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05-05
「……ただいまー…」
靴を脱ごうとして、思わず蹌踉けてしまう。
玄関の壁に手をついて、なんとか身体を支える。
一瞬でも気を抜くと身体が崩れ落ちそうだった。
棋院で和谷と別れた後、しばらく動けなくてボーッとそのまま廊下の長イスに腰掛けていた。
薄暗い棋院の天井を眺め、遠いあの日のことを思い出していた。
暗い暗い棋院。どこにも、どこにもいない。
呼び掛けても呼び掛けても答えてもらえなかった、あの遠い日。
どれくらいそうしていたのだろうか。
出版部の天野さんに声をかけられて、漸く我に返ったのだ。
すでに時計は11時を過ぎていた。
天野さんは終電に間に合わせようと出版部を出て来たところ、オレがボーッとロビーの椅子に一人で座っているの見つけたらしかった。
オレと天野さんが別れたのは10時少し前だ。
天野さんは「あれからずっとここにいたのかい?」と驚いて心配そうにオレの顔を見た。
オレは何と言ったらいいのかわからず、「少し気分が悪くて…」と適当なことを小さな声で呟いた。
適当に言ったつもりだったのに、実際に自分の口からそう言った途端本当に気分が悪くなって来てしまった。
焦った天野さんは、オレを支えるようにして外へ出て、タクシーを捕まえてくれた。
「家まで送っていこうか?」と言ってくれたのだが、そこまで申し訳ないことも出来ず、オレは首を横に振った。
タクシーのトビラが閉まる直前に、天野さんが言った。
「ちょっと仕事のしすぎじゃないかい?
…まあ、僕も仕事をお願いしている身だけども…もう少しセーブした方がいいよ。
広報活動なんて、事務局に言えばどうにでもなるんだから」
「……はい」
「あ、そうだ。キミ、塔矢くんと一緒に暮らしているんだよね。
連絡して迎えに来てもらったらどうだい?」
天野さんの口から『塔矢』という名前を聞いて、今までボンヤリとしていた頭が急にハッキリとしていく。
「ダッ…ダメ! それはダメ!!」
「え、でも」
「だって、塔矢……、もう寝てるかもしれないし」
「でも、進藤くん、具合が…」
天野さんがまだ何か言いかけようとした時にオレは慌てて運転手さんに行き先を告げ、
天野さんに「ありがとうございました」と早口で言って車を出してもらった。
これ以上塔矢の名前を聞きたくなかった。
……何故? わからない。
家に帰りたくないな…。でももう行き先言っちゃったし。…とか思っている間に着いちゃうし。
塔矢とはもう5日顔を合わせていなかった。
オレが碁聖を取ってからというものの、忙しくて生活はすれ違うばかりだった。
オレがこの1ヶ月調子を落としていることも、もちろん塔矢は知っているだろう。
でもそのことについて塔矢はオレに何も言って来なかった。
言う暇がなかったからかもしれない。
オレがこうして忙しくなる前から塔矢は元々忙しかったし、手合いで同じ部屋で打っている時でも、オレ達は対局中に口をきくことはほとんどなかった。
時折終わった後に少し話したり(それも業務連絡に近いことだけ)するだけだった。
一緒に暮らし始めてからも、一緒に帰ったことなど一度もない。(朝は、塔矢が眠たそうなオレを引きずって仕方ない、という風に一緒に行くけど)
オレにはオレの、塔矢には塔矢の人間関係があったからだ。
……こうして考えてみると、オレと塔矢は仲いいのかな。
よくわからない。
でも、塔矢はこの前オレのことを、オレのことを、オレの………。
………。
…………もう、わからないや。
オレ、元々あまり頭良くないしな。
塔矢のことも。和谷のことも。あかりのことも。
……碁のことも。
こうして、バカなオレはまた遠いあの日のように何もかも失っていくのだろうか。
思わず自嘲的な笑みがこぼれる。
顔が乾いて固まっていたのだろうか、頬がぎこちなく引き攣り、唇が裂ける感じがした。
ペロリと唇を舐めると血の味がした。
+++++
玄関に入り靴を脱いで、崩れ落ちそうになる身体をなんとか支えながら部屋に入った。
……静かだな。
塔矢、本当にもう寝ちゃったのかな。
……でもそれならその方がいい。顔を合わせなくてすむ。
出来るだけ静かにドアを開けてリビングへ入った。
大きな蛍光灯の明かりは消され、ソファーの側に置いてある照明だけが静かに照らされていた。
ソファーテーブルの上に、オレがこの前取材を受けた雑誌が置いてあった。
ああ、塔矢見たんだな、コレ。……嫌だな。
雑誌の横にはいつもの折り畳みの碁盤が置いてあった。
最初の数手が置かれている。塔矢が並べていたのだろうか。
……たった5日なのに。5日離れていただけなのに。
なんだかこの碁盤とも随分久しぶりな感じがする。
碁聖を取るまでは毎日お前で塔矢と打っていたのにな。
今月に入ってからは1、2回しか打ってないよ。
……打ちたいな。
オレはリュックを下ろすのも忘れ、そのままソファーに腰掛けた。
まだ暖かい。塔矢、さっき寝たばかりなのかな。今部屋に行ったらまだ起きているだろうか。
さっきは顔を合わせなくてすむ、なんてホッとしていたのに、今は少し顔を見たい気がする。
なんでだろう。
塔矢。
塔矢。
オレは白石を取って、パチリと次の手を打った。
「進藤?」
声のした方を振り向く。
リビングのドアの側に、塔矢が立っていた。
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