06-1.7






今日は朝早くから出版部での取材が入っていた。
来週末から始まる名人戦のことだった。
挑戦者として抱負や意気込みなどを聞きたい、と。
ここ何週かの週刊碁では毎週のように『塔矢アキラ、父の偉業に今手が届く!』などと派手な見出しが踊っていた。
まだ手なんて届いてないだろう、これから始まるのだから、と僕は一人心の中で呟いていた。

大体そもそも何故挑戦者の僕ばかりをクローズアップするのか。
現在名人である芹澤先生に申し訳ないではないか。
この間久々に研究会に顔を出させてもらった時に、「まあ、マスコミだけではなくて棋院の関係者も騒ぐのは仕方のないことだよ」とおっしゃっていた。
「棋院としては、是非とも私から君に名人を奪って欲しいのだろうな」と。
僕はなんと言っていいのかわからず、「そんな」と小さい声で返したまま黙っていた。

「せっかく棋院も塔矢と進藤で盛り上がってんだからさあ、当然だよなあ。注目されて、儲かってナンボな訳だし」とたまたま研究会に顔を出していた倉田さん(この人はいつになっても弟子をとったり研究会を主催するのを「何で自分でライバル増やさなくちゃなんないのさ」と嫌がり、こうして浮き雲のようにアチコチの研究会に顔を出して言いたい放題言っているのだ)が大声で言った。
芹澤先生は「ハハ」と笑われた後、僕の方をチラリと見やると、「面白いじゃないか」
と言って黒石を力強い音を立てて置いた。

結局僕と芹澤先生の名人戦の「前哨戦」ともいえるその対局は、僕の1目半負けだった。







僕もわかっていないわけではない。
父が。
父が一番最初に手にしたタイトルで、そして辞めるその最後の時まで一度たりとも誰にも奪われることなく持っていたタイトル──それが『名人』なのだ。
今でも、地方などに行って年配の方に会うと「塔矢名人はお元気かね」と尋ねられることは多い。
それほどまでに父のイメージが、父の影が強いタイトルであるのだ。
正直プレッシャーがない訳ではない。
難しいとは思う。
でも「勝てない」「無理だ」と思ったことは一度もない。
芹澤先生との勝負は五分五分だ。僕に不利はない。精神状態も悪くない。勝てない相手ではないのだ。決して。
棋院が僕に名人のタイトルを取って欲しいと望むならば。
望み通り取ってやろうじゃないか。
そして僕自身の力で、今度こそ消してやるのだ。
いつまでもチラつく父の影を。今度こそ。



















………と思っていたのだ。昨日までは。






今日の僕は、精神状態は人生で未だかつてない程最悪最低、体調も最悪、誰と打っても負けるような気がする。そんな状態だった。
今朝の取材も何を答えてきたのかまるで覚えていない。
あまりの僕の状態に戸惑った天野氏は、「体調が悪いのかい?」と心配そうな顔をして僕を気遣い、「明日に延ばそうか」と言って取材を切り上げてくれた。

申し訳ない、と思ったが取材どころではなかった。

それどころか碁が。
今日はまるっきり打ちたくなかった。碁の話をすることも嫌だ。
碁石を持つことすら嫌だった。
こんなことは今まで生まれてから一度も経験したことがない。碁を打ちたくないだなんて。
経験したことのない自分の気持ちを持てあまし、どうしたらいいのかまるでわからなかった。






わからない。




何もかも。







碁も。
名人戦も。
父のことも。
昨日あったことも。


……彼のことも。






そして、一番わからないのは自分自身だ。





わからない。







わからない。













どうしてあのような事をしてしまったのか。
彼に。




彼が、嘘をつくはずがない。
しかも、あんなことを、あんな風に。







すべて真実なのだろう。










僕が。
僕が。
僕が、彼に「好きだ」と言って、無理矢理彼を抱いてしまったこと。



そしてそのことを忘れてしまっていたこと。





そしてそのことを彼が隠していたこと。

















『何もなかったことにしよう、塔矢』














昨夜の彼の声が、姿が、頭の中に呼び起こされる。
僕は堪らなくなって、彼をかき消すように頭をブンブンと振った。





彼は震えていた。







細い身体をガタガタと震わせ、震える声で僕に言ったのだ。
「何もなかったことに」と。








許せなかった。
何故そんなことを言うのか、と。

責めて、蔑んで、罵って、好きなだけ殴って。
僕のことをメチャクチャにしてくれればいいのに。
罪を犯した僕のことを。

彼はそれすらもせずに、ただ「なかったことにしよう」と言ったのだ。



僕の気持ちも、僕の犯した罪も、何もかも消してしまったのだ。彼の中から。



君にとって僕という存在は、その程度のものだったのか。
碁さえ打てればいいのか。










……わかっていたことじゃないか。
何を今更。
わかっていたのだ、とうの昔から。
彼は僕自身を必要となんかしていない、ということを。
彼は毎日碁さえ打てればいいのだ。
それは別に最初から僕なんかでなくても良かったのではないか。
たとえば、彼の友達の和谷くんとか。伊角さんとか。森下先生とか。
緒方さんとか。父なんか、僕よりもずっと彼は喜ぶはずだ。
……それに『sai』とか。






だから言わなかったんじゃないか。
この気持ちを。
絶対に言わないつもりだったのに。

だから気づかないふりまでしていたのに。
自分自身の気持ちに。
7年もだ。








それなのに。
それなのに。





……彼は僕と打つことをとても喜んでくれた。
僕を必要としていてくれた。
あくまでも碁で、だ。

それを僕は、彼と一緒に暮らし始めてから何か勘違いをしていたのかもしれない。
「もしかして彼も僕と同じ風に思っていてくれているかもしれない」と。
僕のことを、僕自身のことを必要としてくれているのかもしれない、と。
あまりにも近くにいたから。


知っていたのに。








僕は馬鹿だ。
大馬鹿者だ。

何が彼のことを「許せない」だ。
僕にそんなことを言う資格なんてないのだ。
許せないのも、許せないことをしてしまったのも僕自身なのだ。
碁を打たない、碁を抜きにした、彼に必要とされたかった「僕自身」なのだ。


僕は僕を許さない。


たとえ彼が、僕自身を「なかったことに」したとしても。
















今朝部屋から出てみると、彼の姿はどこにもなかった。
彼が自分の部屋に入った形跡はない。

彼が昨日途中まで食べて半分以上残っているケーキも、飲みかけのお茶も、背中から下ろしたリュックも、背中の後ろに隠した表紙の折れ曲がった雑誌も。
何もかも昨日のままだった。

一つだけ違っていたのは。

碁石が片づけられていた。
でも、一つだけ。
白石だけが、ポツンと一つだけ何もない碁盤の上に残されていた。
彼が昨日打った、失着の一手だった。

その白石は、カーテンを閉め忘れたソファーの横の窓から燦々と朝日を浴びて、キラキラと輝いていた。
そしてそのまま光に溶けて消えてしまいそうだった。
彼のように。







……そう。
彼のように。

今朝から何度も彼の携帯電話に連絡を入れた。呼び出し音は鳴るものの、取られることはなかった。
何度目かで、呼び出し音が途切れた。
出てくれたのかと思い、慌てて「もしもし!」と叫んだが、それは彼が携帯に出た音ではなく電源を切ってしまった音だったのだ。
それ以来、彼との連絡の取りようがなくなってしまった。







そう。
もしかして彼は部屋を出ていったのではなく。

朝日に溶けて消えてしまったのかもしれない。









罪を犯した、僕の前から。