06-1.9





「そんな時に、あかりの事を聞いたんだ。
 進藤の口から」
「え……」
「あかりは、オレに気を使って言わなかったんだ。
 オレがピリピリしてるの、知ってたし。
 でも、一人で悩むのが苦しくて進藤に話したんだって」
「……」
「でも、でもそれって違うだろ? そう思わないか?
 だってオレの子なんだぜ!? だったらオレに言えばいいじゃないか!
 オレは誰よりもあかりのことを大切に思っているのに。
 なのにあかりにとって、オレはそんなことも相談できないようなヤツなのかって」

彼は握り拳のまま、テーブルを軽くドン、と叩いた。
カップに僅かに残るコーヒーが波を立てて揺れる。


「オレは、自分が情けなくて。許せなくて。
 …それに、あかりはずっと進藤のことが好きだったんだ。
 だからもしかして今も、って思っちまって。
 …ハハ。ホント、情けねえな。ただの嫉妬だったんだ」
「……」
「あかりのことも。囲碁のことも。
 何もオレは進藤に勝てねえのか、って。
 もしかしてあかりだって、進藤と一緒にいた方が幸せになれるかも、って」


彼は握っていた拳をゆるめ、ふう、と大きな溜息をついた。



「そんな時、進藤が言ったんだ。
 『囲碁が一番大事なんだから』って。
 あかりが言わなかったのも、オレがあかりよりも『囲碁の方が大事』なんだから仕方ないって」

「……」

「その時、オレ分かったんだ。
 進藤と付き合い始めて5年以上になるけど、やっとわかったんだ」

「…何を」

「オレと進藤は『違う』んだって」




『違う』。
進藤と、和谷四段が違う。

二人はいつも仲良さそうにしていた。
棋院でもよく一緒にいるのを見かけたし、休みになると二人でよく出かけているようだった。
進藤から嫌という程彼の名前を聞いてきたのに。

それなのに、その彼が言う。

自分と進藤は『違う』と。



















「オレは、進藤みたいになれない。
 何よりも、誰よりも、自分自身よりも、囲碁を大事だなんて思えない」

「……」

「オレは、囲碁よりもあかりが大事だ。
 あかりのためなら、囲碁を捨てることだって出来る。
 でも進藤は違う。
 アイツは、囲碁のために何もかも捨てることが出来るんだ」

「──」

「何もかも。
 たとえ、それが家族や、恋人や、大切な大切な人であったとしても。
 ──自分自身でさえも」


























僕は、自分の身体がぶるりと音を立てて震えるのが分かった。
…武者震い?
違う。

恐怖心だ。











これは恐怖だ。











怖い。




怖い。


























「…それで、オレ、言っちまったんだ。進藤に。
 オレとお前は『違う』って」

「──」

「あかりに対する嫉妬と。
 初めて分かった進藤の本質みたいなの、とかで。
 オレ、怖くなって。進藤のこと」

「──」

「言っちまったんだ。
 ……多分、これは。
 オレ、頭悪いしこーゆーのホントよくわかんねえんだけど。
 一番言っちゃいけないことだったんだ。進藤に。
 だって、『違う』って。
 『お前なんていらない』て言ってるのと同じ意味じゃねーか」












彼はまるで泣き出しそうな震える声で、僕を見つめて言った。
先程まで力強く握られていた拳は、今は微かにカタカタと震えているのがわかる。














「だって。だって、オレやお前がアイツのこと理解してやらなくちゃ。
 誰がアイツを理解してやれるんだよ。
 アイツ、またいなくなっちまうよ。四年前のあの時と同じように。
 だから、今朝消えちまったんじゃないか、って怖くなって」

「──僕も」

「え」

「昨日、帰ってきた進藤と、言い争いになってしまったんだ。
 ……申し訳ないけど、事情は言えない。
 でも、その時僕もキミと同じような事を言われたんだ。
 『囲碁さえ打てればいいんだ』って。
 僕の気持ちも、彼自身の気持ちも、どうでもいいんだ、と」

