──進藤へ。































































お元気ですか?



韓国では毎日暑い日が続いているけれど、日本はどうなのかな。
あの春に行われた国際棋戦からもう3ヶ月──月日が流れるのを早く感じる毎日です。


僕はというと、この夏から軍に入隊しました。
7月に19歳になったばかりなのだけど、先送りにはしたくなかったんだ。
今はちょうどタイトルにも絡んでいないし……もちろん、兵役が終わった後はガンガン絡んでいくつもりだよ!

訓練はとても厳しくて、毎日大変です。
正直、逃げ出したいと思う日もあります。
でもこれを無事2年間乗り越えれば、その先にはきっと、今までとは違った風景があるんじゃないのかな。
……なんて思いながら毎日頑張っているよ。




でもやっぱり、囲碁を打てない日々はちょっと辛いな。
僕も早く打ちたいよ。




そうそう、永夏なんだけどね。
永夏は今も、韓国の碁界でTOPの一人として頑張っているよ。

棋聖の防衛も無事果たして…今は王位戦に挑戦しているんだ!
韓国のNO.1、李昌鎬に棋聖戦だけでなく、王位戦でも勝つんだって言ってたよ。


進藤のことも時々話しています。
永夏にとって進藤は初恋の人だから、やっぱり忘れられないのかな…なんてね。





















ねえ、進藤。

お前は今、どうしているのかな。












僕は今も、お前のことをよく思い出すよ。











































進藤。

お前、今笑ってる?


















笑ってたら、いいな────













































































































海の音が響く。





































































透き通るような青い空。


ゆっくりと流れてゆく白い雲。













高い鳴き声を上げ、空を横切ってゆく白いカモメ。


静かに打ち寄せる波は、すべてを飲み込んで海へと還っていく。


















──あの日から3ヶ月、夏の日。















































優しい海風と母親の胸に抱かれてキャッキャッと笑う赤ん坊。
母親は、赤ん坊を優しい目で見つめている。



波打ち際で海と戯れていた父親が戻ってくると、赤ん坊はますます嬉しそうに笑う。
そんな我が子の様子に父親は酷く浮かれて、母親から赤ん坊を取り上げて濡れた手のまま抱きしめようとする。
怒って赤ん坊を取り返す母親。それに対して抗議する父親。

その様子を同じパラソルの下で飲み物を飲みながら見ていた背の高い男がゲラゲラと笑う。
確かに可愛いのはわかるけど、お前達は典型的な親バカの見本だな、と言って。

その言葉に腹を立てた父親は、先程海水を充填したばかりの水鉄砲でその男を手に持っていた飲み物ごと射撃する。
跳ねる海水に、叫び声を上げながら赤ん坊を守る母親。
至近距離で海水を浴びた男は、飲み物を落としてゲホゲホと咳き込み、ギロリと父親を睨む。
ざまあみろと大笑いする父親は、今度はその男から同じように射撃される。
ずぶ濡れになる父親。もう、あっち行ってやってよ!と怒鳴る母親。

そのまま二人の男は、年甲斐もなく水鉄砲で互いを狙い撃ちしながら再び海へと向かって走っていった。
波打ち際でギャーギャーと笑いながらはしゃぐ男達。
フウ、と呆れて溜息をつきながらも笑う母親。















暑い、夏の日。

因島の海─────





































































「まったくもう、しょうがないお父さんですね〜、ひかる」































































































「お前な」

















































































背後から声をかけられたあかりは、太陽の光で眩しそうに目を細めながら見上げる。
そして「ひかる」と呼ばれた赤ん坊を胸に抱いたままニッコリと微笑んだ。



そして、名を呼ぶ。






















オレの名を。




































































「ヒカル」




































































秀英から届いた手紙を読むために、皆から少し離れた場所にいたオレは、赤ん坊を抱くあかりに声をかけた。
そのまま再びパラソルの下へと戻ってあかりを見つめると、あかりは微笑みながら「なあに、ヒカル」とオレの名を呼んだ。



「…お前さ、前から言おうと思ってたんだけど」
「なあに」
「なに赤ん坊にオレの名前、そっくりそのままつけてんだよ」
「そっくりそのままじゃないわよ。『ヒカル』はカタカナ、『ひかる』は平仮名だもの」
「そーゆー問題じゃねーだろ…。それにソイツ、女の子だし」
「女の子でもおかしくないじゃない、ひかるって。
 それに、生まれる前から決めてたんだもん♪ ね、ひかる」



