06-1.8






「塔矢!」





出版部を出て1階のエレベーターを降りた時に、突然大声で名前を呼ばれた。
声のした方を見ると、和谷四段が立っていた。


彼の顔を見て、ふと昨日の藤崎さんの顔が頭に浮かんだ。

彼女は今、彼の子供を宿していると言っていた。
でも彼と結婚するかどうかは分からないとも、言っていた。
何故。

昨日ほぼ初めてに近い状態で、僕は彼女と話をした。
顔も仕草も、少し進藤に似ていて。
性格も穏やかで、優しくて。
進藤が彼女を大切に思う訳が良くわかったのだ。

どうしてそんな子を彼は、和谷四段は放っておいているのだろうか。
……最も、まるっきり他人の僕が口を出すべきことではないかもしれないけれど。




「……何か」
「ちょっと、いいか。時間」


腕時計を見る。
まだ11時前だった。
次の取材の仕事までまだ時間はある。務まるかどうかは分からないけれど。

僕は彼に従い、近くのファミリーレストランに入った。








++++++





昼時だったが、とても食欲などないのでコーヒーだけを頼んだ。
和谷四段も同じようにコーヒーだけだった。

僕はコーヒーを一口飲み、ふう、と息をつき彼を見た。
彼は一口も飲まないまま、両手を手のひらを合わせるようにして組み、顔を俯かせて額をコツン、コツンと組んだ手に当てていた。



まるで何かを祈るような仕草だ。



僕はそう思いながら、いつまでも彼が切り出そうとしないので僕の方から口火を切った。



「あの、何か用件があるのでは」
「進藤」






和谷四段は彼の名を口にすると、組んだ手の向こうから僕の目を真っ直ぐに見つめたまま睨んだ。









やっぱり。

彼に呼び出された時点で、用件などわかっていた。
彼と僕の間である共通の話題といえば進藤だけなのだから。





「……進藤は、今どこにいるんだ」

地を這うような低い声で、彼は僕を睨んだまま呟いた。
でもその声は、いつものような僕に挑戦的な火花を向けてくる時とは違い、不安に震えているような声だった。

僕は、思わずその問いを聞いて笑みが零れてしまう。


「何が可笑しい」
「……キミで…13人目だから。進藤の居場所を、僕に尋ねてきたのは」


和谷四段は組んでいた手をほどき、僕を見つめたままコーヒーを手にとった。

「それで、どこにいるんだ」
「……」
「朝から何度も携帯に電話してるんだけど、繋がらないんだ。
 朝はまだ呼び出し音が鳴っていたけど、今はそれすらもなくなっちまった。
 電源を切られたのか、電波の通じないとこに移動したのか。携帯をどこかに忘れたのか。
 ……アイツ、家に帰ってないのか?」
「…いえ。昨日の12時少し前に帰って来て…
 とても疲れているようだったけど…」


僕がそう言うと、和谷四段は「そうか」と深い溜息と共にそう呟いて、右手で拳を作り自分の頭をゴツンゴツンと殴る仕草をした。

「……昨日。
 実は進藤とちょっとモメちまったんだ」
「……え……」

僕は予想外の彼の答えに、思わず少し身を乗り出す。

「イヤ…アレはモメたっつーか…。
 ……オレが。
 オレがいけないんだ。全て」
「一体、何が」

和谷四段は再び深い溜息をつくと、顔を少し俯かせたまま話し始めた。

「…その。何でだったか忘れたけど…。
 あかり、の話になって」
「ああ、藤崎さん」
「あ、そういえば、昨日。
 アイツ、進藤の…つか、その、お前の家に行ったって」

僕は昨日の彼女との楽しい一時を思い出し、少しだけ気持ちが明るくなるような感じがして、笑顔で答える。

「うん。
 昨日、進藤の誕生日だったらしくて。
 手作りのケーキを持ってきてくれたんだ」
「……そっか。……昨日、アイツ、誕生日だったのか…。
 なのに、オレ…」

和谷四段は再び拳で自分の頭をゴツンと殴る。彼はどうやら昨日の自分を酷く後悔しているようだった。
……僕と同じように。

「藤崎さんのことで、進藤とモメたの?」
「……あかり、がさ。…えと、その、お前に言ったかどうかわかんねえけど」
「……赤ちゃんのこと?」

僕がそう言うと彼は俯いていた顔を上げ、驚いた目で僕を見た。

「…んだよ、アイツ!!
 オレには言わねぇのに塔矢にまで言うってどーゆーことだよ!」
「ちょ、ちょっと」
「……〜〜〜〜も〜…ワケわかんねえよ…」

彼はそのまま頭を抱え込んでテーブルに突っ伏してしまった。
僕は何と言ったらいいのかわからず、ただ突っ伏す彼を唖然として見守るしかなかった。

「え、と。その…僕も、詳しく聞いている訳ではないから…
 僕もその、事情はよくわからないんだけど」
「……アイツが…あかりが言うにはさ…」
「うん」
「てか、オレ昨日まで知らなかったんだよ。あかりが妊娠してること」
「え…」
「進藤しか知らなかったんだ」


そう言って彼は顔を上げると、ふう、と軽い溜息をついてすっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。



「…オレ、昇段控えてんだよ。来週末の対局で」
「来週末」
「…お前が名人戦打ってる頃。
 オレは漸く五段に上がるかどうかってこと」

彼は少し嫌味を含んだ口調で僕にそう言うと、再びコーヒーを飲む。
僕は事実を言われただけなので、何と返したらいいのか分からず、取りあえず黙ったまま彼に先を促す。


「で、ちょっとキワドイんだ、それ」
「…勝てるかどうかわからないってこと?」
「お前に言ってもわかんないかもしれないけどよ。
 …昇段点ギリギリでさ。しかも相性の悪い相手なんだ」
「誰?」
「福井ってヤツ。去年入段したばかりなんだけど、結構連勝してて注目集めてるヤツ。
 つっても、お前知らないか」

彼の言うとおり、確かに僕はその福井さんという人は知らないので、黙ったまま頷く。

「でも、去年ならまだ三段くらいだろう? キミの方がキャリアもあるだろうし」
「院生の時からのトモダチなんだよ。その時から相性悪くてさ。
 成績はオレの方が常に上なんだけど、駄目なんだ。
 ……お前って、そーゆーのもねぇの?」


苦手意識というものだろうか。
……よくわからない。打ちにくいな、と思う相手は何人かいるけど、勝てない、と思う相手はいない。
今は無理でも、いつか必ず。
そう思う相手なら、もちろんたくさんいるのだが。

ああ、そういえば。
緒方さんが苦手な人がいるって言っていたな。名前は確か……

「ま、話を戻すとさ」

彼の声で、僕は慌てて彼の話の方へと意識を戻す。

「で、しかもオレ、2回連続昇段のチャンス落としてるんだ」
「……」
「それ以外でも…勝ててないワケじゃないんだけど…結構ギリギリの対局とか多くて」
「……」
「でも、仕事は多いしさ。雑用からイベントから囲碁教室まで。
 囲碁教室は好きだし、仕事が多いのはありがたいことだけど…
 全然、勉強とか落ち着いて出来なくて」
「……」
「そんな中、お前や進藤は着々と段を上げていって。
 タイトルも手にして」
「……」
「不安だったんだ。イライラしてたんだ。自分に」
「……」
「いつまでも足踏みしている自分が、許せなかったんだ」



彼の言葉で、僕の身体が思わずビクリと揺れる。




自分が、許せない。





彼はテーブルの上で力強く拳を握りしめていた。
彼の気持ちが僕は痛い程よくわかる。


よくわかるのだ。