03-2







「ただいま」




塔矢が帰ってきた。
時計は夜10時を指していた。
今日は確か、塔矢先生の頃から付き合いのあるお客さんの指導碁だから遅くなるかもって言っていたっけ。

「おかえりー」

オレは塔矢の方を見ずに返事だけをした。
それどころではないのだ。
今一瞬でもスキを見せたら、オレの平八がやられてしまうのだ。
平八! 負けるな! イケ! そこで必殺の…


「進藤」



必殺技をくらってしまったのは平八の方だった…。
ああ…あと一歩だったのに。
塔矢がそんな地獄の底から出すようなドスのきいた声でオレを呼ぶからだ。
オレは溜息をつきながらゲームの電源を落とし、塔矢の方へ向きなおした。

塔矢はスーツの上着を脱ぎ、フーっとネクタイを緩めながらオレの方を睨んでいる。
なんだよ塔矢、親父くさい。
塔矢もそんなに背は高い方ではなく細い方だと思うけど、オレよりは背が高い。
スーツを脱ぐと、やっぱりオレよりは肩幅とかもあるような気がする。
なんだよ、運動とかしていない(と思う)くせに、なんでオレより(ホントに少しだけだけど)デカくなるんだよ。

そんなことを考えながら、オレは床の上に座ったまま塔矢を見上げた。
ああ、また塔矢怒ってる。
今日は何だろう? 本日の日課がまたやってくる。
よし、たまにはこちらから先手を打ってやれ。


「今日の指導碁どうだった?」
「え、ああ」
「馴染みのお客さんなんだろ。楽しかった?」
「…ああ、まあ」
「どんな人?」

出鼻を挫かれた塔矢は、ああ、と言いながら台所の方へ向かった。
お茶でも入れんのかな。
オレも立ち上がり、リビングのテーブルについた。

そういえばオレたちの家事の状況はというと。
8割くらいは塔矢がやっていた。
別にやらせたくてやらせているわけじゃない。
塔矢が神経質で几帳面すぎるんだ。
オレが何かモノを出してそのままにしておくとすごく怒るし、まだまだ大丈夫だよー
と言ってるのに埃がついているだろうと拭き掃除をしたり。
料理もオレは食べたい時に買うなりありもので何か作るなりで食べればいいやと思っているのに対し、塔矢はオレが寝坊してよく朝食を抜くのをすごく怒るし、夕飯も面倒くさかったり棋譜並べやゲームに夢中になっているとつい忘れてしまったりして、食べていないことが塔矢にバレるとまたすごく怒られた。ああ、そういえば今日も食べてないや。
そんないい加減なオレに対し、塔矢はオレが一緒にいる時は出来る限りオレの分も食事を作って食べさせてくれた。
塔矢の作るご飯は好きだった。
普通に魚を焼いたり、煮物を作ったり。オレの好きな洋食も「あんまり作ったことないからおいしくないかもしれないけど一応芦原さんに作り方だけは聞いたから」と言いながら作ってくれた。
オレは、塔矢の作るちょっと焦げのついたハンバーグが一番好きだった。
和食好きな塔矢らしくアッサリ目の味付けも好きだったけど、一生懸命作る塔矢の姿がすごく好きだったのだ。
そんなこと言ったら怒るかな。塔矢。
一生懸命塔矢が挽肉を捏ねている姿を思い出してオレは楽しくなって、ニコニコとしていた。
塔矢は気味悪く一人で笑っているオレの顔を見て、何故か少し顔を赤くしながらお茶を差し出した。

「なあ、それでどんな人?」
「え」
「今日の指導碁の人」
「…ああ、…昔から…ウチの掛り付けのお医者さんでね。
 ウチの近所で小さな診療所を開いていて、両親も僕も風を引いたりしたら、いつも診てもらっていた」
「へー、塔矢先生も」
「うん。今はもうご高齢だからね。診療所は週に2、3日しかやっていないんだけど。
 いい先生だよ」

塔矢がそう言うならすごくいい先生なんだろうなあ。オレは素直にそう思いながら、
塔矢の入れてくれたお茶を啜った。
塔矢は日本茶しか飲まないので、塔矢の入れてくれるお茶は夏だろうが冬だろうが熱い日本茶だった。
それまでオレは日本茶を飲むなんて習慣はなかったのだけれど、やっぱりオレは塔矢の入れてくれるお茶は好きだった。