そう言ってあかりが赤ん坊の背をポンポンと叩くと、赤ん坊は楽しそうにキャッキャッと笑った。
幸せそうに笑う母子の様子を見て、ま、いいか…なんて思っていると、波打ち際ではしゃいでいた和谷と社が全身ずぶ濡れとなって帰ってきた。
そしてあかりの傍へと戻るなり、和谷は「ひかる〜! いい子にしてたか?」なんて気持ち悪いくらいの甘ったるい声を出して再び赤ん坊を抱き上げようとする。
そんな和谷に、あかりは「身体を拭いてからにして!」と再び怒鳴った。

……その会話聞くの、今日ここに来て何度目だろうな……。

そんな風に思いながら呆れて溜息をつくと、社も同じ事を考えていたのだろう。
「ハアッ」と吐き出した息のタイミングが全く一緒で、オレと社は顔を見合わせてゲラゲラと笑った。
そして笑うオレ達の様子を見て、和谷が「なんだよ!」と顔を赤らめながら言い返す。
あかりの胸に抱かれている赤ん坊も、オレと社に合わせるようにキャッキャッと楽しそうに笑った。


そのまま笑い合っていたオレ達は、身体を拭いたり飲み物を飲んだりしながら目の前に広がる海を眺める。
初めて訪れた夏の因島の海は、穏やかで優しい波音を響かせていた。

暫くそうしていると、和谷が「そういえば」と言いながら口を開く。


「なあ進藤、この前の三星火災杯の予選の棋譜、見たか?」
「見た見た。塔矢先生のだろ」
「スゲーよな! 相変わらず」
「ホンマや。何かまた、少し棋風が変わったんとちがうか?」
「……うん、そうかも。春の国際棋戦の後、少し変わったかもね」
「ああ、塔矢とのアレか」


掌からサラサラと零れる砂を見つめながら、和谷は「オレも頑張らないとなー」と呟く。
そんな和谷の言葉を聞いた社が「ホンマやで、お前オトンなんやから」と言って和谷の背中をバシッと叩いた。
日に焼けた背中を叩かれて思わず「…ッ!」と声を失う和谷を余所に、今度は社がオレに声を掛ける。



「先週の名人戦の挑戦者リーグ、見たで」
「あー…」
「結局下馬評通り、挑戦者は緒方先生や。残念やったな」
「…うん」
「やっぱりアレか? また体調が悪くて…」
「ああ、えーとね」






























































「悪かったんだよな、進藤」





























































社の問いにオレが口籠もっていると、背後から地を這うようなドスの効いた声が響く。
オレがその声に思わずビクリと震えて肩を竦めると、社は「あ」と言ってその声の主を見つめた。

その声の主──夏の海など全く似合わない黒髪で色白のその男は、些か怒りの込められた足取りで、砂浜の砂を蹴飛ばしならドスドスとオレ達のいるパラソルの下へと戻ってきた。
そんなソイツの様子を見ていた社は、なんとかその場を取り繕うとして「ビールやビール! 名人様がビールを買うて来てくれたで〜!」とわざとらしい声を上げる。
社に叩かれた背中の痛みと格闘していた和谷は、痛みのせいか不機嫌な様子で「遅ぇな、お前どこまで買いに行ってたんだよ」と火に油を注ぐような発言をした。
その言葉に、その男の案外脆い堪忍袋の緒はいとも簡単にブツリと音を立てて切れてしまう。


「じゃあキミは飲むな! 人がせっかく買ってきたのに!」
「なんだよソレ! いーから寄越せ!」
「おいおい、やめろや!」
「そーだよ、やめろよー。あ、オレ一本貰うからな」
「あっ!」









「ありがとな、塔矢」
「進藤!」












相変わらずすぐ怒る塔矢を横目に、オレは冷たいビールを口に含んだ。
身体の中を流れていく冷たくて苦い味にオレは「うめーっ!」と思わず感嘆の声を漏らす。
そんなオレを見て、塔矢は「おいっ!」と再び声を荒げた。


「キミは飲むな!」
「へ? なんで?」
「来週検査だぞ! また矢部先生に怒られるだろうが! 僕が!」
「あ、ヒカル。薬飲んだ?」
「あ、そうだそうだ。サンキューあかり」
「ビールで飲むな!!」


