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12-2
「…………ハァ、ハァ……っ……」
「……大丈夫か?」
僕が手を差し伸べると、彼は顔を上げてブンブンと首を横に振った。
それでも心配な僕は「でも」と言って石段を降り、彼のすぐ隣まで行って再び手を差し出す。
だが彼は僕の手を遮ると再び首を大きく横に振った。
「………ハァ、ハァ……大丈夫、大丈夫だから」
「しかし」
「ヘヘヘ……情けないなあ……前……来た時は……駆け足で登れたのにな……」
彼は息苦しそうに笑いながらそう言うと、ずれてしまった帽子をもう一度深く被りなおしてフウと息をついた。
石壁に寄り掛かりながら僅かに休憩をとり、背後に広がる景色を振り返る。
山の中腹当たるその場所は、振り返れば遠くの山々まで見渡すことが出来た。
「……ハァ……ハハ、いい眺め……。緒方さん、絶対に墓参り来れないな」
「……うん。そうだね」
「よし、あともう少し……頑張るか」
そう言うと彼は寄り掛かっていた石壁から身体を離し、ヨロヨロとしながらも再び石段に足をかけた。
だがその瞬間──体勢を崩して、フラリと倒れそうになってしまう。
慌てて横にいた僕が彼の腕と腰を掴んで支えると、彼は再びハアハアと息を切らしながら「ハハ、悪ィ」と言って苦しそうに笑った。
……やっぱり、いくら何でも無理だ。
この石段と坂道を今の彼の体力で登り切るのは余りにもキツすぎる。
そう思った僕は、彼の腕を掴んだまま「このままおぶろうか?」と彼に問い掛けた。
だが彼は先程よりもさらにブンブンと強く首を横に振ると、僕から離れて「そんなみっともないマネ、出来るか!」と言った。
「みっともなくなんかない。だから…」
「塔矢、ありがとな。でも大丈夫だよ」
「しかし」
「ここは……ここだけは、自分の力で登りたいんだ」
あれ程苦しそうに乱していた息を止め──彼は真っ直ぐに前を見つめると、力強い言葉でそう言った。
ここだけは、自分の力で──か。
その言葉に僕が「……わかった。ゆっくり行こう」と答えると、彼は嬉しそうにニッコリと笑った。
それから彼は、一段一段を踏みしめるようにしながら、ゆっくりと石段を登った。
途中で何度も何度も立ち止まりながら──それでも彼は、自分一人だけの力で登っていった。
そうして、1時間以上かかったのだろうか。
漸く彼が「自分の力で登りたい」と言っていた場所にたどり着くことが出来た。
──そう、ここは。
「……やっと、来れたな」
「………」
「塔矢と二人で来れた」
「………」
「遅くなってごめんな──虎次郎」
本因坊秀策の墓だった。
因島のちょうど中心あたりにある本因坊秀策生誕の地は、現在は石切神社という小さな神社になっている。
山に囲まれた地にひっそりと建つその神社は、まるで石を持った時に広がる空気と同じような──神聖で静粛な空気の中に包まれていた。
この神社に秀策の墓があると聞いていたのだけれど、小さな敷地の中に墓地は見当たらない。
キョロキョロとしていた僕に、進藤が「お墓は別のところにあるんだよ」と言って指差した先が──この山の中腹を削って作られたような墓地だったのだ。
神社から健康な大人の足で歩いても15分程はかかる。現在の進藤の体力では1時間以上かかってしまった。
そんなキツイ坂道と石段を乗り越えた先に──秀策の小さな古い墓は建っていた。
その墓の前で進藤はもう一度「虎次郎」と愛しそうに秀策の名前を呼ぶと、そっと手を合わせた。
秀策が生まれた地で。育った地で。そして眠る地で。
彼の名前を呼んで。
キミは、何を祈っているの?