「じゃあさあ、その先生、塔矢の小さい頃とかよく知ってんだろうなあ」
「…ああ、そうだね。本当に小さい頃からお世話になってるから」
「わあ、今度オレ指導碁に行ってみていい?」
「え」
「塔矢の小さい頃の話とか聞いちゃおう」
「だっ……、ダメだそんなの!」

塔矢は『ふざけるな!』ばりにガタッと立ち上がると顔を赤らめながらオレを睨んだ。
何そんな焦ってるんだろう。面白いヤツ。よし、今度ホントに秘密で行っちゃおう。
そんなことを思いながらまたニコニコと塔矢を見ていたら、塔矢は急にハッとして突然オレの頭に触れた。

「なんだよ」
「やっぱり! どうしてあれだけ言ったのに、きちんと髪の毛を乾かさないんだ!
 いくら夏だといっても髪の毛が濡れたままでウロウロしていたらまた風邪を引くだろう!」

ああ、そういえば。
この間もそのことで怒られたっけ。
先々週頃、やっぱりオレは面倒で濡れた髪の毛のままクーラーのきいた部屋でウロウロしていたら、案の定それで少し風邪を引きかけてしまった。
オレも少し焦ったけど、塔矢の取り乱し方はすごかった。
やれ寝ていろだの、病院へ行こうだの、もっとビタミンを取れだの、薬を飲めだの。
大丈夫だって言っているのに塔矢はやたらと心配して、その後3日くらいの間、仕事を早めに切り上げて早く帰って来てはオレの看病(というか監視)に明け暮れていた。
季節外れの苺をやたらと食べさせられた記憶がある。
結局熱も大して出さずにオレの風邪はおさまったのだが、それ以来この家ではクーラー禁止令が出てしまった。
窓を開けていれば風通しの良い涼しい部屋なので、夜はそれなりに快適に過ごせるけど真夏の風呂上がりはやっぱり暑い。
オレは家にいる間、団扇を常に片手に持っていなければ過ごせないようになっていた。

まあそんなこともあったりしたけど、そうそう簡単にオレの物臭はなおるはずもなく、
また今日も髪の毛は濡れたままだったのだ。

それにしても今日はなんだかやたらと人に頭を触られるなあ。
昼間は和谷にグシャグシャと掻き回されたんだっけ。
ああ、そうだ。


「今日さあ」
「…なんだ」
「今日、和谷たちに言われたんだ」
「何を」
「『お前、塔矢の匂いがする』って」


ガボっ!

…と、普段日常生活ではあまり聞かないような音を立てて、塔矢がお茶を気管にでも入れてしまったのかゲホゲホと激しい咳をした。
オレはびっくりして、大丈夫かよと言いながら塔矢の側にいって背中を撫でた。
少しして咳のおさまってきた塔矢が、背中を撫でていたオレの方を振り返った。
あ、涙目。苦しかったんだなあ。

「大丈夫?」
「……」
「何?」
「…匂いって…」


掠れた声で塔矢が聞く。ああ、その話か。

「オレさあ、昨日お前のシャンプー借りたじゃん。
 その匂いだって」
「……ああ……」

塔矢は納得したのかしていないのか、なんだかガッカリしたようなよくわからない神妙な顔つきなって俯いてしまった。
あれ。何かオレまた怒らせるようなこと言ったかな。


「でもさあ」
「…何」
「オレ、あの匂い好きだなあ。
 お前の匂い。なんかホッとする。
 オレもシャンプー、アレにしちゃおうかな」


ああ、でもそしたらオレとお前、同じ匂いになっちゃうか。
そう言いながら塔矢の背中を撫でていたら、なんだか急に背中が固くなってきた。
いや、固いというか強ばってきたというか。
心持ち体温も上がっている気がする。
どうしたんだろう、さっきのお茶がやっぱり変なところに入り込んで具合悪くなっちゃったのかな。


「塔矢」
「…………………」
「塔矢。どしたの」
「…お」
「お?」
「…お…風呂に…入ってきます…」

ガチガチとした動きのまま、塔矢はバスルームに向かった。
大丈夫かな、アイツ。










ねえ、塔矢。



オレ、お前と一緒にいて楽しいよ。



ずっとこのままでいられたらいいのに。














ねえ、塔矢。