「……──」

「キミの言う通りだ。
 彼は何もかも捨てられるんだ。囲碁のために。誰もかも。
 自分さえも」

「塔矢」

「彼は、このままでは消してしまう。自分自身を」



和谷四段がスウッと息を飲む。
震える声で、「塔矢」と僕の名前を呼んだ。




何故か、その声が。

あの高くて柔らかい、彼の声にダブって聞こえたような気がした。







































『塔矢』と僕を呼ぶ声に。


















































行かなくちゃ。

何をしているんだ、僕は。































僕は、領収書を持ってガタリと席を立ち上がった。
和谷四段が慌てて一緒に立ち上がり、僕の後を追う。

会計を済ませ、足早に店の外に出る。
再び背後で和谷四段が「塔矢」と僕の名を呼んだ。

僕は振り返って彼を見つめる。
不安に満ちた、暗い瞳だった。



「……それで、藤崎さんは?」
「え」
「昨日、話し合ったんだろう」

彼は突然切り替わった話題に、ドギマギしながらバツが悪そうに答えた。

「進藤と…モメたこと言ったら、すっげえ怒られて…
 それで、朝イチで謝ろうって思ったらアイツ来てなくて。
 事務局は大騒ぎだし。
 それで…オレ、さっき言ったみたいに怖くなっちまって」
「藤崎さんのことは、どうするんだ?」
「どうするって」
「子供のこと。責任取れるのか」


僕の物言いに彼はカッと来たのか、先程までの不安な様子をすべて吹き飛ばし、掴みかからん勢いで僕に詰め寄り大声で叫んだ。


「テッ……テメエに言われるまでもねえよ!!
 当たり前だろうが!!
 アイツに、安心して産ませて、立派に育ててやらあ!!」
「結婚するのか」
「昨日プロポーズしてきたっつーんだよ!!
 アイツもOKって!! 泣いて喜んでくれたんだ!!
 今日はそれも進藤に報告したくてっ……
 ……って、何でお前に一番に報告してんだよ!! 師匠にも言ってねえのに!!」


和谷四段はフンっと鼻息を荒げると、悔しそうに地団太を踏んだ。
僕はそんな彼を見て、ホッとして少しだけ笑う。


「そう、それは良かった」
「な、なんだよ」
「進藤に報告することが出来た。きっと彼も喜ぶ」
「い、居場所わかったのか!?」
「いや」


なんだよ〜〜と言って和谷四段はガクリと肩を落とした。
でも。


「大丈夫。きっと彼は見つかるよ」
「な…だって、お前さっき『消えてしまうかも』って」
「さっき、彼が呼ぶ声が聞こえたんだ」
「…はあ?」
「大丈夫、彼はまだ消えていない。消えてなどいない」


そう。まだ、消えてなどいないのだ。






















「消してたまるか」

























たとえ彼が、僕をいらないと彼の中から消してしまったとしても。
僕は彼を消さない。
決して消さない。








何故なら僕は彼が大切だからだ。何よりも。
和谷くんが藤崎さんのことを一番大切だ、と言うように。



僕は、キミのためなら何もかも捨てることができる。

父も。母も。兄弟子たちも。
それ以外の、大切な人たちも。











僕の命さえも。



















そして捕まえるのだ。



キミと、キミの囲碁を。



僕の囲碁で。






















でも僕は、他のものを、たとえ自分の命さえを捨てたとしても囲碁だけは捨てない。

キミが僕の囲碁が、僕自身ではなく僕の囲碁だけが欲しいというのなら、くれてやる。
だから僕は囲碁だけは捨てない。絶対に。
キミのために。



キミと一緒だよ。
僕は一緒だ。















だから出てくるんだ。






































































見ていろ。













その白い光の中から引きずり出してやる。