12-4








12手目を数える頃、右下で激しい攻防が始まった。
そのまま僕と彼の右下の攻防は60手を越えるまで続けられる。
彼が激しい打ち込みで白の領域に入ってくれば、僕はそれを受け止めて薙ぎ払う。
それをひたすら繰り返し、その戦いはいつの間にか中央、そして左上へと移っていき、碁盤全体へと繰り広げられていった。







誰もいない、静かな世界。
ここは、僕とキミしか行くことの出来ない二人の宇宙。















キミが、そして僕が一手を打つ度に、僕等のいるこの宇宙に新たな星が生まれていく。






























僕は時折顔を上げて、目の前に座る彼を見る。
彼は酷く静かな表情でジッと碁盤を見つめていた。


彼の手によって打たれ、生まれていく星。そして消えていく星。
星が生まれて消えていく様を、彼は神々しいとも言える程の美しく静かな表情で見つめている。


碁盤の宇宙を造り出していく彼の姿を見て、僕は思う。



















まるで神のようだ。























──そしてその彼が打つ一手一手に、僕は覚えがある。
だって僕は、かつて「神」のような力を持つ人と碁を打ったことがあるから。




その人の名は──sai。












先程から打たれていく彼の一手を受け止める度に、僕はずっと感じていた。
彼の中に棲む、かつて見たsaiの存在を。
この一手も。あの一手も。今彼が打つ一手は、すべてsaiが打つであろう一手と同じだ。
僕とキミが出会い、そして初めて打ったあの時と同じ──遙かなる高みから打たれる一手。





『キミの中にはもう一人のキミがいる』──かつて僕がキミに言った言葉だ。
あの時も、確かに僕はキミの中にsaiを感じた。
だが、その時のキミとsaiの間にはまだ大きな差があった。
力の差、経験の差、深さの差。すべてにおいてキミとsaiの間には長い長い距離があった。



だが今はどうだ。



僕は時折顔を上げ、目の前に座るのは進藤ヒカルなのだということを確認しなければならない程、彼の打つ一手とsaiの打つ一手が重なって見えた。
もしかして僕と今打っているのはsaiなのではないか? 
そう思う度に、僕は顔を上げて彼を見た。







ねえ、進藤。
キミにとってsaiってどんな存在だったのだろう。

きっと、とてもとても幸せな存在だったんだろうね。




















では、キミとって僕は?
僕は、どんな存在だったのかな。

『あの世界』に行ってsaiに会って──キミは僕のことを何て話すのだろう。




























ねえ、進藤─────















































































その時。

音もなく──彼の手から黒石が打たれた。








































その黒石を打った時。
確かに彼の指先が目映い程の光に包まれたように見えた。





僕は目が眩む程に強く光るその指先を見る。











































これは。この一手は。











































黒、135手目。






遙かなる高みから、碁盤の宇宙に舞い降りた神が放つ一手。






今まで何処にもない、そして誰も打ったことがない──至高の一手。

















































































──これが、神の一手……














































































どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
その一手が打たれてから、僕はどうしていたのだろう。
彼の光る指先を見てから、僕は。

我に返る。

サワサワと緑の木々は音を立てて揺れ、石の碁盤に映る木漏れ日はまるで踊っているかのようにその光の形を変えている。
目の前の碁盤を見る。

黒、227手目。

いつの間にこんなにも手が進んでいたのだろうか。
あの135手目の後、僕はどのようにしてここまで打ってきたのだろう。
よくわからない。
あまりにも目映い光を見たせいなのか、頭がどこかボーッとしているようだった。

次は僕の番だ。
打たなければ。打たなければ、と思う。
だが──どこを探しても、もう僕が打てる場所は一つもなかった。




この──135手目が。





この碁盤の星々全てを司っているといっても過言ではない、この神の一手が。







この碁盤の宇宙を。
僕とキミが打った囲碁のすべてを。

僕とキミを。







すべてを物語っていた。


















これが神の一手なんだ。
saiですら打つことの出来なかった神の一手を、キミが──






































「ありません」



声が震える。先程まで碁石を持っていた右手も、目に見えてわかるほどにブルブルと震えていた。
頭を下げたら、目の辺りまでブルブルと震えてきて、涙のようなものが滲み出てきた。
何でだろう。悲しくなんかないのに。何故涙が出るんだろう。

僕は下げていた頭を上げ、目の前に座る彼の姿を見る。
すると、彼はどこかキョトンとした顔で僕等が打った碁をジッと見つめていた。
自分が造り出した宇宙を、自分が打った神の一手を、ただただジッと見つめていた。

──そのまま暫くして、彼を見つめる僕の視線に気が付いたのだろうか。
彼は碁盤に向けられていた顔を上げて、彼を見つめる僕の顔を見つめた。

悲しくもないのに、何故だか流れる涙を止めることが出来ないまま彼を見つめている僕を、彼はキョトンとした顔で見つめ返す。
まるで子供のように純粋で、そして綺麗な瞳で僕を見つめる。


















──そして。



彼は、僕を見つめたまま、フワリと微笑んだ。




























今までたくさんの笑顔のキミを見てきたけれど──その笑顔は、見たことのない程に綺麗な綺麗な笑顔だった。



まるでsaiの笑顔みたいだ。

















僕はsaiに会ったことなんてない。
顔もその姿も、何も知らないのに。

でも何故だか僕は、キミの笑顔を見て確かにそう思ったんだ。






saiのようだ──って。


















そして。

止めることの出来ない涙を流しながら、僕はわかる。
美しく微笑むキミの笑顔を見て、僕はわかる。








saiは、かつてキミの中にいた。
だが、saiはキミから遠く離れた世界へと行ってしまった。




だけど今。
キミは辿り着いたんだ。




キミはsaiのいる世界へと──『あの世界』へと辿り着いたんだ。





『神の一手』を打つことによって。




























































『神の一手』を打てたキミを、saiは迎えに来たんだな──……



























































僕は何故涙を流しているのだろう。



『神の一手』を打つキミを見ることが出来たから?

それとも、saiがキミを迎えにきてしまったから?

キミが、僕の手の届かない遠い遠い世界へと行ってしまうから?













わからない。


















わからないまま、僕はずっとずっと止まらない涙を流し続けていた。