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12-5
それから、日が暮れて──
囲碁を打ち終えた僕と進藤は、海の見える海岸へと訪れていた。
暖かい5月とはいえ、日が暮れるとさすがに少し肌寒くなる。
しかも冷たい海風の吹く海岸で、僕は何度も進藤に「大丈夫か」「寒くないか」と聞いたが、進藤は元気な様子で「平気だってば」と言って笑った。
僕よりも僅かに前を、ゆっくりと砂浜を踏みしめるようにして歩く進藤の背を見ながら、僕は先程の彼との一局を頭に思い描いていた。
──あれが、『神の一手』。
光る指先から放たれたその一手は、本当に素晴らしく、そして美しい一手だった。
その一手を見てからというものの、僕の心と頭の中には様々な感情が目まぐるしく流れ、ボロボロと零れ続ける涙を暫くの間止めることが出来なかった。
そのまま小一時間程泣き続け、漸く身体中の水分が枯れたのか涙は止まったのだが──そんなにも長い時間泣き続けてしまったせいだろうか、どこか頭が今でもボーッとしているようだった。
そんな僕を見て、本来僕が心配すべきはずの進藤の方が「大丈夫?」「目、痛くない?
」と何度も心配そうな顔をしながら僕の顔を覗き込んだ。
その神の一手を打ったはずの当の本人である進藤は、暫くの間自分の一手を見つめて考えているようだったが──涙を流す僕の顔を見てフワリと笑うと、何事もなかったかのようにジャラジャラと碁盤の上の石を崩して碁笥の中へと片づけてしまった。
「いい碁、だったな」と、一言だけ優しい声で呟いて。
それから日が傾き始めた頃に突然「海が見たい」と言い出した進藤と共に、この海岸へとやってきたのだ。
海岸を歩きながら何度も何度も彼との一局、彼の打った神の一手、そして彼の言葉を──頭の中でグルグルと再生し続けていた僕に、前を歩いていた進藤はクルリと振り返って「塔矢」と呼び掛けた。
突然名を呼ばれた僕は、驚いて顔を上げて彼を見る。
海に沈みつつある赤い夕陽を浴びながらニッコリと笑い、僕の名を呼ぶ彼の姿は本当に綺麗で──そして今にも消えてしまいそうな程に儚くて。
思わず息を飲み、僕は黙ったまま彼を見つめた。
そんな僕に、彼は笑顔で語り始めた。
「前にさ、オレ、因島に来たことあるって言っただろ」
「……うん」
「その時もさ、ここから海を見ながら『アイツ』の名前を叫んだんだ」
夕陽を見つめながら、彼は昔を懐かしんで静かに微笑んでいた。
『アイツ』と言う彼の言葉に返事をするように、砂浜に打ち寄せる波がザザザ、ザザザと音を立てる。
そんな波音を聞いて、彼はまたフワリと微笑む。
「今と同じ──あの時も返ってきたのは、波の音だけだったな」
そう言って彼は、僅かに寂しそうな瞳をしがらフフと笑う。
「バカだよな。返事なんて聞こえるはずもないのに。
それでも何度も何度も叫んでた。何度も何度も」
「………」
「叫んで──結局、返事は聞こえなかったけど……
それなら、せめてアイツの心には届いていますようにって。ただ、そう祈った」
「………」
「結局オレの声──アイツに届いていたのかな。
もう一度ここへ、因島へ来ればわかるかもしれないって思ったけど……やっぱりわからなかった」
「………」
「しょうがないよな。オレ、まだ…」
そう言いかけて──彼は途中で言葉を止め、再び静かに笑った。
そして夕陽に赤く染まる空に向かって両手を伸ばし、うーっと唸りながら身体を大きく伸ばす。
フウ、と息をついて海を見つめる。
その瞳は、先程までの寂しそうなものとは違っていて──どこかサッパリしたような、清々しい瞳で海を見つめていた。
そんな彼の言葉を黙ったまま聞いていた僕は、彼に何か言わなければ…と口を開きかけた時、海を見つめていた彼は僕の方へと振り返って、満面の笑顔を浮かべながら突然大きな声で叫んだ。
「塔矢! 競争しよーぜ!」
「……は?」
「ヨーイ、ドン!!」
そう言うや否や、彼は砂浜を蹴飛ばして海岸を走っていった。
夕陽の赤い光が、僕の元から走っていく彼の小さな背中を照らしている。
まるで夕陽に吸い込まれるようにしながら──彼は走っていく。
僕の元から、遠く離れていく。
このまま、『アイツ』のいる『あの世界』へと向かって、キミは──
「うわっ!」
駆けてゆく彼の背中を背後から包むようにして抱きしめた僕に、進藤は驚いて声をあげる。
