05-04







「どうしたよ、こんな時間に。
 お前今日取材って言ってなかったか?」

和谷は胸元のネクタイを緩めながら、オレの側まで歩いてくる。

「うん。さっき終わったんだ。
 昼間、出版部に頼まれてた書類受け取るの忘れちゃって、取りに来た」
「そりゃご苦労なこって…」

そう言うと和谷はフーッと大きなため息をついて廊下の長椅子に腰を下ろした。
なんだか酷く疲れているようだった。

「だいじょぶ? 和谷、なんかすごく疲れてる」
「お前ほどじゃねーよ」

和谷はそう言うと立ち上がり、オレを座らせて自販機に飲み物を買いに行った。
「コーヒーでいいか」というので「うん」と答えた。



和谷。一番の友だち。一番オレに近い友だち。
もう知り合って5年近く経つ。
まだ5年か、とも思う。
5年間とは思えない程の濃い付き合いをしてきた気がする。

一緒にプロになったから、和谷はオレの同期だ。

院生になったばかりの頃、右も左もわからなくて不安だったオレに一番最初に話し掛けてくれたのも和谷だったし、囲碁界のことを色々教えてくれたのも和谷だった。
その後も、和谷が森下先生の研究会を紹介してくれたおかげで、オレは森下先生というとてもいい先生と知り合うことが出来た。
オレがプロになってすぐ不戦敗をくり返した時も、和谷は心配して電話をかけて来てくれたりウチまで来てくれたりした。
その後、オレが復帰した後も「もう二度とあんなことすんじゃねーぞ」と怒ってくれて、「何であんなことしたんだ」といったような問い詰めることは決してしなかった。

そして今も。
オレがこうしてなんだか周囲に踊らされるようにしてワケのわからない生活をしていても、和谷は以前と変わらない態度で接してくれて、心配してくれた。
嬉しかった。



和谷のことはとても好きだ。大好き。
和谷の碁も好きだ。真直ぐで、素直で。とてもいい棋譜を残す。
和谷と打つと、オレはホッとした。
だから、オレはいつまでも和谷に甘えてばかりいた。
そして「相変わらず甘ったれなんだから」とアイツに叱られた。





「今日さー…」
「え?」




和谷のぐったりした声で現実へと引き戻される。
和谷は壁に背中と頭をあずけ、フーッとまたため息をついた。


「今日、オレさっきまで囲碁教室だったんだけど」
「ああ、子供向けの? …って、もう10時じゃん。
 アレって7時までじゃなかったっけ?」
「そ。それは7時までだったんだけどさー。
 その後ガキを迎えに来たかーちゃんにつかまっちゃってさー」
「うん」

和谷はそう言いながら胸元のポケットから煙草を取り出した。
マルボロのメンソール。和谷の吸っている銘柄だ。
オレも以前、1本もらって吸ってみたことがあった。
でも咳き込んでしまい、上手く吸うことは出来なかった。
それ以来煙草は吸っていない。
和谷が上手に煙りを吐き出すのが、オレは羨ましかった。

「自分の子をどうしてもプロ棋士にしたいって言うんだよ。
 んで、どうにか先生の力で特別に院生にしてもらえないか、と」
「アハハ」
「笑い事じゃねーよ。そんな話で3時間だぜ、3時間!
 最後はカネまで握らそうとするし」
「…まさか、和谷」
「フザケンナ、って断ったよ。
 …って、まあ元々オレには院生にするなんて力はないけど。
 そんな汚ねえことして院生になったって、
 進藤先生みたいなプロにはなれませんよ、ってな」
「……は?」


和谷はフーッと煙りを吐き出した。
電気が落とされ、必要最小限の電灯が灯る薄暗い廊下に白い煙りがユラユラと舞い上がっていく。

「その子が、お前に憧れててさ。
 その熱血かーちゃんもお前の大ファンなんだとよ」
「……」
「で、将来はお前みたいになりたい、したい、と。
 そーカンタンにお前にみたいになられたら
 逆にオレが困るぜ」
「…そんな」
「言ってやったよ。進藤先生だって、苦労に苦労を重ねて
 今の活躍があるんだってさ。だからお前もガンバレって。
 …3時間の説得は長かったぜ〜」