オレの一挙手一投足に塔矢は相変わらずプリプリと怒る。
まったくもう、お前ってヤツは本当に。















「うるさいな」

「………進藤ッッ!!!!」
















いつものようにオレが何気なく呟いた一言に、塔矢の怒りが爆発する。
オレが「あーっもう!」と言って耳を塞いでも、塔矢はオレの両腕を掴んで爆発した怒りをぶちまけてくる。


……コレ、毎日家でやってる構図。
何も海に来てまでやることないのになぁ。



「本当にキミってヤツはいつもいつもどうしてそういい加減なんだ! 自分のことだろう!」
「だってさあ」
「だってじゃない! 自分の体調管理くらいキッチリやれ!
 キミがだらしないから、何故か僕が怒られるんじゃないか!」
「知らないよ、そんなの」
「知らないじゃない! 大体先週の名人戦…! あのザマはなんだ!」
「あー…アレは悪かったと思ってるよ」
「『前日にラーメンを食べ過ぎたせいで腹を下しました』なんて、そんなバカげた理由で緒方さんに負けて!
 僕との対局を無駄にしたんだぞ、キミは!」
「バカげたとか言うなよ〜。久しぶりに食べたから、美味しかったんだもん」
「そういう問題じゃないだろう! 大体本因坊戦だって…!」
「…ああ。まだ根に持ってんの、お前」
「………!!!!! 僕があの時どんな思いをしたと思ってるんだ、キミは!!!」
「何度も聞いたよ〜」
「大体、待ちに待った夢の挑戦に『寝坊で不戦敗』するバカが何処にいるんだーッッ!!」
「ああ……ハハ……なんか…夢見てたら…スゲー寝ちゃって」
「あの日、幽玄の間にキミがいないのを知って…!
 その後病院に行って寝ているキミを見た時の僕の気持ちをキミはわかっているのか!?」
「悪かったと思ってるよ。もういいじゃん、本因坊獲れたんだから」
「………!!!!! キミはな〜っ!」
「あっ! 和谷、社っ! 何処行くんだよ!」



いつの間にか、先程まで傍にいた和谷や社、そしてあかりまでもがいなくなっている。
遠く離れた波打ち際で、和谷が「夫婦ゲンカは犬も食わぬって言うだろーっ!」と叫んだ。
その言葉を聞いて、社とあかりがゲラゲラと笑う。


「ハハ、夫婦ゲンカだって」
「……ッ……!!」


オレの言葉に、塔矢は今度は真っ赤になる。
ホント、忙しいヤツだなお前。


そんな塔矢を見てオレがクスクスと笑っていると、塔矢は傍に置いてあった社の大きな水鉄砲を構え、和谷に向かって走っていく。
その時の塔矢の形相がよっぽど恐ろしいものだったのだろう、和谷と社は「ギャーッ!」と叫び声を上げて海の中へと逃げ込んでいった。
そうして和谷、社、塔矢の3人は海辺で水を掛け合いながら騒ぎ続ける。
いつの間にかオレの隣に戻ってきていたあかりが「ホント、しょうがない人たちですね、ひかる」とオレと同じ名前の赤ん坊に優しく語りかけ、赤ん坊──ひかるは、オレの顔を見ながら嬉しそうに笑った。





































































ホント、しょうがないヤツだよな。

塔矢。




































































































────5月の、あの日。




因島から戻ってきて塔矢と別れたオレは、病院の前で倒れて意識を失ってしまった。
さすがにもうダメかなと思った。
どんなに頑張っても身体はピクリとも動かなかったし、今までは発作を起こしてもハッキリとしていた意識が、次第にボンヤリとしていくのが頭の片隅でわかった。






……ああ、あともうちょっとだったのに。
塔矢、ごめんな。











そのまま目を閉じて──意識だけが身体から離れてどこか遠くへ飛ばされるのがわかった。
ああ、ここが『あの世界』の入り口なのかも……なんて思いながら目をあけると──目の前には以前にも見たことがある景色が広がっていた。


