12-8






翌朝。




鳥の囀る声で目を覚ました僕は、腕の中にいる小さな温もりへと視線をやる。
小さな温もり──進藤はすでに目を覚ましていて、寝ぼけ眼の僕と目を合わせるとクスリと笑って「おはよ」と言った。

心配していた進藤の体調は、昨夜の状態から比べると随分と回復しており、顔色も良かった。
僕が「大丈夫か?」と尋ねるよりも前に彼はベッドから起きあがって、「早く支度しろよ! 今日もお前を連れて行きたいトコロ、あるんだから!」と元気良く言った。
僕は彼に言われるがままに急いで支度をし、ホテルで簡単な朝食を済ませて彼に薬を飲ませる。
彼は僕の手を引っ張るようにして、ホテルの外へと飛び出していった。



5月2日、天気は晴れ。



澄んだ青空に、白い雲が春風に吹かれて白い筋を描いている。
進藤は目を細めながら青空を見上げた後、スーッと大きく深く息を吸い込んだ。
因島に流れる空気を、自分の身体中に染み渡らせるように。
僕も彼に倣って、澄んだ空気を胸一杯に吸い込む。
僅かに冷えた春の朝の澄んだ空気は、身体中を駆け回って浄化してくれているように、気持ちの良いものだった。
目を閉じて深呼吸をしていた僕を見上げて、進藤は小さく笑う。
そして「さ、行こうぜ!」と勢いよく僕の手を引いて、ホテルを出発した。


ホテルから因島大橋までタクシーで戻り、バスに乗り換える。
この島に来た時と同じ橋を、今度は本州へと向かって走っていった。
「因島は、もういいの?」と僕が尋ねると、彼は澄み切った笑顔を浮かべて「うん」と元気良く頷いた。
──それでも時々、彼はバスの窓から外を覗いて後ろを振り返り、因島を見つめているようだった。



秀策に──そして『アイツ』に別れを告げているのかもしれない。

彼の横顔を見ながら、僕は心の中でそう思った。






因島から本州への道を走ること約30分。
バスは尾道駅へと到着する。

僕が「どこへ行くの?」と尋ねると彼は声を弾ませて「イ・イ・ト・コ・ロ♪」と楽しそうに言った。
それから彼のゆっくりと歩くペースで、1時間程かかったのだろうか。
駅前から続く長い商店街を抜けた先に、小さな古い碁会所の看板があった。
進藤は僅かに息を切らしながら「ココ、ココ。懐かしいなー」と言って看板を指差す。
どうやら進藤は僕をこの碁会所に連れて行きたかったらしい。「懐かしい」ということは、4年前に彼が来た時もここへ訪れていた、ということか。
何か思い入れがあるのか、知り合いでもいるのか。
僕は彼に背を押されるようにして、その古い碁会所へと足を踏み入れた。


「こんにちはーっ」

進藤の明るい大きな声が小さな碁会所に響き渡る。
すると、碁を打っていた大勢の大人達の視線が、一気に僕等へと向けられた。
そしてその大人達は、僕と進藤の姿を見て全員が驚いたように大きく目を見開き、口々に「お…おい」「アレって塔矢アキラじゃないんか?」「こがぁなところに何で塔矢アキラが」と喋り出す。
騒然となる小さな碁会所で、僕がどうしたらいいのかわからず「あ、あの」と小さく口を開きかけた──その時。


「塔矢アキラじゃと?」


碁会所中に響き渡る、太くて大きな声。
一番奥に置かれた碁盤の前に座り、どんぶり飯をかき込んでいた男がゆっくりと立ち上がって僕等の方へと近づいてきた。
その男は、発せられた声同様に図体も大きな男で。
短く刈り込まれた髪に、僅かに生えた無精ひげ。
タンクトップから伸びる二の腕は筋肉が隆々とついていて、丸太のようだった。

