、何故だか姿だけが見えないんだ。
心の中で必死に目を凝らしてもあの優しい人の姿は見えず、ただ進藤が幸せそうな顔で笑うばかりだった。







































「進藤」



































何とはなしに呟いていた。
夢の中で見た進藤に、そして今僕の心の中で笑う進藤に呼び掛けるように、僕はその名を呟いていた。
だがもちろん──返事はない。
僕の口から零れていった彼の名前は、返事を貰うことなく部屋を漂って静かに消えた。



……そうか。今ここには彼はいないのだから。



そんな当たり前すぎることを漠然と思いながら、眩しい朝日を遮るようにして右手で目元を覆う。
すると、濡れた感触が手に触れた。






……涙? 








そう認識した途端、頬を涙が静かに伝っていく。



何だろう。僕は何故泣いているのだろう。
あの人に会うことが出来たから? あの人と囲碁を打つことが出来たから?
進藤の幸せそうな笑顔を見ることが出来たから?
それらがすべて「夢」の出来事だったから?


……それとも今、彼の返事が聞こえなかったから?



わからない。





わからないまま僕は涙を止めることが出来ず、暫くの間泣き続けていた。
声を上げることもなく流れ続ける涙は、僕の頬を伝ってベッドに染みを作り、そして静かに消えていった。










++++++












空港まで送ってくれた洪秀英のお陰で朝一番の飛行機に乗ることが出来た僕は、予定通り朝10時過ぎに日本へと到着する。
確か本因坊戦は10時より日本棋院で行われているはずだ。
もう始まっている頃だろう。進藤は寝坊せずに対局場へ行けたのだろうか。
そういえば僕と暮らしていた時も、よく寝坊で対局や仕事に遅刻していたっけ。
いつだったか、その寝坊による不戦敗で、彼は自分の連勝記録をストップさせてしまったのだ。
「あーあ、まあしょうがねぇか」とあっけらかんと言い放つ彼に、僕は激怒したっけな。

過ぎた思い出に、僕は思わず笑いそうになるのを堪えながら電車に乗り込む。
懐かしいね、進藤。どれくらい前のことだろうか。

彼の本因坊戦が全て終わったら──ゆっくりと話そう。
僕の父との対局のことも話したいし、韓国で洪秀英や高永夏と打った碁のことも話したい。
彼はきっとまたこの本因坊戦で綺麗な棋譜を残してくれるはずだから、そのことについても話したい。

それと──そうだ。
昨日見た夢も。

キミと出てきたあの人のことも、キミに話したいよ。







ああ、話すことがいっぱいあるな。
早く会いたいよ、進藤。













そんな思いを胸に──僕を乗せた電車は東京駅へと到着し、タクシーで日本棋院へと向かう。
先程購入した週刊碁には、今日行われる本因坊戦が第一面に大きく掲載されていた。

胸が高鳴る。
早くキミに会いたい。
碁を打っている、夢に挑戦しているキミの姿が早く見たい。


ドキドキとする胸を押さえながら、僕は勢いよく棋院の扉を開けた。


















すると──


































僕の目に飛び込んできたのは、ロビーに集まって呆然と立ち尽くす人々の姿。
様々な人がいる。
棋士たち・記者・職員・それから一般の人々……

不思議なのは、それだけ多くの人々が集まっているというのに、ロビーが水を打ったようにシンと静まり返っていることだった。
その何も言わずに立ち尽くしていた人々は扉を開けた僕の姿を見て、一斉に皆、驚きと共に悲痛の入り混じったような表情をする。
その中には伊角さんや奈瀬さん、越智くん、冴木さん、門脇さん、そして社──見知った顔も多くあった。


一体、何だろう。
皆ここで何をしているのだろう。

何故いつものように碁の話をしていないのだろう。
何故碁を打っていないのだろう。

何故見にいかないのかな?
幽玄の間で進藤が碁を打っているというのに!



僕は不思議に思いながらも、皆の間を通り抜けて幽玄の間に向かうべくエレベーターのボタンを押した。
エレベーターはすぐにチンと音を立てて到着し、扉を開く。
すると中には僕のよく知る顔──出版部の天野氏の姿があった。


「天野さん」


今対局はどうなっていますか?

そんな意味合いを込めて僕が声を掛けると天野氏は──ロビーにいる皆と同じような、驚いた表情と共に悲痛な顔を僕に見せた。












何故? 何故皆そんな顔で僕を見るの?








ねえ、天野さ────




























































「塔矢くん、連絡を受けていないのかい?」













































































「進藤くんはね」






























































































天野氏の言葉を最後まで聞き終えるよりも前に僕はエレベーターに乗り込み、殴るようにしてボタンを押して扉を閉じた。
そして目的の階に辿り着くと、僕はそこにも集まる大勢の無言の人々を突き飛ばしながら奥にある幽玄の間へと突き進んでいく。





ここで今日、行われているはずなんだ。
進藤の──夢の対局が行われているはずなんだ。



だって僕等は、一緒に夢を果たすと約束をしたのだから。



そうだよね、進藤。




























進藤。














進藤。














進藤。














































進藤。



























































































「進藤!!」















































勢いよくあけた扉の向こうにいたのは、碁盤の前に腕を組んで座り込む桑原先生の姿。
その前に座るはずの──彼の姿はない。











進藤の、姿はない。




























進藤は、いなかった。

























































進藤はもう、いなかったんだ。
































































もう、ここには────
































































































鯉のぼりがそよぐ気持ちのいい春の日。



進藤が、いなくなった。












よく晴れた、5月のことだった。








continues to the last times.