いくら僕よりも先に走っていったとはいえ、体力の落ちている彼だ。容易く追いつくことの出来た僕は、その細い背中を力強く抱きしめた。
僕の腕の中で、進藤はハァハァと息を切らしながらアハハと笑った。
「ハァ…ハァ…ハハハ、かけっこで塔矢に追いつかれるなんて……情けないなー…」
「……辛かった?」
「え?」
彼を力強く抱きしめ、細い首元に顔を埋めながらそう尋ねる僕の言葉に、進藤は「何が?」と言いながら顔を僅かに背後の僕へと向ける。
先程の進藤の言葉が頭の中を回り続けている僕は、とても進藤の顔を見ることなど出来ぬまま、言葉を続けた。
「『アイツ』の名を叫び続けて……返事が聞こえなくて……辛かった?」
「………」
「辛かった…?」
「……うん、辛かった」
僕の問い掛けの意味を理解した進藤は、静かな声で正直に自分の気持ちを語ってくれた。
その進藤の言葉を聞いて、僕は彼を抱きしめる腕にますます力を込める。
彼の胸元へ回された僕の腕は、知らぬ間にブルブルと震えているようだった。
力を込めすぎているせいなのか、それとも──
「……僕も……僕も、キミの名前を叫び続けることになるのかな」
「………」
「ここで、この場所で、キミと同じように、返事のない名前をいつまでも叫ぶのかな」
「……うん、そうかもしれない」
彼の静かな言葉に、彼を抱きしめる僕の腕はますます大きく震えた。
そう遠くない未来──きっと僕は、彼のように名前を叫び続けるのだ。
決して返事のない名前を、何度も、何度も。
そのことを想像した時──言い様のない寂しさと悲しさが僕の胸をいっぱいに包んで、僕の腕をますますブルブルと震えさせた。
そうか。僕は今やっとわかったよ。
キミはずっとずっと、『アイツ』を失った日からこんな気持ちを抱え続けていたんだね。
不安、恐怖、寂しさ、悲しさ。
こんな気持ちを抱えながらも、キミは僕の傍にいてくれたんだね。
様々な感情が心を覆い尽くしてしまい、震えの止まらない僕の腕の上に──そっと、暖かな温もりが触れた。
彼の小さな手の温もりだった。
震える僕の腕を、彼はそっと自分の手を置いて包み込んでくれたのだ。
その温もりに安心したのか、ピタリと震えの止まった僕に、進藤は優しい声で語りかけた。
「塔矢なら大丈夫だよ」
「………」
「塔矢なら、きっとすぐに聞こえるよ」
「………」
「オレの声、アイツの声──きっとお前なら、すぐ聞こえるよ」
だから大丈夫、そんなに不安がらなくていいよ。
そう優しく言った彼の言葉に、今度は涙腺がブルブルと震え始めてしまった。
おかしいな、先程まであんなに泣いて、もうさすがに涙は枯れたと思っていたのに。
その震えは進藤の優しい温もりを持ってしても止めることは出来ず、ついには彼の首元に向かってボロボロと涙を零し始めてしまった。
僕の涙を感じ取った進藤は、アハハと笑いながら何度も「泣くなよ」「大丈夫だよ」と言い続けた。
そしてその間も、ギリギリと彼の細い身体を抱きしめる僕の腕を、彼は優しく撫で続けていてくれた。
進藤、僕は聞こえるのかな。
キミの声、アイツの声。
キミを失った後でも、僕はキミの声を聞くことが出来るのだろうか。
そのまま僕は、夕陽を浴びながら進藤の背で泣き続けた。
絶対に泣かない、って決めてこの島に来たのに。
なのに今日は泣いてばっかりだ。
僕はバカだ。
そのバカな僕は暫く進藤の背で泣いていた。
進藤は何も言わず、僕の手を優しく撫で続けてくれていた。
そうして漸く僕が落ち着いてきた頃に、進藤は僕の手を静かにとり、海岸をゆっくりと歩き始めた。
まるで泣き続けていた子供の手を引いて歩く母親のように。
彼は優しく僕の手を引いて、波の打ち寄せる砂浜をゆっくりと歩いた。
手を繋いで、僕等は海岸をいつまでも歩き続けた。
いつまでも、いつまでも。
その時に話していたことといえば、何とも他愛のない話ばかりだった。
緒方さんの初恋の人は、僕の母だったこと。
社は見た目は取っ付きにくいけど、すごくイイヤツだな、ってこと。
和谷が、子供が生まれる前から子煩悩丸出しな話ばかりをする、ということ。
藤崎さんの予定日がもうすぐらしい、ということ。
きっと女の子だろう、ということ。
そんな話をしながら、僕等は二人で海辺を歩いたんだ。
いつまでも、いつまでも──
そうして僕等が二人で見た夕陽は、海の向こうに静かに沈んでいった。
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