墓の前で手を合わせる進藤の横顔を見ながら、僕も彼に倣い静かに手を合わせた。
春の暖かい日差しが、祈る僕等を静かに照らしていた。
++++++
秀策の墓参りを済ませてなんとか山を下りた僕等は、再び石切神社の境内に戻ってきていた。
かなり疲れてしまったのか、グッタリとしている進藤を秀策の碑の傍にある石の上に座らせると、僕は彼に水と薬を手渡す。
進藤は苦しそうに息を切らしながらもなんとか薬を水で流し込むと、フウと息をついた。
心配そうに彼の顔を覗き込む僕を見て、進藤は帽子を少しだけずらして顔を見せ、ニッコリと笑った。
「大丈夫。そんな顔するなよ」
「……でも」
「塔矢……アレ、持ってきてくれた? 出してもらっていいかな」
心配する僕の言葉を遮るようにして進藤はそう言うと、静かで真剣な表情になってジッと僕を見つめた。
彼の言葉に気押されるようにして、僕は「ああ…」と返事をすると鞄から分厚い封筒を取り出して彼に見せた。
彼は僕からその封筒を受け取り、中身を出して静かに微笑む。
「ありがとう。重かっただろ?」
「……いや」
「やっと──これでやっと、アイツに見せることが出来るよ」
そう言って彼が取り出したのは──棋譜。
彼と『アイツ』が作り上げた棋譜。
──半年前。
北斗杯の後に突然彼が姿を消した時。
彼はこの棋譜を持って、一人でこの因島へ向かおうとしていた。
だが途中で立ち寄った社の元で体調を崩してしまった彼は結局ここまで来ることは出来ず、社に頼んで東京の本妙寺でこの棋譜を燃やそうとしていたのだ。
そんな時、彼を探し続けていた僕がこの棋譜を見つけ──そのまま、彼に内緒で僕が保管していたのだ。
それから時が流れて──今から2ヶ月半程前。
本妙寺へ二人で出掛けた時に、彼はこの棋譜についてこう言った。
『アイツとの思い出がたくさん詰まった大切な棋譜』だと。
そして秀策が眠る地でこれを燃やして──『あの世界』にいる『アイツ』に見てもらうのだ、と。
そうしてあの棋譜は再び進藤の手に戻り──進藤は、因島の地でこの棋譜を燃やすことを固く決めていたようだった。
バサリ、と音を立てて棋譜が地に落とされる。
進藤は持ってきていたライターを点火すると、そのままゆっくりと棋譜に炎を近づけていった。
ああ、燃やされてしまう。
進藤の棋譜が。
進藤の大切な思い出がたくさん詰まった棋譜が。
僕の大好きな、キミの棋譜が。
「待って!!」
突然大きな声を出した僕に、進藤は驚いてライターをポトリと地面に落としてしまう。
だが幸いなことに火は消えており、棋譜は燃やされぬまま風に煽られて、パラパラと音をたてて捲れた。
進藤は驚いた顔で僕をジッと見つめる。
僕は地面に落ちたライターを急いで拾うと、ギュッと力強く握りしめた。
「塔矢、どうし……」
「燃やさないとダメなのか? やっぱり」
ライターを握りしめて俯きながらそういう僕に、進藤は再び「塔矢」と声をかける。
そんな彼に向かって、僕は必死ともいえるような形相になって口を開いた。
「燃やしたくない。僕は燃やしてしまいたくない。キミの大切な思い出を」
「──……」
「僕がこれからも、この棋譜を持っていてはダメか?」
彼の腕を掴みながらそう言う僕に、進藤は瞳を大きく開いて僕をジッと見つめた。
僕はさらに必死になって言葉を続ける。
「大切に、大切に保管するから!」
「………」
「持っていたいんだ、僕も。
キミが『アイツ』を思い出すためにこの棋譜を持っていたように──僕も持っていたいんだ。
キミの思い出を」
「………」
「だから、僕は」
僕がそこまで言いかけた時、進藤は屈んで地面に置いてあった棋譜を拾い上げると、パンパンと砂を叩いた。
そして酷く優しい顔で微笑むと、僕にその棋譜を差し出す。
「……進」
「わかった。じゃあいつか──お前の手で『あの世界』に持ってきてくれな」
ニッコリと笑いながらそう言う進藤から棋譜を受け取ると、進藤はそのまま身体を僅かに前に倒し、僕の肩にそっと自分の額を乗せた。
そして、消えてしまいそうな小さな声で僕に言う。
「……塔矢、ありがとな」
「………」
「本当に、ありがと」
「ごめんな」
進藤、ありがとう。
ごめんね。
++++++
それから、僕はかなり疲れてしまったらしい進藤を支えながら石切神社を出た。
東京を出てからゆっくりとはいえ、ほぼ休まない状態でここまで来たのだ。
進藤がグッタリとしてしまうのも無理はない。
だがホテルに行こうにも周りに広がるのは山ばかりで、人もほとんど通らぬ場所に車などが走っているはずもなかった。