その男は僕と進藤の前に立つと、ジロジロと僕の顔を見下ろした。
そして「フン」と言いながら僕に向かって口を開く。


「確かに塔矢アキラじゃのぉ。こがぁな小さい碁会所に、天下の名人様が何の用じゃ?」


進藤にただ連れてこられただけの僕は、どう答えたらいいのかわからず黙っていると──僕の横でニコニコしながら立っていた進藤が「わー、やっぱりココにいたー!」とその大男を見て嬉しそうに言った。


「周平さん! 絶対ココにいると思ってたけど…やっぱりいた! よかったー!」
「なんじゃ、わりゃぁ」
「あれ、オレのこと覚えてない? …あ、コレのせいかな」


首を傾げる大男に、進藤は日差しを避けるために被っていた深くて大きな帽子を脱いで、頭をフルフルと振る。
そして改めて大男──周平というその男に向かって、進藤はニッコリと笑って「久しぶり!」と言った。


「……お前……進藤か?」


周平というその男は、突然目の前に現れた進藤の顔に、大きく目を見開いて驚く。
その男の「進藤」という声に、碁会所にいた他の人々も男の背の後ろから進藤の顔を覗き見て、「進藤プロじゃ!」「進藤って…あの碁聖の?」「と、塔矢アキラと進藤ヒカルが何でこがぁな碁会所に…」とザワザワと騒ぎ始めた。
驚く目の前の男に向かって、進藤はニコニコとしながら再び声を掛けた。


「周平さん、久しぶりだね! 前にココでオレと打ったこと覚えてる?」
「お、覚えとるも何も、お前……」


男は未だに信じられないといった様子で進藤を眺めていたが、途中でハッとして「と、とりあえず中に入りんさい」と僕と進藤を彼が座っていた奥の碁盤の傍へと招き入れた。
そして僕等を座布団の上に座らせると、その男も進藤の目の前へと腰を下ろす。
ニコニコとしている進藤の顔をマジマジと見つめて、漸く事態が飲み込めたのかフーッと大きく息をついた。


「……ホンマ驚いたぞ。どうしたんじゃ、一体」
「ちょっとね、塔矢と秀策のお墓参りに来たんだ」


進藤のその言葉を聞いて、男は横に座る僕の顔をチラリと見る。
だがすぐに視線を進藤に戻し、話を続けた。


「お前、身体は大丈夫なんか? 確か本因坊戦以外は体調不良で休業中って…。
 なんだかエライ痩せてしもぉたようじゃが…」
「大丈夫だからココまで来られたんだよ」
「しかし…」
「今日はね、周平さんにお願いがあって来たんだ」


進藤は楽しそうにそう言うと、横に座っていた僕の肩を掴んでグイと男の前へと押した。
驚く僕を余所に、進藤は言葉を続ける。


「周平さんにね、塔矢と一局打って欲しいんだ」


進藤の突然の申し出に、僕と周平という男は「ええっ!?」と同時に声を上げて驚く。
そして僕等の周りにいた碁会所の客達も、一斉に同じように「ええっ!?」と声を上げた。


「進藤、何を突然…」
「いいでしょ、塔矢。お願い」
「し、しかし」


驚いた僕が進藤と話す様子を黙って見ていた周平という男は、「フン」と鼻を鳴らした後に「ワシなら別に構わんよ」と強気な口調で言った。


「天下の名人様と打てる機会なんて、めったないけぇの。
 じゃが名人相手でもワシゃぁ負ける気なんてない。望むところじゃ」


そう言う周平という男に、僕は「……わかりました」と返事をする。
すると進藤は「やった!」と言って僕の傍を離れ、碁盤の真横へと腰を下ろした。
盤を挟んだ向こう側から、周平という男が強い視線でジッと僕を見つめてくる。

……この男と進藤が、過去にどういった関係でどういった一局を打ったのか、僕は知らない。
だがこの男は少なからず進藤に思い入れがあって、あのような挑戦的な口調で僕に勝負を挑んだのも、進藤の望みを叶えるためにわざと僕をけしかけたであろうことは、明白だった。

