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05-4.3
「…塔矢くん?」
外は雨が降っていた。
朝は晴れていたのに、今は結構な降りで。
サンダルを履いて来ていた彼女の足下は水で濡れていた。
少し長めの水色のスカートも、傘を畳む時にでもついたのだろうか。
一部だけ濡れて色が変わっていた。
「……え、と」
「あ、ごめんなさい。私、藤崎です。藤崎あかり」
「ああ、ええと、確か進藤の」
「そうか、私塔矢くんとはほとんどお話したことなかったのかな」
フジサキ、さん。
見覚えはある。
それも、つい最近。
1ヶ月程前に…そう、僕が酔っぱらって帰宅するという醜態を働いてしまったあの日に。
昼過ぎに、市ヶ谷駅の前の喫茶店に進藤と彼女が二人でいるところを見かけた。
彼女は泣いていた。
進藤はとても優しい目をして彼女に話しかけ、涙を拭っていた。
……その日は、その後のことはあまり記憶に残っていない。
彼女は確か、進藤の幼馴染みだ。
1ヶ月前、進藤が碁聖を取った後に急性胃炎で倒れて病院に運ばれるという騒ぎがあった。
その後彼は大事を取って二日程休んでいたのだが、その間に何故か僕は彼女の話をいろいろと聞かされたのだ。
そう、藤崎あかりさん。
進藤とは幼稚園から中学まで一緒だったらしい。
進藤が囲碁を始めたのをきっかけにして彼女自身も囲碁を始め、今では(素人の中の素人にしては)なかなかの腕らしい。
進藤の話を聞きながら、僕は彼女に関する数少ない記憶を探り出す。
まず1つ目の記憶。
僕はかつて都合2度程進藤の中学を訪れている。
その中学の理科室が確か囲碁部の部室で、彼女はそこにいたような気がする。
「進藤はどこにいますか?」と僕は彼女に尋ねたような。
つまり、それだけ彼女は進藤の傍にいたということだ。
そして2つ目の記憶。
すっかり忘れていたのだが、1年程前に進藤が一度僕の碁会所に高校の制服を着た彼女を連れてきたことがあった。
たまたま目の前の通りで会って、高校の囲碁部である彼女が僕と君の対局を見てみたいと言ったから、と。
二人は互いを名前で呼び合っていた。
進藤は、いつもはこの碁会所では見せないような笑顔を彼女にだけは向けていた。
広瀬さんや北島さんに「なんだ、いっちょ前に彼女か」などとひやかされていたっけ。
僕はその時もちろんその場にいたのだが、…仕事が立て込んでいて疲れていたせいもあったのだろうか、何故だかひどくイライラとしていてあまり覚えていない。(なのでこの時のことは、ついこの前まで僕の頭の中からすっぽりと抜け落ちていたのだ)
かすかな記憶の糸を辿ると、当時僕は彼女に対してかなりつっけんどんな態度をとってしまったような気がする。
そして3つ目の記憶が件の喫茶店になる。
そして現在彼女は、和谷四段と2年程前から付き合っているのだと、ついこの間初めて進藤から聞かされたのだ。
「あの」
「ああ、ごめんなさい。えと、進藤かな」
「……はい」
彼女はそう言って俯いた。
長い茶色い髪がふわりと垂れる。
シャンプーの匂いか、香水の匂いか。
女性特有の柔らかい香りが漂い、僕を包んだ。
その香りに包まれた時、僕は彼女に何か呪文でもかけられたのではなかろうか。
僕は本当に反射的に。
後先も大して考えずに。
ついうっかり、といった感じで。
彼女にこう言ったのだ。
「進藤は、忙しいみたいで、その、3日程前から帰ってなくて…。
でもそろそろ今日あたりは帰ってくると思うんだ。
その、何か言付けがあれば僕で良ければ伝えておくし…。
それかその、えと、ウチで、待っててもらっても構わないし…。
ああ、でも、その。
……とにかく…えと、上がりませんか?」
彼女はふと顔を上げて僕を見る。
大きな茶色い瞳。
進藤に少し似てるな、とその時僕は思った。
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