04-05








その日は朝から雨が降っていた。


空は厚くて暗い雲に覆われ、昼間なのに薄暗かった。
ジトジトする。
僕は車の窓から流れていく外の景色をぼんやりと眺めていた。


「もうすぐ秋ですかねえ」

信号が赤になって車が止まり、タクシーの運転手が朝から雨のやまない空を見上げながら話し掛けてきた。
僕は「そうですね」と気のない返事をしてそのまま窓の外を眺め続けた。
車が再び動き出す。

…頭が痛いな。
寝不足か。昨日はほとんど眠れなかったせいだろう。
左側のこめかみをおさえながら、しとしと降り続ける窓の外の雨を眺め続けていた。





『……次のお便りを紹介します。えーラジオネームヒカルさん』

ラジオの音に思わずビクリと体がゆれる。
今までただの雑音で、耳には入るが頭まで届いていなかったタクシーの中に流れるラジオの音が、急に意味を持って僕の頭の中に流れ出す。


ただ「ヒカル」という名前を聞いただけで。



『この間、ある人に告られてしまいました。
 本当にビックリしましたが、私のことをずっと好きだったと言ってくれました。
 でも私は自分の気持ちがよくわかりません。
 その人のことは好きだとは思うけど、恋愛感情なのかどうかはわからないし、
 ずーっと一緒にこの先もいられるかどうかわからないし…
 どうしたらいいのか教えてくださーい』




ラジオのパーソナリティが明るい声でハガキを読み上げる。
よくある恋愛相談(僕はこの手のラジオはあまり聞かないのでわからないが)らしい。
なぜか僕の耳はラジオの音に集中し、必死になってパーソナリティの次の言葉を待っている。
何故だろう。
別に僕には関係のない話じゃないか。


ラジオのパーソナリティはトーンの変わらない明るい声で、様々なハガキの悩みに答えていた。
それに耳を傾けている間に目的地に到着する。

「1460円です」

僕は料金を支払うとタクシーを降り、一向にやまない雨の中傘をさして目的地の中へ入っていった。
ここへくるのは久しぶりだ。



『中央武蔵病院』



過去に父が倒れた時に運ばれた病院だった。






++++++






病院のロビーにあるソファーにぼんやりと僕は座っていた。
土曜日の午後のため病院は休みで、照明も必要最低限まで落とされていて薄暗く、シンと静まりかっていた。

時折看護婦や売店に来た入院患者が目の前を通り過ぎていった。





昨日、天野氏から対局後進藤が倒れたと聞いてその後は本当に大変だった。
棋院もバタバタと大騒ぎになり、出版部から出てきた僕は、すれ違う棋院職員のほぼ全員に
「進藤先生が碁聖戦の後倒れたんですって!」と聞かされた。

僕はそんなつもりはなかったのだが、天野氏からその時の僕の様子を聞くと相当気が動転していたらしく、六階にある出版部から1階まで駆け足で階段を降り、タクシーを拾おうとしたらしい。
もう少しで運転手に「長野県の軽井沢プリンスホテルまで」と言うところだったのを天野氏に止められたのだ。
その後は天野氏に連れられてとにかく落ち着けと休憩室に押し込められ、そのままそこでまるで対局中さながらに正座をして背筋をのばしあらぬ方向を見ていたらしい。
……と、これもすべて今日の午前中に棋院で聞いてきたのだ。

正直、昨日のことはあまり覚えていない。

気がついたら家に戻っていて、いつ電話がかかってきてもいいようにと家の電話と自分の携帯電話をソファーテーブルの上に並べて置いて、僕はソファーに座り電話を睨み続けていたら気がつくと朝になっていたのだ。


棋院によると、彼はその後長野県の病院に運ばれたとのことだった。
そして翌日になってから東京のこの中央武蔵病院へと搬送されてきたのだ。



進藤。
何故だ?




体調が良くなかったのか? それとも倒れてしまうほど消耗する対局だったのか?
もし。
もし元々事前から体調が悪かったのだとしたら。

僕は、僕は一体何をしていたのだろう。
しかも、大切なタイトル戦の前日に全く記憶のないほど酔っぱらって帰り、彼に何かしらの迷惑をかけたに違いないのだ。
それですっかり精神的にも体調的にもペースを崩されて、倒れてしまったのだとしたら。
いくら勝ったとはいえ体調管理は棋士の大事な仕事だ。でもそれが原因だとしたら完全に悪いのは僕だ。
一体どんな顔をして会えばいいのだ。
悪い方へ、悪い方へと考えが進んでいく。

進藤。進藤。
早く帰ってきて欲しかった。
あんなに素直に早くキミに会いたいと願ったのに。
こんな形になるなんて思いもしなかったのだ。

ジワリと嫌な汗が手のひらに滲む。
ドクドクと自分の心臓の音がいやに大きく耳に飛び込んでくる。
「胸が張り裂けそう」というのはこういう時に使うのだろうか。
本当に今にも僕の胸を突き破って心臓が飛び出してきそうだ。

……心配?
……罪悪感?
それもある。でもそれ以上に何か。
まるで今日の空を覆いつくしてしまった暗い雲のように僕の心を覆う何か。



…………不安?




もしも。
もしも彼がこのまま帰って来なかったら。
二度と僕の前に帰って来なかったら。







ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。




嫌だ。
怖い。





ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。




黙っていなくなるなって言ったじゃないか。

もしキミを失ってしまったら僕は。






ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。





まだ。僕は、まだ。
まだ僕はキミに。


キミに言ってないことが。






進藤。進藤。

進藤。
進藤。進藤。進藤。進藤。進藤。進藤。進藤。





進藤。











































「あれ?」


























間の抜けたような、ノンビリした声。
いつもの、聞き慣れた。
男にしては少し高くて、柔らかい。
明るくて、ホッとする。
優しい。

僕の。







僕は。























「塔矢じゃん」





顔をあげる。
4日ぶりに見る、彼の顔。


なんだー、わざわざ迎えに来てくれたのかーと言いながら彼は僕が座っている前まで来ると、突然今まで穏やかだった彼の顔の眉間に皺が寄せられる。
ああ、そうか。怒っているんだな。
僕が酔っぱらって、彼に迷惑をかけて、それで彼は体調を崩して倒れたのかもしれないのだから。
謝らなければ。
謝らなければ。

謝らなければならないのに、うまく声が出ない。
何故だ?
僕は魚のように口をパクパクさせる。何故声が出ない。早く、早く謝らなくちゃ。
早く、早く伝えなくちゃ。
僕は。

僕は。



僕がパクパクさせている間に、彼が眉間に皺を寄せたまま心配そうな顔をして再び口を開く。









「お前、熱でもあるんじゃねーの?
 顔真っ赤だぞ」








ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。

また心臓がうるさい。

ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。

どうしてまた顔が真っ赤になったりするんだ。

ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。

何故?

ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。

進藤。










「塔矢?」













ドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドクドク。





どうしよう。
進藤、どうしよう。

僕は病気かもしれない。
この前から自分が変なんだ。
キミの名前を聞くだけで。
キミを見るだけで。
キミのことを考えるだけで。













進藤。



どうしよう。