02-5






「…何、それ。
 何でお前がそんなこと知ってんの?」

碁石が彼の指を離れ、カチリと音を立てて碁笥の中に落ちた。
大きな目をさらに見開いて、じっと僕を凝視している。

しまった。完全な失言だ。
言うつもりはなかったのに。


「…もしかして、家に連絡したのか」
「迷ったんだ。でも、キミの友達は誰もキミの行き先を知らない、と。
 だから、キミの家に電話した」
「……」

彼は大きな瞳を少し伏せ、俯いてしまった。
長い明るい前髪が彼の顔を隠してしまい、表情が見えない。
時折前髪の隙間から見える顔色が、ひどく青白かった。
僕は驚いて思わず席を立つ。
気分でも悪くなってしまったのだろうか。

「進」
「……何か」
「え?」
「…………何か…言った? お母さんに」

先程とはうってかわったような、酷く小さな低い声。
耳をすまさなければ、よく聞こえない。
わずかに彼の肩が震えているのがわかる。


「大丈夫か、顔色が」
「…何か言ったのか、お前」
「あ…、いや。僕はただ」


伏せていた顔を上げる。
酷い顔色。
大きな目が不安に揺れて、僕をじっと見つめる。
何故。何故そんなに。


「……キミのお母さんが、キミは仕事で地方に行った、と…
 …キミの嘘…だとはわかったんだが、…その、事情があるのだろうと思って…

 僕は何も言わずに電話を切った」

「…そうか」


良かった、と彼は小さな声で呟くと椅子の背もたれに深く寄り掛かり、大きな溜息をついた。
何をそんなに不安がる。
元々休みを取るつもりだったのだろう。
だったら、御両親に「旅行に行ってくる」と言えばいいじゃないか。
何故、隠した。

御両親にさえ。

何故誰にも何も言わず、消えようとした?

一度おさめた疑問が再び僕の中でムクムクと頭をもたげる。




「…聞いてもいいか」
「……ん?」

彼は椅子に深く凭れたまま窓の外を見つめている。
大きな瞳は伏せられ、ぼんやりと遠くを見つめていた。


「何故御両親…、その、キミのお母さんにも、行き先を告げなかった」
「………」
「告げられない事情があるのか」
「………」


彼は、何も言わない。僕の方も見ない。
微動だにしないまま、遠い空の向こうをじっと見つめている。
ガヤガヤと碁会所の賑やかな声が耳に飛び込んでくる。

彼の顔色は、まだ青白いままのような気がする。
窓から入る光のせいだろうか?
このまま光に溶けて消えてしまいそうだ。


「…言いたくないか。僕には」
「………」
「…わかった。なら無理には聞かない」

言えないのか。やはり。

聞きたい。聞きたい。
でも、聞いたら。

聞いたら消えてしまいそうだ。
恐い。
でも、でも言わなくては。
これだけでも、せめて。
彼が何も話せないのなら、これだけはせめて。



せめて、言いたい。





「でも、御両親に心配をかけるのはよくない。
 僕に言わないのは…まあ、いい。
 でもお母さんには言え。連絡を取れ。心配をかけるな」
「………」
「『関係ない』っていっても、キミは御両親の大事な子供だ」
「………」


ピクリ、と彼の身体が動いた。



「…そして、そして僕には…
 いや僕らにはキミは、…その、……。
 僕らだって、心配くらいするんだ。
 だから、その」

「………」




せめて、言いたい。








「頼むから、
 何も言わずにいなくなるのは止めてくれ。
 
 僕は…その。

 僕は、キミをこの2週間ずっと探していて。
 なかなか見つからなくて。
 
 その、馬鹿げた考えだとは思うんだけど、本当に。
 本当に、キミがこのまま帰って来なかったらどうしようって、思って。
 すごく不安だった。恐かった。
 理由もわからず、急にいなくなってしまったから。

 …もう。
 もう、出来れば、こんな思いはしたくない。

 だから。だから、全部ではなくてもいいから。
 話せることだけでもいいから。
 きちんと理由を言ってくれ」







声が震える。
言葉を選びながら話す。
これが、これが今何も話せない(らしい)彼に今僕が言える、せめてもの僕の2週間分の想いだ。

伝わるだろうか。彼に。



何となく僕は彼から目線を逸らし、握り込んだ自分の両手を見つめた。
手のひらに汗をかいているのがわかる。
とてもじゃないが、彼を見つめていることは出来なかった


「……とーや」


しばらくして、小さな震える声が僕を呼ぶのが聞こえた。 
驚いて顔を上げる。



「ごめん」


途中まで打っていた碁盤の上に、彼の涙がポタポタと落ちた。
不自然に心臓が跳ねる。

何故。
何か僕はキミが泣いてしまうようなことを言ったか?
ただ、ただ、その。
御両親には心配をかけるな、ということと、その、何も言わずにいなくなるのはヤメロということと、その。


「ごめん」


涙が止まらずに流れ続ける。
動揺した僕はどうしたらいいのかわからず、とりあえずお茶を一口飲んでみたりして、違うだろと思いながら慌ててポケットからハンカチを差し出す。
彼は、僕のハンカチを受け取らず涙を流し続ける。


「ごめん」


何もそんな。何も僕は怒った訳じゃない。
あんなに言葉を慎重に選びながら、むしろこちらが最後の審判を待つような気持ちで言ったのに。
進藤。


「ごめん」


進藤。


「ごめん」


もういいよ。だから。


「ごめん」


泣かないで。








「……ごめんな……」












結局、その後進藤が泣き止むのに30分を要した。
その間碁会所のお客さんたちにはジロジロ見られるわ、「何や、ケンカか」と3人程の年配の方に絡まれるわで、大変だった。
泣き止んだ後はなんとなくいたたまれなくなり、対局は途中だったが碁会所を出た。
歩きながら、進藤が泣き出した時点で碁会所を出れば良かったじゃないか、と思ったが後の祭りだった。


時折、背後からスンスンと鼻をすする音が聞こえた。
慌てて振り返ると、何?という顔で見返された。
進藤の目は可哀想なくらい腫れ上がってしまい、鼻も目も大惨事になっていた。

…元のあの公園で少し休ませよう。このまま社の家に帰るのも嫌がるだろう(というか僕が嫌だ)。

でも、何故。
何故あんなに泣き出してしまったんだろう。
僕は何か悪いことでも言ったかな。

わからなかった。












当時の僕は、とにかくその時の自分の言動をひたすら振り返ってはグルグルと考え倦ねることしかできなかった。
何故、進藤があんなに涙を零したのか、まるでわからなかったのだ。














それを痛い程思い知るのは、随分後になってからのことだった。