|
05-06
「………」
「………」
沈黙が流れる。
塔矢は微動だにしないまま、ソファーに腰かけたオレをジッと見つめていた。
なんだよ、幽霊でも見たみたいな顔してさ。
……幽霊。
本当に無意識だった。
思わずオレは、自分の背後を振り返った。
でもそこにあったのは、雨の雫が垂れる夜の暗い窓だけだった。
……いるわけがないのに。
いつまで。いつまでオレはそうして追い掛けているのだろう。
バカだな。
「進藤」
いつの間にか、塔矢がソファーの側に来ていた。
オレは塔矢の呼ぶ声で突然現実に引き戻されて、背負ったままのリュックを慌てて下ろした。
静かで低い、優しい声。
久しぶりに聞く声。
何故だろうか。その声を聞いて、何故かさっきまで崩れそうだった身体が少しだけ浮上したような気がした。
ホッとする……。何でだろう。
「……おかえり」
「え、あ、ああ、ただいま」
「…遅かったね」
「あ、え、うん。お前、その、…寝てるかと思った」
「歯を磨いていて洗面所にいたから、キミが帰ってきた音に気が付かなかった。
ごめん」
「え、あ、いや、別にそんな」
思いっきりぎこちない会話をして、オレは塔矢が立ちっぱなしなのに気付き、慌ててソファーの真ん中から端の方へと移動して塔矢が座れるスペースを作った。
……って。これじゃあ隣に座れって言ってるようなもんじゃんか、オレ! 何やってんだよ!
今は、今は出来るだけ顔を合わせたくないんだろう!?
ソファーを立とうとしたのもすでに時遅しで。
塔矢は「お茶を入れてくるね」と言って台所へと向かっていった後だった。
まさか、さすがに塔矢がお茶を入れている間に部屋へ逃げるワケにもいかないしな。
オレはなんとなく足を閉じ膝の上に手を置き、俯いたまま小さくなって塔矢が戻ってくるのを待った。
しばらくしてカチャカチャと音を立てながら塔矢が戻ってきた。
石を動かさぬように静かに碁盤がどかされ、オレは何故だか慌てて自分の載っている雑誌を背後に隠した。
カチャリ、と音を立てて置かれたのは、いつもの日本茶と……
「…ケーキ?」
「どうぞ」
オレは頭が混乱する。
え? ケーキ? 塔矢が? 何で? コイツ甘いモン嫌いなのに。
……オレのために? 理由がわからない。
だってもう夜の12時になろうというのに、いつもコイツは夜中に菓子食いながらゲームをやるオレに「不健康なことをするんじゃない!」とか言って怒るのに。
「食べないのか?」
何故だか地を這うようなドスのきいた低い声でそう言われ、オレは慌てて「い、いただきます」と一口食べた。
甘い、生クリームの味。
ケーキ屋さんのとは違う、ふっくらとしつつも、ギッシリと身のつまった感じのする少し固めのスポンジ。
そして何よりもオレの好きな、苺のショートケーキ。
……この懐かしい味は。
「………あかり…が来たのか?」
「お誕生日おめでとうって。キミに置いて行ったよ」
……誕生日?
慌ててオレは自分の腕時計を見た。
9月20日、23時55分。
「あ……」
「間に合って良かった。キミが今日中に帰って来なかったらどうしようと思った」
「…オレ、すっかり忘れてた…。アイツ、覚えて…」
「手作りだと言っていた」
塔矢はそう言って一口お茶を飲んだ。
オレは二口目のケーキを食べる。
甘い。……相変わらず、アイツの作るケーキは甘いな。
去年も、その前も、その前の年も「お前の作るケーキは甘いんだよ!」と文句を言ったっけ。
文句ばかり言うオレなんかに、アイツは毎年ケーキを作ってくれた。
オレなんかに。
……和谷、あれからあかりのところへ行ったのかな。
きちんと和谷と話しただろうか、アイツ。
上に乗っていた苺を食べる。酸っぱいな。
生クリームの甘さとちょうど合う。
……おいしい。おいしいよ、あかり。
オレがケーキを食べている間、塔矢は黙ったまま隣に座っていた。
しばらくしてから、塔矢は手を伸ばしてどけていた碁盤を引き寄せると、石を手に取った。
「…白石が一つ増えてる」
「あ、ごめん。オレが置いた」
「……そう」
それから塔矢はパチパチと音を立てて石を並べていった。
何の棋譜だろうか。
……わからないな。見覚えがない。
石を最後まで並べ置いた塔矢は、ふう、とため息をついた。
黒の1目半勝ちだった。
……何の棋譜だろう。最後まで分からないなんて、珍しいな。
オレは大概の棋譜は1回見れば苦もなく覚えることが出来た。
それは例えば子供が打ったような未熟な棋譜でも、秀策のような棋譜でも。
どんなものでも同じように覚えることが出来た。
そして決して忘れることはない。混乱することもなかった。
それは並べる手順を見ていなくても同じで、打ち終わった棋譜でも一度見れば写真を撮るように頭の中にストンと入った。
オレは脳みそがほとんど空っぽだから、いくらでも棋譜は入るんだよ。空いている本棚に本をどんどん詰めて行くようなもんだ、と不思議がる塔矢や緒方先生に説明したことがあった。
塔矢は納得がいかないのか怪訝な顔をし、緒方先生は相変わらず煙草をふかしながら、
たいした特技だ、と言ってニヤリと笑った。
だから、オレは棋譜にだけは自信があったのだ。
どんな棋譜でも大抵言い当てることが出来るのに。
でも、今塔矢が今並べたヤツは分からなかった。
塔矢がプライベートででも打ったものだろうか。
いや、違うだろう。白も黒も塔矢じゃない。それはわかる。塔矢はこんな打ち方はしない。
塔矢はもっと力強くて強引だ。何が何でも勝利をもぎ取る。でも美しい。
それが塔矢だ。
……黒。黒は倉田さんかな。
この人は性格や身体に似合わず繊細な棋譜を残す人だ。オレは倉田さんと打つのは好きだった。
綺麗な棋譜を残せるから。オレのベスト20の中に倉田さんの棋譜は入ってるよ、と本人に言ったら「ベスト3に入れろよ!」と怒ったっけ。
……白は。
無理な打まわしだな。あまり好きじゃない。
何とか丁寧な手を打とうとはしているものの、ある一手で死んでしまっている。失着だ。
そう、その一手は……
「ココ」
塔矢が白石を指差す。
「この一手がすべてを殺してしまったな。ココも、ココも悪い手ではないのに。
ここではなく、こちらに打てば良かった。
そうすれば…」
カチカチと塔矢が石を動かして棋譜を並べ変えていく。
「白の1目半勝ちだ」
塔矢は静かにそう言うと、オレの顔を見た。
その時オレは。
オレは、塔矢を見ることは出来なかった。
顔が凍ってしまったかのように固まって動かない。
声も出ない。
声どころか、手を動かすことも、身体を動かすことさえ出来なかった。
自分の心臓の音だけがやたらと大きく耳に響く。
…耳障りだな。止まってしまえばいいのに。
そう。
これは。この棋譜は、1ヶ月前に打ったオレと倉田さんの碁聖戦の一局じゃないか。
黒は倉田さん。白がオレ。
そして白のオレが確かに1目半差で勝ったものだ。
なのに、なのに何故負ける? 何故オレは何の棋譜だかわからなかった?
それはある一手がすべてを殺したからだ。
そしてその一手こそが、オレが帰って来た時に打った、あの白石だったのだ。
|