04-03






「……キラ」






「アキラ!」








………芦原さん。
…の後ろに天井が見える。見慣れない天井……。
どこだ、ここ…?






「先生、アキラ気がつきましたよ!」
「どれ」


せんせい?
この声………

そういえば、指導碁…




慌ててガバッと起き上がると、目を丸くした芦原さんと矢部先生が僕を見ていた。
…矢部先生。


「まだちと顔色悪いけどね。だいぶ良くなったかな」
「あ〜〜もう良かったよ〜〜アキラ〜〜」

芦原さんが大袈裟に泣く真似をしながら僕に抱き着いてくる。
…布団の上…だ。
よく見ると、見慣れた畳。襖。壁。
いつもの棋院の休憩室。

「あの」
「覚えてないのかよー、お前!
 お前倒れたんだぞ! オレと話している最中に棋院のロビーで!」

ああ、そういえば。
芦原さんが緒方さんに今朝よりにもよって僕の家で昨日の僕の醜態を話した(正確にいうと聞いた)とか言って…

「ま、貧血だね。
 ……昨日の深酒が効いたのかな?」
「オレびっくりしちゃってさー! そうしたら、お前の今日の指導碁が矢部先生だっていうから!
 ラッキー! って思ってさー!
 んで、休憩室に事務の人に布団用意してもらって。
 お前寝かせて、先生に診てもらったってワケ!!」

芦原さんのキンキンとした大きな声が頭に響く。
芦原さん、わかった、わかりましたから。

「芦原くん」
「ハイ?」
「キミ、仕事の方はいいのかい? 囲碁教室。
 もう始まってる時間だと思うけど」
「あああっ!!」

芦原さんは慌てて時計を確認すると、アキラ帰りは送って行くから無理すんなー!と
またキンキンとした大声で叫びながら転ぶようにして部屋を出ていった。
…いい人だな。
いい人だ。…いい人なんだけど…。

「相変わらずだね、彼は」
「…はい。」

ああ、先生の声だ。
先生の声を聞くとホッとする。懐かしい声。
なんでも話せてしまいそうな…
……って。

「せ、先生!」
「なんだい?」
「す、すみません!!
 ぼっ…僕はなんてことを……!
 い、今すぐ準備して、指導碁の方を…!」

僕が慌てて立ち上がろうとすると、矢部先生はいいから、と僕を制し再び座らせた。

「キミも相変わらずだね」
「…は」
「真面目なところ。ちと真面目すぎるかな?
 お酒にも真面目に取り組んじゃいけないよ」
「ちっ…ちがっ」
「ハハハハハハ」

先生は笑いながら短い顎鬚を擦った。
昔からの先生の癖だ。

この矢部先生は、僕や両親が小さい頃からお世話になっている診療所の先生だ。
腕がいいと昔から評判で、おそらく大学病院だとかそういうところに勤務していてもおかしくはないのに「大きなところは色々とあるからねえ」と言いながら、僕の実家の傍の住宅街で先生の他に看護婦さんが二人しかいないような本当にごくごく小さな診療所を開いていた。
ただ、先生がもう70歳を過ぎてご高齢になってきたこともあって、今は週に2日程しか開業していない。
普段の指導碁も、専ら僕が先生の自宅兼診療所へと訪ねていくことがほとんどだった。
でも碁が趣味の先生は時折ご自分で棋院の一般対局室に来て、対局を楽しんでいるようだった。
そんな時は、僕は都合がつく限り先生の指導碁をかって出ていたのだ。
今日もその予定だったのだ。


…それなのに。
僕は。






「……すみません。本当に。
 …プロ失格です」
「そうだなあ」
「………」

ぐうの音も出ない。僕は、布団の上で正座したまま増々小さく縮こまった。

「まあ、でもキミももう…18…かな?」
「はい」
「ああ、そういえばお酒は飲んじゃダメじゃない」
「…! すっすみません!!」
「これは一緒に連れていった人にも怒らないとなあ。緒方くんかい?」
「…すみません」
「ハハハ」