そう言って和谷は煙草を灰皿に投げ入れると、立ち上がってウーッと腕を天井に向かって上げ、大きく伸びをした。
…和谷。
やっぱり。やっぱりオレは和谷が好きだ。一番の友だち。
大切な大切な友だち。
そしてオレの大切な大切なヤツの、大切な人。
幸せになって欲しい。
二人には。









「そういえばさ」
「うん?」
「お前、最近あかりと連絡とったか?」
「え…いや、オレ忙しかったし…。和谷、とってないの?」
「いや、電話は毎日してるんだけどよ。
 休みの日も、アイツ体調悪ぃからあんま出かけたくないって」


和谷は心配そうな顔をしてオレの方を向くと、ネクタイをほどいて乱暴にスーツのポケットに押し込んだ。











そう、あかりと和谷は付き合っている。いわゆる、恋人同士というヤツだ。
もう2年程前になるのか。
あれは、一応「オレの紹介」ということになるのだろうか。

ひょんなことから和谷とあかりがたまたまオレを通して出会い、そして気がついたら二人は付き合い始めていた。
なんとなくオレは一人だけ置いてきぼりをくらったような気がして、最初の頃は面白くなかった。
でも、その後も幸せそうにオレに二人して同じことを同じように別々にノロケるのを聞いていて、オレ自身も何か暖かいものに包まれたように幸せな気持ちになっていった。
よく考えれば当然のことだたのだ。
オレの大好きなヤツが、大好きなヤツと付き合って、幸せにしている。
嬉しかった。


そういえば、あかり。
先月のちょうど今くらいの時期に、あかりは泣きながらオレに相談に来た。
相談の内容は、オレにはなんというか、その、初めてのケースのもので、しかも本当にデリケートな問題で。
「和谷にきちんと話して、相談しろよ」「なんなら、オレも一緒に話してやるから」
というようなお決まりの言葉しか言えなかった。

でもあかりは「今はダメだ」と言った。
何故、とオレが言うと、
「だって、彼、今昇段のかかっている大事な時期だから。
 来月の、大手合いが終わるまで言えない」
と言った。





「…そりゃ、お前気持ちはわかるけど。そんな、モタモタしていられることじゃないだろう。
 そうしてる間にも…」
「言えない。言いたくない。余計な心配かけたくないの。
 …ごめんね。それなのに、同じ棋士のヒカルには言っちゃって」
「…いや、オレは別に」
「大丈夫だよ。あたし、なんとかするから。
 それに、あたし」


































あかり。


















「和谷」

大切な、オレの大切なヤツ。

「なんだよ?」

大切な、オレの大切な友だち。

「…その、お前さ」

大好きな。

「なんだよ」

大切な。

「あかりと…話したのか?」

大切な。

「だから話してるって。毎日」

大切な。

「そうじゃなくて! あかり」

大切な。

「なんだよ」

大切な。

「あかり」

大切な。










「あかり、妊娠してるって。お前の子」





















「……は?」

















「アイツ、言ってた。
 お前、今昇段かかってる大切な時だから言えないって。
 でも、オレ…? オレ、それ聞いてからずっと心配で、それで」




























カンッ 



薄暗い静かな棋院に、缶の落ちる大きな音が響き渡る。
それは、山びこのように静かにこだましていた。






和谷は、オレの目の前に立つとオレの胸ぐらを掴んでオレを引きずり立たせ、鬼のような形相でオレに詰め寄った。


「それ、いつの話だ」


いつもの熱いけど穏やかで優しい和谷の声とはまるで違う、激しい怒りの込められた低い声。
オレは、胸がしめつけられる。
それは、胸ぐらを掴まれているせいなのか、それとも。




「…1ヶ月、前。…夏休みの終わり…」
「それで」
「生理が…なくて。検査で調べたら…陽性で…
 その時に、多分2ヶ月って…」
「……」
「でも、でもアイツ言ってたんだよ。
 今は、和谷は大変な時期だから言えないし、
 勝手にこんなことして怒られるだろうし、
 もしかして別れられるかもしれないけど…って…」
「……」
「でも、でも、アイツ」




























