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透き通るような青い空。
ゆっくりと流れてゆく白い雲。
暖かい春の日が射す──5月。
高い鳴き声を上げ、空を横切ってゆく白いカモメ。
静かに打ち寄せる波は、すべてを飲み込んで海へと還っていく。
──あの日と変わらない。
「アキラちゃーん!」
名前を呼ばれてふと顔を上げる。
小さな手を空に向かって伸ばして、何度も何度も大きく振り続けている。
そんな彼女を見て僕はクスリと笑い、再び空を見上げた。
青い空、白い雲。
あの日と同じ。
僕等があの場所を目指した、あの日と同じだよ。
──進藤。
僕等の目指した場所。
そこはinnocent world。
innocent world
act.12
-Last-
「うわーっ! 相変わらず綺麗だなーっ」
バスの座席から身を乗り出し、窓にへばりつくようにしながら海を眺めて笑う。
「おい、大人しくしろ」と注意する僕などお構いなしに、進藤は窓の外を眺めては何度も「変わってないなー」と繰り返した。
僕等を乗せて走るバスの窓の外から見える景色──それは、瀬戸内海の景色。
僕等は今、本州から因島へと向かっている。
ハシャぐ進藤を落ち着かせながら、僕は昨夜のことを思い出していた。
──昨夜、4月30日。
国際棋戦の準決勝を終えて一旦帰国した僕は、空港からその足で進藤のいる病院へと向かった。
心配だった。
国際棋戦が始まってからというものの、この2ヶ月は韓国と日本を行ったり来たりするばかりで、とても彼の病院まで訪れている時間は取れなかった。
彼とメール交換をしているらしい洪秀英からは「本因坊戦も順調みたいだし、大丈夫だって書いてあるよ」と聞いてはいたけれど──大丈夫なはずがなかった。
2ヶ月前に別れた時にも、すでに彼の身体は限界に近い状態だったのだ。
何度か矢部先生に問い合わせたこともあったけど、「進藤くんは大丈夫だから、今は自分のことを考えなさい」と言うばかりだった。
辛かった。心配と不安で、気が狂いそうになる夜もあった。
──それでも。
それでもそんな僕を支えたのは、進藤と交わした「約束」だった。
『一緒に夢を叶えよう』と。
そう約束したのだ、彼と。
夢を──塔矢行洋に棋士として挑むという僕の夢を叶えるまでは、僕は囲碁を打ち続けるんだ。
それまで僕は、絶対に泣かない。
そう決めたのだから。
そうして漸くその夢を叶える一歩手前まで来て──僕は2ヶ月ぶりに進藤と再会した。
夜の病室で、月明かりを背に浴びながら彼は「塔矢」と僕の名前を優しい声で呼んだ。
顔半分が隠れてしまう程の大きな白いマスクをして、小さかった身体はさらに小さくなってしまっていたけれど──それでも進藤は、そこにいたんだ。
僕の名前を呼んでくれたんだ。
僕を待っていてくれたんだ。
彼がそこにいる。
ただそれだけが、嬉しかった。
ありがとう、進藤。
よく頑張ったね。
そして国際棋戦の決勝まで3日の休みがあると言った僕に、彼は言う。
『今までずーっとワガママだったオレの、人生最大で最後のワガママだ。
……聞いてくれる?』
彼の言う『人生最大で最後のワガママ』──それは、因島へ行くということだった。
因島、本因坊秀策の生まれ故郷。
そこへ僕と共に旅をすること。
それが、進藤の望みだった。
無茶なことを、と思った。
とても病院から離れられる身体ではないのだ。
でもそんなことは、僕に言われるまでもなく彼自身が一番わかっていることだ。
それでも彼は言うのだ。
僕と共に秀策の故郷へ行きたい、と。
そんな彼の望みを、僕は止める理由も術もなかった。
──それから。
もう夜中だというのに、矢部先生、そして進藤のご両親を病室へと呼び寄せて、僕等は必死になって説得を始めた。
進藤のご両親からは当然「冗談じゃない!」「無茶だ!」と大反対を受けるし、矢部先生も本当に困った顔をして「う〜む…」と唸って黙り込んでしまった。
そんなご両親と矢部先生に向かって、進藤は言った。
「塔矢も一緒だから。大丈夫だよ、お母さん」
「………」
「お母さん、一年前にオレが家を出るって言った時、『塔矢も一緒だから』って言ったら許してくれたじゃん」
「………」
「あの時と一緒だよ。だから大丈夫。塔矢が一緒だもん、大丈夫だよ」
そう言って彼はお母さんの手を取ってニッコリと笑った。
僕が一緒だから大丈夫だなんて。そんな保証はどこにもないじゃないか。
そんな保証、どこにもないのに。
それでも彼の母親は、そう言う自分の息子を抱きしめて「…塔矢くんの言うことを、ちゃんと聞きなさいね」と言った。
そう──言ってくれたのだ。
その言葉を聞いて、僕は彼のご両親に深く頭を下げた。
床に向かって頭を下げたら身体の中の水分まで下がってきてしまって、思わずそれが目から零れそうになってしまった。
ダメだ、泣かないって決めたじゃないか。
僕は泣かないんだ。絶対に。
そうして、彼のご両親の理解を得て。
矢部先生からたくさんの薬と何かがあった時のための細かい指示をすべて頭に叩き込んで。
僕と進藤は、因島へ向かって旅に出た。
東京駅から新幹線で福山まで。
そこから電車を乗り継いで尾道へと向かう。
そして尾道からバスで因島へと入っていく。
東京から5時間以上かかってしまうこの道のりは、健康な人間でも十分に疲れてしまう距離だ。
とても因島まで着くことなど出来ないのではないか……と考えていた僕の心配は、全くの杞憂に終わった。
道中での進藤はというと、まるで病院に入院していたのが嘘のように元気だった。
新幹線に乗っては「あれって富士山じゃねえ!?」なんて言って大ハシャギをし、こうしてバスに乗っては「海が綺麗だなー!」と言ってまた大ハシャギをし──そして、現在に至るのである。
進藤は元気だった。
まるでこの日のために──僅かな力を残していたかのように。
さすがに駅の階段はキツくて、エスカレーターやエレベーターを使った。
普通に歩く速度も、健康な人間の何倍もの時間を要した。
ゆっくり、本当にゆっくりとしか歩くことの出来ない彼は、支える僕の顔を何度も覗き見て「ごめんな」と繰り返した。
昼ご飯にと買った駅弁も、ほんの僅かしか食べることが出来なかった。
春とはいえ昼間の太陽の強い日差しは辛いらしく、顔がすっぽりと隠れてしまう程の大きな帽子を被った。
それでも彼は、因島へと向かう。
僕と共に。
「ホント、前来た時と変わってないな」
「……そうなんだ」
「なあ、ここの景色っていつからこんな感じだったのかな」
「え?」
「虎次郎やアイツも──同じ景色を見ていたのかな」
そう言って彼は、何かを頭に思い描いてフワリと笑った。
最後の力を振り絞って、彼はあの島へと向かうのだ。
『アイツ』に会うために。
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