先生はそう言いながら、捲っていたYシャツを丁寧にのばし始めた。


「もうアキラくんも18かあ。あの小さかったアキラくんがねえ」
「はい」
「まだ未成年とはいえ、キミはもう一人前の社会人として働いている。
 お金も貰っている。大人としてね」
「……はい」
「責任ある行動を求められている。
 真面目ならキミならわかるだろ?」
「…………はい」

穏やかな声で、先生は話を続ける。僕は、先生の顔を見る事ができない。


「?、そうは言ってもあのカタブツなキミのお父さんも、
 若い頃は色々あったからなあ」
「お父さんが?」
「それは、もう。
 まあ後援会の付き合いとはいえやっぱりキミと同じように深酒してね」
「はあ」
「次の日の対局に大遅刻! まあ、それでも勝ったところがキミのお父さんだけどね」
「…お父さんが…」

フフっと先生は笑いながら昔を懐かしんでいるようだった。
僕は思わず伏せていた顔を上げる。


「明子ちゃんと付き合いだした時もねえ。
 もー指導碁の最中なのにぼんやりしちゃってさあ。
 彼のアタックだったからなあ。夢中だったんだねえ」
「そ、そうだったんですか!?」
「あれ、知らないのかい。
 お父さん、シャイだからな。お母さんに聞いてみるといいよ」
「は、はあ……」

父と母が。
…そういえば、そんなこと聞いた事なかったな。
なんで父と母が結婚したのか。
付き合い出したキッカケは何だったのか。
どちらが最初に好きになったの?
……それは、どんな気持ちだった?


「まあ、若いウチは色々あるよ。
 あんまり悩まないことだよ。
 ドーンとぶつかってみるのもいいよ。若い間だけの特権だからね」
「…はい」
「お、少しは元気出たようだね。
 じゃ、指導碁お願いしようかな。今日は早めに終わらそう」



…矢部先生。
先生は、僕を元気づけるためにあんな話をしてくれたのか。
やっぱり、僕の先生は矢部先生だけだ。



「…というか」
「はい?」
「アキラくんの悩み事って何だい?」
「は」
「………
 もしかして、誰か好きな人でも出来たかい?」


僕の悩み事。
なんだろう?
僕自身もよくわかっていないのに、教えられないですよ、先生。



そのはずだったのに。



先生が「好きな人」と言った瞬間に、僕の身体中の血が一気に沸騰して僕の顔へと凄いスピードで集まっていった。







「図星かな」


先生は鬚を擦りながら、フフッと笑った。







先生。
先生、重大な相談があります。

確かに僕は昨日深酒をして泥酔してしまいました。
この頭の痛さと胃の重さはそれが原因でしょう。

でも、それ以外にもオカシなところがあるんです。
胃は重い割に、妙に腰…というか、腰から下…というか。
身体がスッキリしているんです。

そして何よりも。
この現象は何ですか。
なんで「好きな人」って聞いて僕がこんなに顔を真っ赤にしなくちゃいけないんですか。
昨日まで、何ともなかったのに。
昨日まで。

昨日まで。




昨日の僕を知っている人。
…緒方さん(主犯)
…芦原さん(おそらく断片的だろう)
…父と母(もっと断片的だろう)







…おそらく、進藤。







教えて欲しい。
僕は、昨日何をした? 何を言った?
謝るから、教えて欲しい。






進藤。




…早く帰ってこないかな。
進藤。













その後僕は、再び考え込み過ぎてガンガンする頭を押さえながらなんとか指導碁をこなし、矢部先生と共に芦原さんに実家まで車で送ってもらった。

父は何も言わなかったが、母は「いい加減なことをして進藤くんに迷惑かけたら大変でしょう」と怒った。
ついでに「進藤くんナシで家に帰ってくるなんて!」と意味のわからない怒られ方までした。そんなに彼が好きか。

夕食をウチで食べていった矢部先生が、母の小言にはまあまあ僕が言い聞かせたからとフォローしてくれたものの、「進藤くんてあの進藤五段かい」と先生が聞くので一緒に住んでいるんですと教えたら、「僕もファンなのに! ズルイ!」と何故か先生にまで怒られた。
今度彼と打たせてあげる約束をすると、先生はとても上機嫌で帰っていった。




進藤。
人気者だね、キミは。大勢の人に好かれている。

進藤。












早く会いたい。





素直にそう思った。