白い白い世界。時折、キラキラとしたものが舞い降りてきて足下に輝く道を作る。
オレは今まで、この世界を2度見たことがあった。



1度目は幼い頃──この世界でオレはアイツに名前を呼ばれて、命を与えられ、生まれ変わることが出来た。
2度目はアイツがいなくなった時──アイツは懐かしい笑顔を浮かべて、オレに扇子を……『神の一手』を打つという夢を託してくれたのだ。











そしてオレはもう一度この世界へと来て──再びアイツに名前を呼ばれる。

懐かしい笑顔で。優しい声で。




































































『ヒカル』と。
































































アイツは、オレと同じようにこの世界へやって来た塔矢と囲碁を打ってくれて──オレの夢を叶えてくれた。
それからアイツと『二人で一緒に塔矢に謝る』というオレの『目的』も、果たすことが出来たのだ。


塔矢、今まで本当にごめんな。
これで暫くの間お別れになっちゃうけど、オレ──


オレがそんなことを思っていた時、塔矢が大きな声でアイツに向かって言った。
























『謝らないでください!』

『僕は、僕はずっとお礼が言いたかった!』

『ありがとう、って』
























塔矢はアイツに「ありがとう」と言ったのだ。



「ありがとう」って─────
















































その塔矢の言葉を聞いたアイツは、昔と同じ優しい顔でニッコリと微笑みながら塔矢に言った。



























































『お礼なんていりませんよ』


『……でもその代わりと言ってはなんですが』







































『私のお願い、一つだけ聞いてもらえませんか?』






































































































『塔矢、──そしてヒカル』


















『囲碁は楽しいでしょう?』


















『だから』




























































































































『もう少しだけ、二人で打ってらっしゃい』









































































































































































──そうしてオレは、今一度この世界へと戻る──。











昔。
幼い頃のオレがアイツを受け入れるために神様から時間をもらったように。
今度はアイツが──神様になったアイツがオレに、塔矢といるために少しだけ時間をくれたんだ。














神様がくれたこの時間がどれくらいあるのかは、わからない。
でもオレは今もこうして、塔矢やみんなと一緒に過ごすことが出来ている。































































『囲碁は楽しいでしょう? ヒカル』


























うん。囲碁は本当に楽しいよ。

オレ、本当に囲碁が大好きだよ。







































































































大好きだよ、佐為。

ありがとな。
























































それから。










































































「塔矢ーっ」













































































オレが砂浜から大声で塔矢の名を呼ぶと、塔矢はずぶ濡れになりながらオレに向かって振り返る。











「ありがとなーっ」












オレがそう叫ぶと、塔矢は怪訝そうな顔をしながら「ビール代なら、後で精算するからな!」と的はずれなことを言って再び和谷たちを追いかけて海の中へと入っていった。









































塔矢、ありがとな。

オレさ、本当にお前のこと。


























































































「大好きだよーっ」










































































































──それから。

進藤はその後1年近くしぶとく生きて、翌年の5月──20歳でこの世を去った。
その去り際がどうだったのか、僕は知らない。

ただ何年か後になって永夏と仕事で日本に行った時、塔矢に再会する機会があった。
塔矢は、とても穏やかで幸せな顔をしていた。

だからきっと、最後に塔矢と進藤が歩んだ道は、きっと幸せなものだったに違いないと僕は思っている。















進藤。

お前、今笑ってる?










笑ってるよな。











笑ってたら、いいな。

































































進藤────



























































































































































































































































































「……や、塔矢」

「……進藤……?」















































































「へへ、久しぶり」

「……ここは?」

「お前、よく頑張ったな。ずっと見てた。すごかったよ」

「……キミは…変わってないな」

「お前だって変わってないよ。オカッパのまま」

「そ、そうかな」

「ホラ、行こうぜ!」






































「し、進藤、どこへ?」

「いいからいいから」







































「……ここは……確か、キミのおじいさんの家…」

「ホラ、こっちこっち。蔵の中行くぞ」






































「……これは……碁盤?」

「うん。オレはここから始まったんだ」






































「……僕、この碁盤、初めてではない気がする」

「え?」

「……以前どこかで……そうだ、夢の中で」

「──」

「夢の中で、この碁盤で打った気がする」

「──」

「キミの隣にいた──あの」










































そこまで言って、互いの顔を見る。
その名前は口にしない。

口にしなくたって、名前を呼ばなくたって、もうわかるから。







僕等は、一緒にいるのだから。
































さあ。










































































「一緒に打とう」








end.




あとがき