『大丈夫だよ。あたし、なんとかするから。
 それに、あたし』

『……あたし?』
























『あたし義高の子、産みたい』







































「ふざけんな!!!!!」




和谷の怒号と共に、オレは吹き飛ばされ壁に背中を叩き付けられた。
一瞬息が止まってしまい、その後にゲホゲホと咳き込む。
思わず薄く涙が出る。

目をこすると、何かが視界に入った。



和谷の手だった。
震えている。

怒りで。









「…わ、や」

オレは咳き込みながら掠れた声を出す。
和谷は顔を怒りで真っ赤にさせて、震えながら俯いていた。



「…なんで…」
「え」







「なんでお前なんだよ!!!
 なんでオレじゃねえんだよ!!!」






和谷の声が廊下中に響き渡る。





「オレの昇段がかかってるから!?
 何だよ、それ!!
 そんなのお前だって一緒じゃねえかよ!!!」

「わや」

「なんで!!!
 だって、オレの子供なんだろ!?
 なんでオレじゃなくてお前なんだよ!!!」

「わや」

「オレじゃあ、オレじゃ頼りないのかよ!?
 同期で入ったお前は着々と昇段して、今やタイトルホルダー!!
 オレはいつまでも伸び悩んでいて、ガキ相手に囲碁教室やって!!
 そんなにオレはあかりとって頼りないヤツだったのかよ!?」

「和谷、」

「あかりにとって、オレは、オレは…っ
 ………っ………
 ……あかりは、あかりはずっとお前のことが好きで」

「和谷!」

「オレはそんなこと知ってたけど、でもあかりが好きで」

「和谷」

「でも、もしかして今もアイツはお前のことが…」

「和谷!!」





オレは苦しい胸を押さえながら、立ち上がって逆に和谷の胸ぐらを掴む。
和谷はオレより10cm近く背が高いので、胸ぐらを掴みつつも自然とオレが見上げる形になる。




「何で…っ、何でそうなるんだよ!!
 あかりは、あかりは『お前の子を産みたい』って言ったんだ!!
 言わなかったのも、お前が今、大切な時期だって知ってたから!!
 囲碁が、囲碁が和谷にとって一番大事だって知ってたから、だから」





オレがそう言いかけている途中で、和谷はオレの手を振りほどき、再びオレを突き飛ばした。
オレはヨロヨロと二、三歩後退する。

しばらくそのままオレと和谷はにらみ合ったまま、何も喋ることが出来ず立ち尽くしていた。
最初怒りに燃えていた和谷の目は、オレと睨み合っている最中にどんどんと怒りの色を落としていき、最後にはとても悲痛な色を宿した目になった。




まるで、何か可哀想なものを見るかのような、哀しい目。


しばらくして、和谷が口を開く。













「オレは」








「オレはお前とは違う。
 オレは『囲碁が一番大切』なんかじゃねえ。
 オレが一番大切なのは、あかりだ。
 お前とは違う」


「──」









































「一緒にするな」









































低くて哀しい声で和谷はそう呟くと、床に転がっていた缶を拾ってゴミ箱に入れ、そのまま踵を返して棋院を出て行った。






あかりのところに行くのかな。

よかった。


よかったじゃないか。





でも何でだろう。
身体が動かない。





オレは再び長椅子に腰を下ろす。
棋院は無気味な程静まり返っていた。



…早く。早くオレも帰らなくちゃ。

でも身体が鉛を飲み込んでしまったかのように重く、動かない。
















『オレはお前とは違う』




『一緒にするな』















和谷の声がいつまでも頭に響く。
哀しそうな瞳だった。憐れみのような目。













和谷は、一番の友だち。大好きな。
あかりも。

オレは、小さい頃からあかりのことが好きだった。
そのあかりが好きになったヤツなんだ。


幸せになってほしい。

そう思っただけなのに。







また、またオレはどこかで間違えちゃったのかな。







一番近いと思っていたヤツから、『オレは違う』って言われちゃったよ。





どうしよう。
オレ、何がいけないのかな。
どこで間違えちゃったのかな。


わからないよ。

























ぼんやりと薄暗い天井に目をやる。
…この風景には見覚えがある。


そうだ。あの時。

因島から帰って来て、夜中に棋院に行って。
アイツがもうどこにもいないってわかって。




その時に見た棋院の天井の薄暗さは、今でもよく覚えている。
今にもその闇の向こう側に吸い込まれそうだったのだ。



そして、その時のオレは「オレなんか闇に吸い込まれてしまえばいい」と思っていた。
















今も。今も、また。

今もまた、そう思ってるよ。




4年も月日が経っても、オレは何も変わってなかったよ。



































なあ。


聞いてる?






お前、今どうしてるんだよ。



なあ……。