この男が進藤の望みを叶えたいというならば。
僕はただそれを、本気で受けて立つまでだ。








「お願いします」








そして、僕と周平という男の一局は始まった。





++++++









──昼過ぎ。

よく晴れた空に登る太陽は、燦々と僕等を照らし続けている。
5月の暖かくて穏やかな風が、ゆっくりと外を流れている。


あれから2時間半あまりで周平さんとの碁を打ち終えた僕等は、周平さんや碁会所にいた人々と共に「暖談」というお好み焼き屋さんに訪れていた。
ソースのいい香りが漂う満席となった店内で、全員で先程の僕と周平さんの一局についてギャアギャアと話し続けていた。

「さすが塔矢アキラじゃのぉ」
「周平なんて、相手にもならんかったか」
「うるさい! 天下の名人相手に、善戦はしたじゃろう!」

周平さんの怒鳴り声に、皆がワハハと大声で笑い出す。
その大人達に囲まれるようにして座っていた進藤も、楽しそうにアハハと笑っていた。


進藤とは別のテーブルに周平さんと二人で座っていた僕は、進藤の様子を窺いつつも目の前の周平さんをチラリと見る。
周平さんは大口でお好み焼きをかき込みながら「完敗じゃ。じゃがえぇ碁じゃった」
と些かぶっきらぼうに言った。
そんな彼に僕は笑うと、「ええ、周平さんは十分に強かったですよ」と言った。

「ところで、進藤のことなんじゃが」

周平さんは、進藤や周りの人々に聞こえないように、僅かに声を潜ませて僕に話しかける。
僕はそんな周平さんの様子を見て、箸を置いた。


「……身体の具合……どうなんだ?
 休業っちゅうのを新聞で見て、心配しょぉったんじゃが」
「………」
「あまりようないんか」


周平さんの言葉に僕がゆっくりと頷くと、周平さんも箸を置いて「そうか…」と静かな声で言った。


「身体も一回り以上小さくなってしもぉて、大丈夫かゆぅて思うたが…
 やっぱり、そうなんか」
「……あの、ありがとうございました」
「なにが?」
「進藤の望みを叶えてくださって…」


そう言って僕が深々と頭を下げると、周平さんは「何を言っとるんじゃ」と強い口調で言った。


「アンタと勝負なんて、アマたぁいえ碁打ちとして燃えたけぇ、打ったまでじゃ!
 進藤の為でも、アンタの為でもない!」
「………」
「次回こそ、絶対リベンジしちゃるからな! 元気になった進藤と一緒に来んさい、絶対に」
「………」
「絶対だぞ」


そう言って周平さんは、熱い鉄板皿を素手で持ち上げてガツガツと口の中へお好み焼きをかき込んだ。
何かを堪えるように。これ以上自分を崩してしまわないように。
そして口中をお好み焼きで一杯にすると、フンっと鼻息を荒げる。
そんな周平さんを見て周りの大人達が「何をやっとるんじゃ、周平」「また周平のツメコミ食いが始まったぞ」と言って笑った。
進藤も本当に楽しそうに、アハハと声を上げて笑っていた。














進藤は楽しそうだった。
久しぶりに、心の底から楽しそうにハシャいで笑う進藤を見たような気がした。



良かった。


















「……今度もまた、是非お手合わせをお願いします」



そう言って頭を下げる僕に、周平さんは「フン」と言って答えてくれた。

周平さん、ありがとう。















それからお好み焼き屋さんを後にした僕等は、周平さんの車で新幹線「のぞみ」が停車する福山駅まで送ってもらうことになった。
明日には再び韓国へ発たなければならない僕のために、もう東京へ帰らなければならかったのだ。

周平さんは、僕等に山程駅弁を持たせて、ホームまで見送ってくれた。
最後に進藤と「頑張るんだぞ」と言って固い握手を交わした。進藤は「ありがとう」と言って笑った。



新幹線が発車してゆっくりと走り始めた後も、周平さんは暫くの間新幹線と一緒に走り、何度も何度も手を振ってくれた。
そんな周平さんを見ながら、進藤は「ちょっと大きくてゴツいけど、いい人だったろ?」と言って笑った。
その目元に光る小さな涙を見ながら、僕は「そうだね」と返事をした。



































──こうして僕と進藤は、秀策の生まれ故郷を後にしたのだった。