ああ、来た時に乗ってきたタクシーを待たせておくんだった。
だが今更そんなことを思っても仕方がない。
僕は進藤を支えながら、彼を少しでも休ませることが出来る場所を探して、石切神社から少し離れた場所にある小さな公園へと向かった。
誰もいない静かな公園のベンチに進藤を座らせ、僕もその横に座る。
「水は?」と言ってペットボトルを差し出したが、進藤はフルフルと首を横に振って静かに僕の肩に身を預けた。
帽子の下の小さな額にそっと触る。
──熱はない。だがそれも薬で無理矢理抑えているだけだ。
僕が「ちょっと待ってて。今タクシーを呼んで…」と言いかけた時、進藤は僕の肩に額を乗せたままクスクスと笑い出した。
突然笑い出した彼に「どうしたの?」と言うと、彼は笑いながら口を開いた。
「前にもこんなことあったなあ、って思い出してた」
「前にも?」
「うん……オレが社のトコにいた時。
社の家の側の公園でお前に見つかって……誰もいない公園で、二人でこうして並んで座ってた」
「……そうか。そんなこともあったな」
「うん。あったあった。
でも……変なの。たった1年くらい前のことなのに……なんだか、すごい昔のことみたい」
進藤は懐かしむような優しい声でそう言うと、再びクスクスと笑った。
──そう、キミが突然いなくなってしまったあの時。
あの時も確か5月だった。
あの日も今日と同じように、春の日の優しい木漏れ日が座る僕等を暖かく照らしていた。
暖かい風がフワリとそよいで、緑の木々を静かに揺らしていた。
あの時のキミは僕の横に座って、足をブラブラとさせながら言ったんだ。
『ごめんな』って。
突然いなくなってしまってごめんね、と。
キミは言ったんだ。
なのにキミは──また、僕の前からいなくなってしまうんだな。
そんなことを考えながら、緑の葉を生い茂らす木の下で青い空を見上げた時──僕の肩にもたれ掛かっていた進藤が「あ」と大きな声を上げて身を起こした。
驚いた僕が「どうしたの?」と尋ねると、進藤は何も言わぬまま静かに前を指差す。
彼が指を差す方へ視線を向けると、そこにあったのは。
「……ベンチ?」
彼が指を差したのは、今僕等が座っているものと何ら変わらない石のベンチ。
一体あのベンチがなんだというのだろうか。
僕が首を傾げていると、進藤は指を差したまま「ベンチだけど、よく見て!」と大きな声で言った。
僕は彼の差すベンチを確かめるべく、立ち上がって近づく。
すると、そのベンチにあったのは──
「碁盤だ……」
──そう。石で出来たそのベンチには、十九路の碁盤が彫られていたのだ。
秀策が生まれた土地ならでは、であろうか。
驚いた僕は、思わずそのベンチに腰を下ろす。
すると、いつの間にか僕の後をついてきていた進藤も、その彫られた碁盤を僕と挟むような形で静かに腰を下ろした。
春の木漏れ日が射す下で、彼は静かにその彫られた碁盤を撫でた。
「すごいな…誰が作ったのかな」
「秀策が生まれた地だからね。きっと街の人が秀策を想って作ったんだよ」
「秀策を想って…」
彼はそう言うと、碁盤に向けていた顔を上げて前を見て、どこか遠くを見るような目をしながら言葉を続けた。
「秀策も……こうして天気がいい日は、外で碁を打ったりしたのかな」
「……ああ、そうかもしれないね」
「そうだよな。お城なんかじゃなくて、きっと木漏れ日の射す外で」
「………」
「誰かと向き合って、明るい光の下で」
「………」
「きっと、『アイツ』とも打って──」
進藤はそう言って静かに目を閉じる。
僕は黙ったまま彼を見つめた。
その瞼の裏で、キミは何を見ているのだろう。
明るい日の下で秀策と『アイツ』が打っている姿を、思い浮かべているのかな。
ねえ、進藤──
「塔矢」
閉じていた目を開け、彼は突然僕の方へと顔を向けると力強い声で僕の名を呼んだ。
突然名を呼ばれて驚いた僕が「な、なに?」と返事をすると、彼は久しぶりに見る──強い光を含んだ瞳で、僕を見つめながら言った。
「今から打とう」
「え?」
突然の彼の言葉に、思わず僕は聞き返す。
先程までのグッタリとしていた姿がまるで嘘のように、彼は姿勢を正して真っ直ぐに座り僕を見つめながら再び口を開いた。
「囲碁、今から打とう」
「……ここで?」
「うん。今なら打てそうな気がするんだ」
春の暖かい日差しが射す中、彼は静かな声で僕に言う。
「今なら打てる」
「神の一手が」
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